コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:内藤信成

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

信成の血縁・家柄について

[編集]

内容は多少修正しました。あなたが言いたいことである家柄・血縁が別というのは、松平氏(徳川氏)の場合も入婿したために、家柄が松平氏で血縁が新田氏(得河・世良田氏)と同様ということですね。それで、家柄と血縁が別か。だから、松平氏の場合も家柄は、「賀茂氏」(松平氏)で、血縁上の「源氏」(新田氏)ではないということか…(「家柄」上なら、本多氏と同じ「三葵」の家紋を使用している親族に当たるけど…)

信成の場合も「血縁」上は松平氏で、「家柄」は内藤氏になることはなるんですが…

これがまた難しい問題なんですが…「血縁」「家柄」…また、保科正之の系統はよく松平姓に復姓できたなと思います。信成もある意味、正之と似た事情の生涯だと思うんですが。


124.144.45.235さん(↑)
そうなんです。ただ松平氏は本姓を源氏としています。本姓は男性による血縁継承と考えればいいのではないでしょうか。「家」の継承は必ずしも血縁の有無を要求されません。124.144.45.235さんが「松平内藤氏」の項目を作られたのは、信成を祖とする内藤家を詳述する意図があってのことと思います。仮に、男系血族=本姓=氏と置き換えた上で、かつ、広忠との血縁の有無があるのなら、本姓を「松平」とするのは正しい言及であると考えます。しかし血縁の有無を示すために「松平内藤氏」の用語を使用することは、これが一般的に通用している呼称であるとの誤解、もしくはそのように主張しているのだという印象を読み手に与えます。すでに信成の項に広忠実子説が紹介されていますから、松平内藤氏の記述内容を「内藤家(信成系)」として転載したらどうでしょうか。ご一考ください。
また「小野次郎右衛門の娘(“於春”説あり)」との記述なのですが、「於春」の名のある所伝もしくは記述の出典がわかるようでしたらお教えください。助かります。伝承の正否に関わらず、その存在を書いておくことは意義あることと思います。ただ記憶違いということもあるので、その時は削除をおねがいします(私も調べてみます)。広忠庶子説に関しては「藩翰譜」および「朝野旧聞褒藁」の記載を見つけられただけで(「徳川幕府家譜」=「御家譜」には「信成」としてその名があるのみ)いずれもその生母の名前までは記すところがありません。たとえばかつての小石川無量院(信正、信照などの墓所)の諸伝が、なにかの研究書や小説に書き留められたのかなとも考えました。ただ私の最初の印象は、松平信貞(昌安)の娘(清康の室)の「春姫」(「御実記」=「徳川実記」吉川弘文社刊行本1巻22項)と混同されたのではないかというものです。確認していただけるとありがたいです。どうぞよろしくお願いします。210.156.127.21 2006年11月18日 (土) 03:18 (UTC)[返信]


了解しました。

〈「小野次郎右衛門の娘(“於春”説あり)」〉

これは実は山岡荘八の「徳川家康」がヒントなんです。広忠の侍女に“お春”という女性がいましたね。ちょっと調べていくうちに小野次郎右衛門の娘と共通する部分があった思います。多分、山岡氏もこの文献を参照にしたんでしょう。

あと、「松平内藤氏」を「信成系内藤氏」に転載(変更)するのは異存はありません。お任せします。

余談ですが、岩松八弥を作成したのは僕です。この部分に「小野次郎右衛門の娘(“於春”説あり)」のヒントが隠れているような気がします。但し山岡氏の内容をそのまま取り入れたわけではありません。あくまでも“於春”という名前だけです。

こちらこそよろしくお願いします。

124.144.45.235さん(↑)
ありがとうございました。そうだったんですか。早速該当個所を読んでみます。山岡氏が参照した文献が特定できるといいのですが、いまのところ手がかりがありません。もちろん氏の純粋な創作ということも考えられます。「小説」にあらわれた記事をwikiの記述にどう生かすのか、悩ましいところなのですが、その一部が創作者の事実認識の表現であるのならば、その限りにおいてこれは1つの「説」であると思います。
「徳川家康」を読んでいないので、まだなんともいえないのですが、かりに「小野次郎右衛門の娘」として「お春」が登場するのならば、「小説『徳川家康』では広忠の侍女としてこの名が登場する」とか、「登場人物名はお春」のように変更させてください。お春が「小野次郎右衛門」と関連付けされていない場合はいったん削除しますが、その時はお許しください。
ところで、wiki参加者の中には自説提示を否定する方もいますが、私はそれには反対です。ただ、既に存在している所伝と自説とを、読み手にわかる形で提示するというのは、意義あることだと思います。これはあくまでも提案なのですが「某はこれこれに現われるが、彼女はだれそれのことではなかろうか」のようなかたちで書いてくださると助かります(結構あれこれと悩んでしまうので…)。
これからも「違うな」と思われたら、また編集をお願いします。よろしくおねがいします。210.156.127.21 2006年11月19日 (日) 18:01 (UTC)[返信]

「お春」その他に関して

[編集]

124.144.45.235さん
山岡荘八「徳川家康」の「出生乱離の巻」「獅子の座の巻」を読みました。とても魅力的な内容だと思います。広忠の侍女「お春」は八弥に殺されてしまうのですね。水野信近が信元から命を狙われるなど(熊村の女性のところに通うところを狙われ、殺害されたとの「三河物語」記述の変形)思わぬ展開に驚きました。「お春」の名は、氏の純粋な創作であると考えます。どうぞご理解ください。 内藤家長(あるいは叔父)との記述も削除しました。ネット上に「清長は信成の外祖父」とする書き込みのある掲示板があります[[1]]。おそらく小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年(第1刷)455項の記述に拠ったものと思います。しかしこれは典拠とした資料を読み誤ったものと考えます。その理由は

  • 諸書が伝える生母に関する記述(本文を参照)を無視し、信成は「母方の祖父内藤清長」の養子と断定していること

にあります。「寛政譜」の生母に関する記述は「某 右京進」(新訂13巻182項)「嶋田久右衛門景信の妻」(183項)および「信成」の項の「実は嶋田久右衛門景信の二男」「母は右京進某の女」(185項)の記述をつなぎあわせないと理解できないという、ややこしく、誤解を招きやすいものとなっています(実は私も当初誤って理解していました)。仮にこれを正しく理解していたならば、他の項目の記述内容から考えて、あえて典拠も示さずに「外祖父」と断定することはなかったと思います。したがって内藤家長を叔父とする記述は削除して良いと考えます。あわせてご理解ください。210.156.127.21 2006年11月25日 (土) 03:44 (UTC)[返信]


どうも。「利用者名: 124.144.45.235」です。PCが故障したために、別のPCからお答えします。

わかりました。いろいろとお疲れさまです。気長にやりましょう。
ところで、あなたが転載した松平内藤氏内藤家 (信成系)ではコピペ上に問題があったそうです。
念のために報告をしておきます。

(訂正)↑ 124.144.45.235です。既に別の項目で報告を拝見しましたので(僕の単なる誤解かも知れません。すみません…)、これからもいろいろな文献を見ながら投稿しましょう。いろいろお手間をおかけしました。失礼しました。


松平内藤氏から内藤家 (信成系)への移動の件

[編集]

124.144.45.235です。

あれから、家系図の訂正、文章がおかしいなと思われる箇所、文献の指摘の箇所が足りない部分は殆ど訂正しました。

ところで、松平内藤氏内藤家 (信成系)の移動の議論はまとまりましたでしょうか?

個人的ながら、気になってしまいます。僕の提案では信成の系統は内藤氏 (信成系)で、その養父の清長の系統は内藤氏 (三河系)にそれぞれ分けたほうがいいかな…と思います。
その理由は三河系の内藤氏は江戸時代に、幾多かの分家による諸藩に分かれて、信成系内藤氏ほどシンプルではないと考えております。

では、お手間をおかけしました。議論がまとまり早く再移動ができるようにお祈りします。


124.144.45.235です。 やっと解決できたようですね。安心しました。


124.144.45.235さん(↑)
さきほど「Wikipedia:削除依頼/内藤家 (信成系)」 「Wikipedia:リダイレクトの削除依頼 2006年11月」を見ました。218.45.175.253(もしくは221.113.31.172221.113.28.238)さんが短時間で処理してくださったので助かりました。
>内藤氏は江戸時代に、幾多かの分家による諸藩に分かれて、信成系内藤氏ほどシンプルではない
そうなんですよね。幸い三河を発祥とする内藤氏のうち、信成の系統村上藩)は124.144.45.235さんが項目を作ってくださったので、例えば項目名「家長系内藤氏」として延岡藩挙母藩の両内藤家を記述すればよいのかなと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。210.156.127.21 2006年11月30日 (木) 10:58 (UTC)[返信]

124.144.45.235です。ありがとうございます。それは内藤氏 (三河系)のまとめの課題ですね。僕もそこまでまとめるにはまだまだ課題がありますし、そもそも信成流内藤氏に集中したのは、やはり家康の異母弟で広忠の庶子という部分がかなり大きかったですね。
だからこそ、あそこまで気力による加筆による投稿を持続できたのだと思います。
「家長系内藤氏」に関しては210.156.127.21さんとその他の方にお任せしたいと思います。

ところで、僕は劉備の末裔と信じてるように、家康と松平氏新田氏の分家の分家と信じているのです。ちなみに家康の遠祖の可能性が高い得河義秀を作成したのは僕です。吾妻鏡の資料に大いに助けられましたね。できれば、義秀は新田義重と三河国の遊女との間にできた息子として誕生したと投稿したかったんですが、まだ資料がないためにそこまではできません。ただ、源範頼の生母が遠州の遊女の前例がありますが。
あまり関係ない話を長引いてしまい、失敬しました。以降はノート:得河義秀で続きをやりたいと思います。
では、改めてよろしくお願いします。