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ノート:加賀 (空母)

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飛行甲板は2段式で中央は格納庫屋根のはずですが。--FUBUKI 2008年3月26日 (水) 14:40 (UTC)[返信]

例えば今手持ちにある佐藤和正『空母入門』(光人社、文庫版)p70だと「つまり飛行甲板を雛壇式に三段として、機種に応じ、または状況に応じて、分別使用しようというものだった。」とあります。同時に次ページでは「その上の中段の飛行甲板は(中略)実際にはまったく使いものにならなかった。」とも書いてあり、実質は二段であったことが伺えますが、「2段式」と書かれた文献を私は知りません。『写真 日本の軍艦 第3巻 空母I』(光人社)でも「飛行甲板は雛壇式の三段になっており」p92、「新造時の最大の特徴は、三段式の飛行甲板であり」p98等になっています。「2段式」と明確に書いてある文献があるのでしょうか?。--夏の雪雲 2008年3月26日 (水) 16:04 (UTC)[返信]


早速のご指摘ありがとうございます。

明確に書いてあるのは、光人社 記録写真集選 日本の軍艦 空母 32p の説明です。「二段式の飛行甲板は実用性に問題があったため(改装された)」とあります。また同34pには「このころ(昭和8年)の中段の甲板は下の戦闘機格納庫の屋根で(もっとも、読み方によっては、どちらともとれるのですが)」とあり、計画時は少なくとも3段式で、竣工時あるいは竣工後すぐに、使えない事から2段式へとあらためられたというのが私の資料からの理解です。また、他の資料でも三段式甲板と書かれていても、三段式飛行甲板とかかれていないのでこう判断しました。

問題は「中段を飛行甲板と呼べるのか?」というところだと思います。その点で飛行甲板と私には明言できません。

つまり「飛行甲板を雛壇式に三段として、機種に応じ、または状況に応じて、分別使用しようというものだった。」というのはおそらく計画時か、公式なテスト以前の考えでしょう(中段はたしかテスト時に不良と判断されたと記憶しています)。「新造時の最大の特徴」も問題のある表現で、竣工後1年以上20センチ砲塔二基が設置されておらず、20センチ連装砲が装備された時点を仮に計画の完成時とすると、中段からでは離艦不能なので2段式とした方が適当かな?と判断したところです。

また、中段には発艦痕跡が上空写真から(大砲のまわりは足跡ではげている)はまったくありませんので、当初から飛行甲板として使用はされてなかったことは推測できます。また昭和8年の加賀正面の写真から、20センチ砲の間からブリッジが見え、これを見ると飛行甲板とは書けなくなりました。これで、写真集の解説者に軍配を上げた次第です。

私も、外形から三段式と単純に思っていたのですが、空母には全く興味がなく、今回よく調べてみると「やっぱり2段式だったのかなあ?」といった感じです。半信半疑、あるいは不満なあなたの気持ちはよくわかります。

正確には「3層構造の飛行機専用の甲板をもつ空母で上下の二層から飛行機の離艦を行い、上層の甲板に着艦させた。」というところでしょう。私も三段式としたいのですが、三段式と書けなかったというところです。そのような流れを書いて読者に判断してもらうのが良いのかもしれません。

--FUBUKI 2008年3月27日 (木) 05:53 (UTC)[返信]

まず、出典の無い主張、つまり独自研究ではないかと疑いがあり強く主張させていただきました。日本海軍艦艇の記事に関しては独自研究と思われる内容が多い(多すぎる)と感じていますのでその点を確認し、出典が出ない場合は強く反対するつもりでした。半信半疑とか不満ということではないです。
「詳しい流れを書いて読者に判断してもらう」という点に関しては異論はないです。というか是非それに沿って加筆をして欲しいと思います。具体的な内容としては
  • 計画では三段の飛行甲板をもつ空母として設計された。
  • 実際には真ん中の甲板はほとんど使われなかった。
  • 外観は三段式の甲板を持ち完成したが実質上は二段空母である。
1番目、2番目については問題は無いと思いますが、3番目に関しては議論の余地があると思います。「中段を飛行甲板と呼べるのか?」という点に関しては、実際に使われなくても飛行甲板として作られたのならそれは「飛行甲板」だと私は思います。それに関して「格納庫屋根」と明言している文献があればお教えください。
少し逃げた書き方として「三段式の甲板」(「三段式の飛行甲板」とは書けない)とするか、もしくは曖昧なく書くなら脚注を利用して「『空母入門』『写真 日本の軍艦 第3巻 空母I』では「三段式の飛行甲板」としているが『記録写真集選 日本の軍艦 空母』32pでは「二段式の飛行甲板」としている」という形とするのはどうでしょうか?
「中段を飛行甲板と呼べるのか?」については興味深い話ですがここWikipediaでは「飛行甲板」として文献に記載されているかの方が重要かと思います。(以下は独自研究)羅針艦橋の写真や速力公試の写真での羅針艦橋部分を見ると、格納庫に繋がる部分は竣工前に既に完全に塞がれているように見えます。文献では「ほとんど使用されなかった」とありますが、私は「全く使用されなかった」でもおかしくないと思っています。ただ証拠が無いので断言はできません。(以上独自研究)--夏の雪雲 2008年3月27日 (木) 15:37 (UTC)[返信]


返事が遅れてすみません。また、丁寧なご案内ありがとうございます。

「格納庫屋根」と明言している文献も、記録写真集選 日本の軍艦 「空母」です。 加賀の多分同じ解説者なので、あらたな証明ではないでしょう。

  • 少し逃げた書き方として「三段式の甲板」(「三段式の飛行甲板」とは書けない)とするか、もしくは曖昧なく書くなら脚注を利用して「『空母入門』『写真 日本の軍艦 第3巻 空母I』では「三段式の飛行甲板」としているが『記録写真集選 日本の軍艦 空母』32pでは「二段式の飛行甲板」としている」という形とするのはどうでしょうか?

現状ではそれがベターなのかもしれません。ともかく赤城では同じ本でも3段式飛行甲板と書いてるので、半信半疑というのは実は私なのです。資料も航空隊のパイロットの手記あたりを探せばでてきそうなのですが。ただ、私が証明にあげた本の解説者は加賀の三段式「飛行」甲板の表現を、私の主観では解説者が意図的に回避してるふしがあります。その理由も推測ですが、結局ここでの議論と同じような思考過程があった気がします。

結局、証拠が無いので断言はできませんということでしょう。ただ、大きなふねなので資料はあると思うのですが。

あと、私が気になるのは、20センチ連装砲の揚弾システムです。これが完全な甲板砲とういうのも考えられないのですが、そうなると、下甲板のスペースや防御などどうなっているのだろうか?という疑問がわきます。このあたりは、高角砲の説明とともに、改装前の赤城加賀ともに、だれか書かないといけないだろうなと思います。もし、貴方の方で資料などがあれば、ぜひお書き添えいただければ幸いです。

では、どうぞこんごともよろしくお願いします。--FUBUKI 2008年3月29日 (土) 06:16 (UTC)[返信]


「加賀が失われたミッドウェー海戦も、レーダーとカタパルトの不存在が敗北の原因の一つとされる。」について、特にカタパルトの不存在を敗北の一因とする説を寡聞にして聞いたことがありませんので出典の明記をお願い致します。--220.108.109.226 2008年4月30日 (水) 12:18 (UTC)[返信]


機上戦死者数について 加賀のミッドウェイ海戦での航空搭乗員の機上戦死者数が21名となっていますが編集者が参考文献を読み違えておられると思います 参考にされている書物では機上、艦上あわせての戦死者が21名となっているかと思います 実際加賀がだしたミッドウェイ攻撃隊の損失は戦闘機1、爆撃機1で少なく見積もって3名です これに直掩機の損失を考慮しても艦上だけで21名も戦死したとは思えません 参考とされている書物にも21名が機上で戦死したとは書いていませんでした なので一応文献通りに書きなおさせてもらいました--220.43.176.31 2011年5月25日 (水) 10:59 (UTC)[返信]

参考文献を確認したところ、私の勘違いで「機上21名」と記載してしまいました。現在の編集のとおり、「機上13名、艦上8名戦死。合計艦戦6、艦爆6、艦攻9」でした。修正ありがとうございます。--こぐ 2011年5月26日 (木) 12:42 (UTC)[返信]

やはりそうでしたか。ご返答ありがとうございます--114.160.46.13 2011年5月27日 (金) 07:01 (UTC)[返信]

上海事変のところ

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上海事変の2月5日の戦闘機記述だが、戦闘機隊はおそらく「鳳翔」のものでは? 『中国的天空』のこの戦闘のところ(76ページ)には「所大尉の率いる3機の三式艦戦」とあり、77ページは「「鳳翔」の戦闘機隊に見つかった。所大尉の率いる3機の三式艦戦は」とあるし、戦史叢書第72巻188ページにも2月5日に「鳳翔」戦闘機隊が敵戦闘機と交戦したとある。あと、『中国的天空』には一三式艦上攻撃機が「加賀」所属とも書かれていないような--三日月会話2020年11月1日 (日) 15:05 (UTC)[返信]