ノート:凌統
剣舞のエピソードを214年と断定する根拠は何ですか?--まきびし 2009年9月19日 (土) 12:19 (UTC)
- 甘寧伝注『呉書』によると、剣舞の出来事の後に甘寧は半州に移駐していますが、半州とは214年の荊州征討の後に甘寧が太守となった西陵、陽新、下雉近辺のことと思われます。孫慮伝によると228年に孫慮が半州に開府していますが、孫慮の城址があるのは現在九江と呼ばれる地方で、陽新、下雉からさほど遠くありません。従って、甘寧が西陵太守を拝した時期が誤りでない限り、剣舞のエピソードは214年として良いと考えます。--Seiren 2009年9月20日 (日) 12:42 (UTC)
- 甘寧伝の順序はずれていて、濡須口(おそらく213年)皖城(214年)益陽で関羽と対峙したのは215年なので、甘寧が西陵太守になったのも215年だと思います。ただ、同時期に呂蒙も陽新を戴いているので、どこかが間違っていそうです。そういう訳で、今の所214年だと断定は出来ませんし、215年だとするのも危ういです。--まきびし 2009年9月20日 (日) 16:02 (UTC)
- 仰る通りで関羽と対峙したのは215年ですね、お恥ずかしいことにボケていました。すみませんでした。私も215年の荊州征討の後と断定するわけではありません。ですが、陽新の件は呂蒙伝・甘寧伝、時期・地名のうちどれが間違っているという有力な説も今のところは無いと思われます。剣舞のエピソードについては、無根拠の208年と214年の間に書くよりは仮に215年に置くほうが、呂蒙伝の記述等怪しい点はあるといっても多少の根拠がある(甘寧伝の記述に沿っている)と考えます。(議論の途中ではありますが、214年は私の間違いでしたので、ひとまず215年にエピソードを移動致しました)--Seiren 2009年9月21日 (月) 07:07 (UTC)
- 甘寧伝の順序はずれていて、濡須口(おそらく213年)皖城(214年)益陽で関羽と対峙したのは215年なので、甘寧が西陵太守になったのも215年だと思います。ただ、同時期に呂蒙も陽新を戴いているので、どこかが間違っていそうです。そういう訳で、今の所214年だと断定は出来ませんし、215年だとするのも危ういです。--まきびし 2009年9月20日 (日) 16:02 (UTC)
There's no record about when did the "sword dance" actually happen, but it probably happened around 213 to 215. By the way, I just edited the English version of his article: http://en-two.iwiki.icu/wiki/Ling_Tong EkmanLi 2010年10月6日 (水) 16:11 (UTC)
没年について
[編集]凌統は「山越にはまだ勇猛な人が多く、威恩をもって味方にすることができる」と進言し、山越討伐を行うが、討伐から帰還しようという時に病死した。三国志呉書「凌統伝」では49歳で病死したとされ、この場合、凌統の没年は237年ということになる。 しかし、呉書「駱統伝」では凌統の没後、彼の配下の軍の指揮を駱統が引き継ぎ、222年に宜都で蜀軍を打ち破った功績によって駱統が昇進し、228年に駱統が死去したと記されており、両伝の記述に矛盾が生じている。 唐代に書かれた『建康実録』には、凌統が217年に29歳で死去したと記されており、こちらの説だと駱統伝の記述と矛盾はない。凌統が215年以降に昇進したという記述はなく、また荊州攻略戦(219年)や夷陵の戦い(222年)に参加したという記録もない為、凌統伝の没年は伝写していく過程での誤りである可能性が高い。
※個人の考察なのでノートに移動させました。--そらきれい(会話) 2013年1月12日 (土) 17:01 (UTC)