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ノート:別所長治

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以前、本項は長治の妻・照子は波多野秀治の娘と(いう意味の内容に)なっていたため、加筆する際妹(娘とも)と書き換えました。どうやらゲーム「信長の野望」では娘となっているようですが、私が見た書籍は全て妹としています。実際に照子を秀治の娘とする説は存在するのでしょうか?--Kamitani 2006年9月30日 (土) 10:21 (UTC)[返信]

没日

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没日は1月7日でしょうか?それとも1月17日でしょうか?本文中と枠内の記述が違っています。--Lemon pie 2007年8月29日 (水) 05:49 (UTC)[返信]

枠の部分を最初に書いた者です。1月7日は間違いです、すみませんでした。--Kamitani 2007年10月25日 (木) 07:25 (UTC)[返信]

冷泉為純父子の殺害について

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当記事では原因不明、謀殺の可能性もあるかのような書き方がなされていますが、「三木合戦」「冷泉為純」の記事では戦死である旨が明記されています。出典ががあるのはこちらのみなのですが…出店に当たれる方は確認いただけると幸いです。Cutrotom会話2022年5月24日 (火) 15:53 (UTC)[返信]

本記事の冷泉父子について書いたのが私なので、該当箇所について説明します。出典とした文献についてですが、谷口克広『織田信長家臣人名事典 第2版』(吉川弘文館、2010年)の別所長治の項に「また、何ゆえか不明だが、籠城中の同六年四月一日、参議冷泉為純・為勝父子を殺している(公卿補任・冷泉系譜事蹟)」とあり、戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典 第六巻 京都・兵庫・岡山』(新人物往来社、1989年)252頁に「同月一日、別所方は味方に応じなかった細川為純(藤原惺窩の父)を細川館に攻め、為純を嬉野に自害させた」とあります。『戦国合戦大事典』の典拠は分かりませんが、谷口 (2010) の典拠の1つ「公卿補任」は国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができ(『国史大系 第10巻 公卿補任中編』経済雑誌社、1899年、664頁)、そこには「参議 従三位 ×同為純 四十八 四月一日於播州横死」とあります。
想像になりますが、信憑性の高い史料から確認できることは、別所長治により冷泉為純・為勝父子が殺害されたことのみで、殺害理由や殺害状況についてはこの時の情勢などからの推測、もしくは記載された史料があったとしても信憑性の劣るものなのではないでしょうか。そのため、記事では確実性の高いと思われる谷口 (2010) を主とした形にしました。
ただし記事編集後、金松誠『秀吉の播磨攻めと城郭』(戎光祥出版、2021年)に『惺窩先生系譜略』を典拠として「四月一日、別所長治は秀吉に一味した細川荘(兵庫県三木市)の領主冷泉為純を攻め、為純・為勝父子を討ち取った」とあることを確認しており、仮に推測であったとしても冷泉父子が秀吉方であったため攻め殺されたとするのが妥当であれば、そちらを優先しても良いのではないかと思います。--YasuminB会話2022年5月25日 (水) 07:24 (UTC)[返信]