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ノート:全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言

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リストについて

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一応、英語版の記事がベースといえますが、原文を『生命の木』に基づいて微修正した他、1590年以前の解釈も同書を基準とする形で全面的にチェックし直しました(反面原著の分かりづらい箇所の理解を、英語版で補ったものもあります)。1590年以降の信奉者の注釈については、英語版のほか、仏語版、西語版も部分的に参照し、ほかレジュの著作とJ.-Ch. Fontbrune, Histoire et Prophétie des Papes, Monaco, 1984も参照しました。事実関係については極力裏づけを取るようにしたつもりですが、誤りがあれば訂正をお願いします。ステッラータ川(84番)のように、疑いつつも断言に至らなかったものもあります(190以上記事が含まれている伊語版の「イタリアの川」のカテゴリ(It:Categoria:Fiumi dell'Italia)にもないので、川の名前自体が捏造だろうと思いますが)。なお、「偽書と見なすのが一般的」という記述には信奉者側の反発があるかも知れませんが、百科事典、歴史事典、人名事典等でこの予言の真偽に言及しているものは、大抵偽作ないしその疑いが強いと位置付けていることを踏まえたもので、(私自身偽作説に立ちますが)私の主観による加筆ではありません。念のため。Sumaru 2006年3月26日 (日) 11:43 (UTC)[返信]

予言か預言か

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場所を移しました。--Sumaru 2008年6月18日 (水) 14:22 (UTC) マラキのものは 予言なんでしょうか? それとも預言なんでしょうか? キリスト教的に意味が違う用法がここでは統一が取れていないようですが。 --222.147.249.170 2008年6月18日 (水) 04:34 (UTC)[返信]

冒頭に「歴代ローマ教皇に関する予言または預言である。」と記載してあるとおりです。聖マラキの名を持ち出している以上、偽作者は「預言」であることをにおわせて権威付けようとしたのでしょうけれど、ヴィオンが来歴を全く語っていない以上、本当にそういう意図があったのかは不鮮明です。Prophetiaは「預言」と「予言」の二様に訳せますから、ここでの用法は断定できないとしか言いようがありません。
なお、記事名と冒頭の定義を除けば、それ以降は便宜上「予言」で統一していますから、統一が取れていない、ということはないと思っています。--Sumaru 2008年6月18日 (水) 14:22 (UTC)[返信]

112代法王候補の枢機卿

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80歳未満の115人の枢機卿による選挙(コンクラーベ)によって2013年3月12日に選ばれる。 有力候補は

  • イタリアのアンジェロ・スコラ枢機卿 Angelo Scola
  • イタリアのタルチジオ・ベルトーネ枢機卿 Tarcisio Bertone
  • ブラジルのオヂロ・ペドロ・スケレール枢機卿 Odilo Pedro Scherer
  • カナダのマルク・ウエレット枢機卿 Marc Ouellet

「ペトロ」は聖ペトロにちなむヨーロッパ諸言語の一般的な男性名 としても用いられ、現代言語では英語のピーター、フランス語のピエール、 イタリア語のピエトロ、ドイツ語のペーター、スペイン語・ポルトガル語 のペドロ、ロシア語のピョートルなどのように発音される。

スケレール枢機卿はローマのグレゴリアン大学で神学の学位を取得。 ブラジルは、世界で最も多くのカトリック人口を擁する国である。国民の約73%が、カトリックの信者で、これは1億1240万人に相当。——以上の署名の無いコメントは、Nostradamusノート履歴)さんが 2013年3月8日 (金) 23:06‎ (UTC) および同日 23:09 (UTC) に投稿したものです(Sumaru会話)による付記)。[返信]

出典は信頼できる情報源か?

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出典となっている山津さんという方は、wikipediaの基準に合致する信頼できる情報源と言えるでしょうか?検索しても、経歴も業績も皆目わかりません。こうした問題ですから、神学、哲学、あるいは西洋文学の教授・準教授やある程度の業績をお持ちの講師クラスならその論評を載せるのもwikipedia的に可でしょうが、この方は客観的に専門家と証明可能な方なのでしょうか。検証可能性のページにはこうあるのですが、「一般的に良い情報源とされるのは、事実・法的解釈・証拠・主張などの点が専門家によって検証・分析されているものです」この方が果たしてwikipediaで典拠として良い基準を満たしているのか、疑問に思います。--Michael tiara会話) 2013年3月20日 (水) 10:47 (UTC) 修正--Michael tiara会話2013年3月21日 (木) 03:57 (UTC)[返信]

私はその山津寿丸自身なので、信頼できる情報源なのかどうかという判断は避けますが、2点だけ。
  1. 検索しても、経歴も業績も皆目わかりません」とのことですが、少なくとも最低限の学歴とかつての専攻分野については著書の略歴に掲載しましたし、出版社のサイトにも載っています。神学などの専門家ではありませんが、それはそれとして16世紀の偽書として事実上決着しているものについて、神学や哲学が主対象になるというのはよく分からない話です。
  2. 版元の文芸社は自費出版も行っていますが、これは企画出版です。それを客観的に立証するのはおそらく難しいと思いますが、共著者のASIOS菊池聡氏は予言をはじめとするオカルト現象への懐疑的分析で定評も出版実績もある方たちなので、そういう方たちと一緒に本を出しているという事実によって、信奉者的予言解釈への検証に関する最低限の信頼性を担保できていると、加筆に当たって私は判断していました。
以上ですが、ほかの方々からの議論の結果、「山津の論考は信頼できる情報源とはいえない」という結論になったとしたら、その合意には従います。
なお、Michael tiaraさんは教皇フランシスコがこの予言に適合するかのように加筆しておいでですが、それはWikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成に抵触しかねない行為ではないでしょうか。解釈関係はこのノートの上のほうで書いたように、私がもともといろいろ書いたものですが、脚注方式をとっておらず、修正の余地が大きいものです(前にローカルで書き溜めていた修正案がどこかに行ってしまったので、見つかるまでとりあえず放置していますが)。検証可能性について厳密に解釈するべきだというのなら、Michael tiaraさんが挙げたような点をもとに、実際に解釈している論者の文献を挙げていただかないことには、この記事で言及する必然性に乏しい情報に思えます。--Sumaru会話2013年3月21日 (木) 03:22 (UTC)[返信]
ご本人とは知らずに、失礼致しました。申し訳がありません。とりあえずコメントを上記のように訂正させて頂きました。--Michael tiara会話2013年3月21日 (木) 03:57 (UTC)[返信]
返答させて頂きます。まず、典拠の本を実際に執筆されたご本人とは知らず、不躾なことを書いてしまったことは、申し訳なく思います。無礼はお許し下さい。次に最後にご指摘の箇所についてですが、
この予言に適合するかのように加筆しておいでですが
適合する、とは私は一言も書いていないですので、それは独自研究にはあたりません。どのような意図で編集されたように見えるか、はwikipediaでは問題にはされないのです。ただし、私が勝手に論評を載せたりしたら別です。例えば、だからマラキの預言は当たるだろう、とでも書き出したら、それは独自研究にあたり、削除対象になります。またイタリア系移民であることと、フランシスコの本名は書きましたが、繋げて何かの結論を導いているわけでもないですので(そう見えるかどうかは、読み手の問題です。私は一応、二つの事実を書いただけです)、「情報の合成」にもあたりません。例えば、互いに直接関係のないAという情報とBという情報を出して、さらに全然関係ない典拠をもとにCという情報をその結論だ、と言い出したりすれば、それは情報の合成にあたりますが、今回のケースはそうではないからです。そこまでは、ご理解頂けましたでしょうか。山津様典拠の箇所については、次の機会に書かせて頂きたく思いますが、出典のご本の執筆者とのことですので、直接これこれのルールに反するから、と機械的に申し上げてしまうのも、なんとなく気まずくは思います・・・。もう少し無難な表現でコメントさせて頂きたくは思います。--Michael tiara会話2013年3月21日 (木) 07:13 (UTC)[返信]

フランシスコの情報について

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論点が異なるので、これについては節を分けます。さて、AとBを並べただけでCを書いていないからセーフということなのだろうということは、先の書き込みの時点で理解できていました。だからこそ「抵触する」ではなく「抵触しかねない」と書いたのです。

しかし、あの方針では「AとBを組み合わせてCという観点を推進するような記事を書いてもよいと誤解するウィキペディア編集者が、しばしば見受けられます」(強調は引用者)とあるとおり、そのような「観点を推進する」こと自体が否定されています。Cを明記しなければセーフという問題ではないでしょう。

特定の観点(それが「予言が大当たりした」か「不思議な偶然もあるものだね」かはともかく)を推進する意図がないのなら、そもそもフランシスコがイタリア移民であるとか、聖フランチェスコの本名が何であるかは、それ自体としては記事の主題とは関係のない情報なのですから、それぞれの記事に書けば十分でしょう。太字を混ぜてまで書く必要のある情報には思えません。この記事を読んだ方がフランシスコ (ローマ教皇)の記事にジャンプしてイタリア移民であるという情報を知り、さらにアッシジのフランチェスコに飛んで本名を知り、その情報をどう合成しようと、それは読者の勝手です。ですから、現状では「この記事で言及する必然性に乏しい情報」だと申し上げたのです。--Sumaru会話) 2013年3月21日 (木) 13:58 (UTC)少し追記--Sumaru会話2013年3月21日 (木) 14:32 (UTC)[返信]

教皇フランシスコとマラキの関連性を示す典拠自体には困らないと思いますよ。例えば・・・検索しただけで、これだけはヒットします。
https://www.google.co.jp/search?q=Saint+Malachy%E3%80%80Francis+&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a#hl=ja&client=firefox-a&hs=0W3&rls=org.mozilla:ja%3Aofficial&sclient=psy-ab&q=Saint+Malachy%E3%80%80pope+Francis+pietro&oq=Saint+Malachy%E3%80%80pope+Francis+pietro&gs_l=serp.3...79890.80083.4.80376.2.0.2.0.0.0.0.0..0.0...0.0...1c.1.7.serp.0zbxVRxV5fE&psj=1&bav=on.2,or.r_qf.&bvm=bv.44158598,d.aGc&fp=a068ab8450a8bc9c&biw=1024&bih=615
この中から、検証可能性を満たしそうなものを引っ張ってきて脚注として載せればいいだけでしょうし、さほどに難しい作業ではないです。しかも、教皇が即位して数日でこれだけ各所に記事がありますから、時間が経てばたつほど、増えていくでしょう。が、山津さんはこうしたものの専門家?を自負されてもいるんでしょう?(信用性がなければ、wikipediaへの掲載要件を満たしにくいですから)wikipediaのルール等の前に、現状の112部分の山津さんの説明は除かれたらいかがですか?実際にその本を書かれた執筆者みたいですので、こんなお話をしますが、執筆者として両者(教皇フランシスコ説と、例えば、ローマとペトロの二人説等)を比べてどう思いますか。私はちょっと遠そうな説明(といっては失礼ですが)は除いておいて、正鵠を得ていそうな記述だけ残しておいてはどうか、とは思うのですが。--Michael tiara会話2013年3月21日 (木) 16:31 (UTC)[返信]
また私はこの話だけすれば、他の問題(山津さん自身の検証可能性等)は争点にしなくてもいいとは思っています。中には、特に今渦中のTPPのページとかでは、これは経済学なので、単行本は論外、共著も駄目、査読のある一定以上の研究誌でないと出典として不可!とか息巻いているのもいたりします。wikipediaにおける検証可能性とはこう、結構微妙な問題なわけですが・・・ただwikipediaによく書かれる実の執筆者の方みたいですので、そうした問題を議論するより、ダイレクトにもっと気になることを伺いたいです。--Michael tiara会話2013年3月21日 (木) 16:40 (UTC)[返信]
>特に今渦中のTPPのページとかでは、これは経済学なので、
予言が当たった、外れたというレベルの話は通俗的なものなので、コンビニ売りのオカルト本あたりでも、「信奉者はこう解釈している」という意見の紹介としてなら、出典になりうると思っています。Wikipedia:信頼できる情報源#意見にも「ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(略)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます」と明記されています。
(だからこそ、逆に「懐疑派にはこういう見解がある」という“意見”として、私が公刊した文献に書いたことを挙げることも許容されるとの認識でいます。)
逆に査読付きの学術誌に限定してしまったら、肯定派の意見などほとんど全くといってよいレベルで掲載できなくなるのではないでしょうか。--Sumaru会話2013年3月22日 (金) 03:01 (UTC)[返信]
>検証可能性を満たしそうなものを引っ張ってきて脚注として載せればいいだけでしょうし、さほどに難しい作業ではないです。
なら、言うだけでなく、早急にそれを実行なさってください。あなたがおっしゃるような「神学、哲学、あるいは西洋文学の教授・準教授やある程度の業績をお持ちの講師クラス」の出典が見つかるのかは存じませんが。
>教皇が即位して数日でこれだけ各所に記事がありますから、時間が経てばたつほど、増えていくでしょう。
私も少なくともコンビニ売りのオカルト本などでならいくつも出てくるだろうと考えています。ですが、ウィキペディアは未来を予測する場ではありません。仮に書くとしても、そういうものが実際に出てから書けばいいだけの話です。
>執筆者として両者(教皇フランシスコ説と、例えば、ローマとペトロの二人説等)を比べてどう思いますか。
どうも何も、参考文献欄にも挙げた、上智大学の『カトリック大辭典IV』でも60年近く前に偽書と断じられているものについて、教皇フランシスコなどを持ち出すこと自体がナンセンスでしょう。別に上智のだけでなく、偽書だということはこの予言に触れている辞書・事典類ならたいてい書いてあることです(三交社『聖人事典』など)。百科事典であるウィキペディアで教皇フランシスコ説を「正鵠を得ていそうな記述」として残すのが妥当だというご認識なのでしょうか。ちなみに記事にも書いてあるように2人説は「ローマ」「ペトロ」ではありません。
最後の予言が2段落に分かれていることは、出典に挙げたようにアルブロンや彼が引き合いに出している論者が言っていることですが、そもそも横に掲げた初出(1595年)の画像を拡大してご覧いただけば、あなたにだって容易にご確認いただけます。
>現状の112部分の山津さんの説明は除かれたらいかがですか?
現状の記述に修正の余地が多いということは、上でも認めたとおりです。その修正の仕方は「全部削る」「全部に出典をつける」の2通りあります。私は後者をいずれやらないといけないと思っていましたが、別に前者なら前者でかまいません。ここ数年、いずれ私的なサイトで112の検証をやりたいと思う反面、ウィキペディアのパクリと勘違いされるのも嫌だし、あんなに詳しい解説を投稿しなければよかったかなという迷いもあったので、あなたの提案はある意味で渡りに船です(笑)。
一応確認しますが、予言の個別の解説はナシで、この記事は概説にとどめるという方向性でよろしいのでしょうか。そうなら、節を改めて別に提案いたしますが。--Sumaru会話2013年3月22日 (金) 03:01 (UTC)[返信]
(追記)ああ、失礼。「112部分」というのは「112の予言について個別に解説している部分」の意味かと思っていましたが(何しろそのほとんどを書いたのは私なので)、「112番目の予言について説明している部分」の意味なんでしょうか。だとしても、意味不明な提案です。最後の打ち切り漫画云々を削るくらいなら同意しますが、「注釈であって予言でない」と主張しているアルブロンはパリ大学で予言史研究によって歴史学博士号を取得した専門家です。なぜ、あなた個人の「ちょっと遠そう」などという印象論で除かないといけないのか、分かりません。逆にそれすら除くべきだというのなら、やはり112個全て削らざるを得なくなるでしょう。--Sumaru会話2013年3月22日 (金) 03:43 (UTC)[返信]

リストの扱い

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上の節の話と関連しますが、私は一時、予言のリストは全削除で構わないという考えに傾いていました(正直うんざりとさせられたので)。しかし、英語版のリストがいつの間にか検証可能性を満たす形で充実していたので、一度リストの全削除で合意に達したとしても、再び移入しようとする方が現われる可能性があると考え、不正確な形で移入されてしまうと後から調整するのが非常に難しくなるので、むしろ英語版のリストを土台にして、情報の追記を行う方がいいかと思いなおしています。たとえば、予言22番「打ち倒された竜」について、英語版ではそれが本人の紋章ではなかったということが明記されていますが、ならばそれは誰(何)の紋章なのかということは書いてありません。しかし、手持ちのフランス語文献にはその辺りにまで踏み込んでいるものがあるので、そうした追記をしたいということです。

ただし、上でMichael tiaraさんは検証可能性についてのハードルを上げようとしており、それを採用するなら、そもそもリストは作れません。「神学、哲学、あるいは西洋文学の教授・準教授やある程度の業績をお持ちの講師クラス」に該当する論者で予言のひとつひとつを検証した人物など相当に限定されてしまうからです(Peter Bander は一応当てはまるでしょうが、彼の本は古いのでパウルス6世までの解釈しかありませんし、彼だけに依拠するのは中立的ではありません)。

しかし、Michael tiaraさんはご自身の主張の出典を挙げる段になったら沈黙していますし、その主張に賛同する他の方も現れていません。ですから、さらに1週間ほど待って実質的な進展がなければ、彼の提案は支持を得られなかったものと判断します。その場合、全面改訂したリストを投稿し、あわせてそれ以外の記述についても、この予言が偽書に過ぎないことを一層はっきりと示す方向で改稿します。なお参考までに、この予言を偽書としたり、マラキとの関連づけが不当なものとしている専門事典を、私が認識している範囲で挙げておきます。

  • 上智大学 『カトリック大辭典IV』 冨山房
    • 上智学院 新カトリック大事典編纂委員会 『新カトリック大事典 第4巻』 研究社
  • 小林珍雄 『キリスト教百科事典』 エンデルレ書店
  • 日本基督教協議会文書事業部 ほか 『キリスト教大事典』改訂新版 教文館
  • A. ジンマーマン 『現代カトリック事典』 エンデルレ書店
  • M. バンソン 『ローマ教皇事典』 三交社
  • D. アットウォーター ほか 『聖人事典』 三交社

以上です。もちろん、アルブロン、リーヴス、ミノワなど、予言や宗教思想を専門としている歴史家たちが偽書扱いしていることにも言及する予定です。--Sumaru会話2013年3月31日 (日) 02:30 (UTC)[返信]

改稿いたしました。明日発売の『ムー』にマラキ関連の記事が載るようなので、通俗的な信奉者側の見解などについて、まだ少し加筆するかもしれません。なお、Michael tiaraさんの履歴を拝見する限りでは、数日前に他の記事で2万バイト近い大幅加筆を行っていますので、この件については意図的に放置なさっているものと判断せざるをえません。ですので、彼の「正鵠を得ていそう」「ちょっと遠そう」などという出典のない主観を基準にした、記述内容の取捨選択の提案を考慮する必要はないものと考えました。--Sumaru会話2013年4月8日 (月) 13:27 (UTC)[返信]

>リスト内は仮リンクにしないほうが参照しやすいと思います。
承知しました。Sumaru さんがお書きになった項目なので、余計なことをしてしまい、失礼致しました。現在、仲間たちと項目フランシスコ (ローマ教皇)の初版完成を目指しており、調べ物をしていたらたどりついた次第です。どうも、フランシスコを最後の教皇にしたい加筆者もいるようで、他はともかく、その個所の恣意的な解釈は、辞書項目の記述に相応しくないような気が致します。他の点は勉強になりますが、私はカトリックなので、どうにもギャグにとらえられません。あやうくサブカル項目になるところを renflouer された、Sumaru さんのご努力に敬意を表させて頂きます。Tizizano会話2013年4月10日 (水) 11:30 (UTC)[返信]
>余計なことをしてしまい、失礼致しました。
とんでもありません。何か責めるトーンに読めてしまったのだとしたら、その点はこちらこそお詫びします。
私は無宗教者ですが、112番目を現教皇と結びつける記述に不快感を覚えるお気持ちはよく分かるつもりです。ただ、日本のオカルト本は本当にひどいです(前教皇のときにも「111番目だから彼は偽教皇」という凄まじい論理を展開したコンビニ本がありました)。おそらく国際情勢などで不穏な空気が強まれば、ここぞとばかりに書きたてようとする利用者が出てくることでしょう。
何も書かないよりは、最低限度書いておいて、そこに押し込めるようにしてあるほうが、記事全体へのダメージは及びにくいのではないかとは感じています。
関係ないことですが、フランシスコ (ローマ教皇)については、選出直後に読んで眉をひそめました(どういう点にか、はあえて申しません)。さきほど見てみて、まったく見違えるように成長していることに感動いたしました。これこそあるべき百科事典の姿だと思います。--Sumaru会話2013年4月10日 (水) 14:10 (UTC)[返信]

質疑1

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「生命の木」ではなく「生命の樹(セフィロトの樹)」ではありませんか?——以上の署名の無いコメントは、Nostradamusノート履歴)さんが 2014年1月3日 (金) 07:03 (UTC) に投稿したものです(Sumaru会話)による付記)。[返信]

生命の樹くらいは私も存じていますし、それが書名の由来だとしても何の不思議も感じませんが、ヴィオンの書名の由来をそれに直結させた信頼できる情報源には心当たりがありません。--Sumaru会話2014年1月16日 (木) 09:04 (UTC)[返信]

質疑2

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信奉者vs懐疑派 という話に掏り返られていて甚だ不快というか、こういった予言に信奉者は皆無。予言に関心がある人と無い人がいるというのが実態であって、関心がある人の中で、予言が的中したのか否かで意見が別れるだけ。信奉者で無い人の中に肯定的見解と否定的見解が普通にあるだけ。UFO信者がUFOが実在するか否かの論議に加わることが無いのと同じ。だから、wikiの記述を全般的に直すべき。信奉者は~懐疑派は~でなく、Aという説やBという説やCという否定的見解があると。 Wikipediaでここまで中立的な記述を廃した編集は初めて見た!信奉者とかいう言葉を使い出した人は誰? 事実を記述するべきであって個人の見解を展開するところじゃない。中立的な記述に戻せ。 あと、文体も一部丁寧語になってたりして変。uとv、sとfも判別できてないし。一部修正したけど。疲れる。--nos.会話2014年1月3日 (金) 07:06 (UTC)[返信]

まず文字の書き起こしですが、あなたが f と誤認したものはよく見ていただくと分かるとおり、横線がありません(印字によっては左半分のみあったりします)。これは s の異体字で、古い印刷本では普通に見られるものです。同じように u と v なども同様です。要するに判別できないのではなく、意図的に初出の表記に忠実に記載しているだけです。冒頭に初出の画像があるのですから、拡大してごらんいただければ、容易にご確認いただけます。
>こういった予言に信奉者は皆無。予言に関心がある人と無い人がいるというのが実態であって、関心がある人の中で、予言が的中したのか否かで意見が別れるだけ。
このように分類してある信頼できる情報源を具体的に挙げてください。ウィキペディアは事実かどうかではなく、検証可能かどうかが問われるというのは、Wikipedia:検証可能性に明記されている通りです。同様に、110番や111番の解釈についても、そのような解釈を展開している論者を具体的に記載してください。日食が事実かどうかではなく、そのような解釈を誰がしているのかが示されなければ、Wikipedia:独自研究は載せないに反します。--Sumaru会話2014年1月3日 (金) 11:16 (UTC)[返信]

●古期のラテン語ではUは存在せずVで表されていた。 UとVは、もともとは同じ文字で、書体が異なるだけだったが発音(母音・子音など)の相違を示すために使い分けられるようになったが、当時印刷に携わる者が混同して使用してることが沢山ある。iとj、sとfも同様に混同が多い。fの横棒が突き抜けてないもの以外異体字ではない。
●神の「預言」が外れることは無いと信じるのはキリスト教信者にとっては普通であって、それ以外の「予言」が外れても何ら不思議は無いと思うのも普通である。このProphetiaに「預言」という字をあてるのも間違っている。(古典ギリシア語「Prophetes」も漢語の「預(あらかじ)め語る者」も、神の代弁者と未来を語る者の区別は無かったが、現代の日本語では区別されている)
●宗教や予言といった非科学の分野に、オカルト信者の解釈を並べ立てるのは間違い。その解釈が本になっていても論者として記載すべきではない。 解釈は各人がすればいい。聞いたことも無いような眉唾な俗説(川尻など)を沢山集めて載せているのはあなたであって、そういう怪しい解釈を集めることでマラキ予言を批判し貶めるのはやめてもらいたい。それは、3797年までの予言を記し至福千年紀の到来を予言したノストラダムス師の予言を、どうにでも解釈できるとか、カルト的な終末論者の夢想をもって貶めるのと同じくらい愚かで無意味なこと。眉唾な俗説はトンデモ本にでもして自費出版すればいい。 出典も40.41.44.253.261にいかにも怪しいものが挙げられているし、参考文献にも二見書房やムーといったオカルト本が挙げられている。 マラキ予言がマラキ本人の執筆で無い偽書の可能性が高かろうが低かろうがどうでもいい。偽書と信奉する者が、真書と信じて疑わない者があたかも多数存在しているかのように妄想しているとしか思えないような記述は違和感がある。 大槻義彦vs韮澤潤一郎なら娯楽番組としては面白いかもしれない。 事実関係と代表的な見解を1~2つ厳選して載せれば十分。
●日食に関しては検証可能な事実。10年に数百日、月に2回くらい世界のどこかで日食は起きているのだから枢機卿の15人に1人くらいは日食の日に生まれているだろう。ヨハネ・パウロ二世に関して当たったかと問われれば当たったと言える。
●信奉者信奉者と、いかにも信奉者という妄信者がいてそれらを否定しているようにしか読めない記述が多すぎる。上記のように肯定的見解を示したからといって私自身信奉してるわけではないし、かといって偽書と信じたりもしていない。マラキ予言を信奉している人や偽書と信じてる人はマラキ予言の記述をすべきではない。「信奉者」「懐疑派」などという語は使わずに記述をお願いしたい。解釈は何千何万何億と存在しうるのだから、解釈を多数列記したいのであれば、「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」やその注釈などを使わずにご自身のSNSやHP、またはwikipediaで解釈論戦のページを別に作るなどしてやってください。--nos.会話2014年1月3日 (金) 18:53 (UTC)[返信]

文字の使い分けなど、VndoſusをVndosusと一貫して直している方(現代式に直すならUndosusでしょう)からご教示いただかなくとも存じております。本文には「標語、教皇名、解説を原典どおりに記載する」と明記しているのですから、中途半端な修正はノイズを増やすだけです。
>オカルト信者の解釈を並べ立てるのは間違い。その解釈が本になっていても論者として記載すべきではない。
Wikipedia:信頼できる情報源#意見に「ある人やグループがある意見を表明したということは事実であり(略)、そのことが検証可能である(つまり、そうした人や団体が意見を表明したことを示す適切な情報源を参照できる)ならば、そのことはウィキペディアに含めることができます」とあるとおりで、「本になっていても」云々は、あなたの個人的な好みの問題でしかありません。
>代表的な見解を1~2つ厳選して載せれば
で、その「代表的な見解」はどういう基準で厳選するのでしょうか。出典をきちんと挙げた懐疑的な見解をいくつも削り落としておいでのようで、単にあなたが気に入るか、気に入らないかという基準でえり分けられているようにしか見えませんが。
>偽書と信じてる人はマラキ予言の記述をすべきではない。
偽書と信じているも何も、本文に記載した通り、これに言及しているほとんどの百科事典や人名辞典、神学者・宗教史家の文献などが偽書と断じているのですから、偽書と見なして叙述するのは自然です。Wikipedia:中立的な観点にも「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください」と明記されています。
それと日食についてですが、Wikipedia:独自研究は載せないには「ウィキペディアで公開されるいかなる事実、意見、解釈、定義、論証も、信頼できる媒体において、その記事の主題に関連する形で、既に発表されていなければなりません」(強調を追加)とあるとおりで、事実だから何を書いてもいいというのは誤っていますし、「ヨハネ・パウロ二世に関して当たったかと問われれば当たったと言える」という観点を推進する目的で記載するのは論外です。
あなた個人がどういう心情をお持ちであろうと自由ですが、方針文書に対する無理解が目立ちすぎます。かりにあなたに譲歩できるポイントがあるとすれば、「信奉者」という語を一律「肯定派」ないし「擁護派」に書き換えることくらいです(二項対立的な論争が繰り広げられてきたということは、オモテに挙げた複数の文献にも明記されていることなので、それ自体は書き換える必要性があると認識していません)--Sumaru会話2014年1月3日 (金) 21:35 (UTC)[返信]

海外サンプル

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Prophecy of St Malachy——以上の署名の無いコメントは、Nostradamusノート履歴)さんが 2014年1月3日 (金) 20:48‎ (UTC) に投稿したものです(Sumaru会話)による付記)。

上記サイトはオーストラリア人の個人的サイトでなんら公式でないと記載されていますし[1]、このようなサンプルをわざわざ掲示する意味が余りあるとは思いません。
nos.さんは、フィナテリ氏の懐疑論についてトンデモ解釈であるとか蛇足という理由でどさくさまぎれに除去しておいでです。しかし、本文にも記載している通り、フィナテリ氏は聖アントニオ神学院の元教授・校長であり、紛れもない専門家です。そして、偽書説に立脚した彼の懐疑論は、他の百科事典・人名辞典および神学者・宗教史家などのほぼ定説化した(少なくとも相当程度に有力視されている)見解にも何ら反するものではなく、「トンデモ」と位置づけるのは明らかに虚偽の理由説明です。そして、正当な理由なしに信頼できる情報源を明記した記述を除去することは、Wikipedia:荒らし#不当な白紙化の「まとまった部分の記述を理由もなく除去」に該当する不適切な行為にほかなりません。
海外の個人サイトを「サンプル」などと称して掲げるくらいなら、それよりも先に、フィナテリ氏の見解を「トンデモ」と位置づけたことが正当であると証明できるような信頼できる情報源を挙げるべきでしょう。それがおできにならなければ、あなたの行為は投稿ブロックにもつながりうる行為だということを御自覚ください(今後、不当な除去が繰り返されなければ、今回の件のみを理由にブロック依頼することは考えていませんが)。--Sumaru会話2014年1月5日 (日) 01:39 (UTC)[返信]