ノート:六條八幡宮
本記事の歴史記述について
[編集]本記事「六条八幡神社」の歴史記述について、かなり大幅な改訂が必要ではないかと思われます。ただ、私自身、神社史・神道史にはあまり詳しくないので、できれば神道系の記事執筆をされているユーザー諸賢のご意見を賜ってから改稿に取りかかりたいと思っています。
本記事によると、六条八幡神社の創建について、「前身を寺とする説」「前身を宮とする説」の2つの説があるとされています。「元は寺であったものが神社に変わった」ということは、明治の廃仏毀釈・神仏分離の時期にはたしかにありましたが、平安時代にもそのようなことがあったのかどうか疑問に思われましたので、図書館でいくつかの資料にあたってみました。その結果、「前身を寺とする説」と「前身を宮とする説」の2つがあるというよりは、これら2つは同じ伝承をもとにした大同小異の説であり、単なる書きぶりの違いではないかと思われました。
比較的信頼できる資料と思われる、平凡社『日本歴史地名大系 兵庫県』の六条八幡宮の項には、当社の創建について「神功皇后の行宮があった霊地に僧基灯が草庵(円融寺)を営み、長徳元年、地元民と協力して宝殿を造営した」とあり、典拠は元禄5年(1692年)の「寺社御改書上帳」(田中家文書)とされています。『兵庫県大百科事典』(神戸新聞出版センター編)の六条八幡神社の項には 「長徳元年、若宮八幡宮として創建された」とあって、「寺」の存在には特に触れていません。中西亨『日本塔総鑑』の六条八幡神社の項も同様です。現地・六条八幡神社の鳥居脇に立つ由緒書の立て札([1]に画像があります)には、「長徳元年に八幡三神を勧請して宝殿を建立した」とあります。史実かどうかはさておき、今挙げた典拠ではいずれも「長徳元年に八幡神を祀る社を建てた」という点は共通しています。ウィキペディアの記事で「前身を寺とする説」の典拠とされているのは長谷川周『仏塔巡礼』という本です。同書の該当ページを確認したところ、「寺を建て、八幡神を祀った」とあり、これだけでは「寺と社の両方があった」のか、「寺に八幡神を祀った」のか曖昧です。しかし、そのすぐ後に続く文章中に「(源為義の時代に)社殿を再建し、神宮寺を建てた」とはっきり書かれています。社殿を「再建」したということは、再建以前にも「社殿」が存在したということであり、当初から寺と社があったという意味に解釈せざるをえません。次に「前身を宮とする説」の典拠となっているのは、神戸市文書館のウェブサイトですが、そこに載っている説は、創建年代を長徳元年と明示せずに「平安中期」としている点を除いては、上に挙げた諸説と大同小異です。長徳元年(995年)はまさに「平安中期」です。以上のことから、創建については2つの説があるわけではなく、いずれも基本的には同じ説であると私は解釈しましたが、いかがでしょうか。
次に、本記事中には六条八幡神社の薬師堂が「円融天皇祈願所で仁和寺の子院であった円融寺の遺構」であるとありますが、京都にあった天皇ゆかりの寺院が神戸郊外の山中に移築されるという史実があったのでしょうか。本記事でこの部分の典拠とされているのは神戸市文書館のウェブサイトですが、同サイト以外にそのような説を述べている文献は見当たりませんでした。円融天皇ゆかりの円融寺という寺は今の京都市右京区、石庭で有名な龍安寺ができる前に同じ場所にあった寺院ですが、それが摂津国の山中に移築されたのでしょうか。前出の『日本歴史地名大系 兵庫県』の説明によると、僧・基灯が長徳元年に営んだ草庵の名称が「円融寺」であり、京都の円融寺とたまたま寺号が同じであったのを混同したものではないでしょうか。
上の2点について、改稿に踏み切る前に、ユーザー諸賢、特に神社・神道系の執筆をされている方からのご意見をいただければと存じます。Urania 2007年5月12日 (土) 09:21 (UTC)--誤字訂正Urania 2007年6月24日 (日) 01:00 (UTC)
- 結論から言いますと、改訂の必要があると思います。
- 『日本歴史地名大系 兵庫県』・『兵庫県大百科事典』・『仏塔巡礼』を確認しました。これらより信頼度は劣りますが、郷土史の『山田村郷土誌』・『山田郷土誌 第二編』、神社由緒が少し詳しく書かれている『兵庫懸神社誌』などを確認しました。これらでも、前身を神社とするか寺とするか二つの説があるという風には解釈されていませんでした。Uraniaさんのおっしゃるように、神社と寺院の両方が存在し、神仏習合の状態であったと解釈するのが自然ではないかと思います。書きぶりの違いは、解説の主題が神社か塔かによるものだと思います。
- 『山田郷土誌 第二編』で、薬師堂に「(円融寺の遺構)」という括弧書きが付けられていました。そこには、円融寺は僧基燈が開いた寺であるとも京都の寺であるとも書かれていないのですが、『日本歴史地名大系 兵庫県』によれば僧基燈が開いた寺は円融寺であり、もし薬師堂が京都の円融寺から移築したものであるということであれば、その部分に説明がないのはちょっとおかしいかなと、説明が省略されているのは、基燈が開いた寺のことだからだろうと思います。他の資料で見つけられないこともありますし、混同したものではないかと思います。
- 改訂とは少し話が変わるのですが、この記事は六條八幡宮に移動した方がよいのではと思います。宗教法人としての名前は「八幡神社」だと思うのですが、通称の表記は「六条」ではなく「六條」で、その際は「八幡神社」ではなく「八幡宮」が使われていると思います。--弥 2007年6月17日 (日) 07:04 (UTC)
弥さん、貴重なご意見ありがとうございました(ご返信遅くなり申しわけありません)。さて、六条八幡神社の歴史については、「寺を前身とする説」と「宮を前身とする説」の2つの説があるというのは、どうやら参考文献の読み誤りであると断定してよさそうですが、この部分の改稿は、もう少し勉強してから行うこととします。「六條八幡宮」にページ名変更すべきではとのご提案についても、今回は判断を保留させていただきます。なお、本記事については、他に以下の点も明らかな誤りと思われますので、これらは今回訂正するとともに、典拠を明記しておきます。
- 「瓦葦にして入母屋造の本殿」とありますが、六条八幡神社の本殿は入母屋造瓦葺きではなく、流造銅板葺きです。(典拠は『兵庫県大百科事典』、神戸新聞出版センター、1983)。本殿の画像はたとえばこちら[2]にあり、本殿の建築形式は明らかに流造です。本殿を「瓦葦にして入母屋造」とする記述の典拠は「神戸市文書館」のサイトですが、このサイトにリンクしている画像は「本殿」ではなく「拝殿」の画像です。「本殿の建築形式」は、神社の解説においてもっとも重要な要素の1つであり、それが間違っているようなサイトは情報源として信頼するに足りないので、典拠表示をはずすこととします。
- 「藤原周次・藤原光重という2人の大工の作であることが棟札の墨書によって確認されている」とありますが、中西亨著『日本塔総鑑』(同朋舎、1978年刊)に棟札の墨書の書き下しがあり、それによれば、「大工」は藤原周次のみで、藤原光重は「小工」です。
- 「仏画を(三重塔の)内部に置いている」とありますが、安置されているのは「仏画」ではなく(彫像の)「仏像」です。渡辺義雄『日本の塔-信仰とその象徴』(毎日新聞社、1982)という写真集を見ると、六条八幡神社三重塔の初層内部には大型の仏教式の厨子が置かれ、彫像の阿弥陀三尊像が祀られていることがわかります。「仏画を置く」という表現自体が不自然であり、記述の典拠とされている長谷川周『仏塔巡礼』にも「仏画が懸けられている」とあって、「仏画を置く」とは書かれていません。
- 「円融寺」を「仁和寺の子院」とするのは、上の利用者:弥さんの意見も踏まえて見るとやはり誤認と思われ、典拠となっているウェブサイトも信頼性の低いものなので、その旨の記述を削除します。
- 三重塔について「室町時代中期ならではの古典的な特色を色濃く示す」との説明がありますが(出典は長谷川周『仏塔巡礼』)、「室町時代中期ならではの古典的な特色」の意味が不明です。この三重塔の建築様式は典型的な和様ですが、日本の木造仏塔は時代を問わず和様を基調とするものが多く、「室町中期」という狭く限定した時代「ならでは」の「古典的な」特色がどこにあるのかわかりません。以上により、「ならでは」以下の文言を削除します。
- 「檜の皮葺く屋根を持ち」という表現がありますが、「檜皮葺き」と書いて「ひわだぶき」という建築用語を使うのが普通です。たしかに、「檜皮葺き」とは檜の皮で屋根を葺くことであり、著作権の点を意識してわざわざ表現を変えたものかとも推察されますが、文化財建造物の説明に際しては、標準的な用語を使うべきです。
- 「能の舞台」という表現がありますが、「能舞台」とするのが普通です。これも著作権の点を意識してわざわざ表現を変えたものかもしれませんが、「能舞台」で1つの言葉と見なしてよいと思います。
- 神社の住所のような自明の情報について特定のウェブサイトを典拠として挙げる必然性を感じないので典拠を除去します。Urania 2007年6月24日 (日) 01:00 (UTC)
改名提案
[編集]定義文はすでに変わっていますが、ホームページや兵庫県神社庁神社検索で「六條八幡宮」と表記されており、神戸市の紹介ページでは「六條八幡神社」と表記しているものの、縁起の節で「六條八幡宮と呼ばれるようになった」と書いています。
上記をふまえ、本記事を「六條八幡宮」に改名することを提案します。--ratexio(会話) 2019年2月14日 (木) 14:45 (UTC)
- 済 異論なしと認め、改名しました。--ratexio(会話) 2019年2月22日 (金) 13:05 (UTC)