ノート:元弘の乱
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用語の整理の提案
[編集]「元弘の乱」という用語が、1331年の戦乱(元弘の変)を指すのか、1333年の戦乱(鎌倉幕府の滅亡)を指すのか、ウィキペディア内でも統一されていません。統一すべきであると考えますのでご意見をお願いします。--猪山人 2006年6月6日 (火) 12:19 (UTC)
- 私の見解とネット検索の限りだと現在では、1331年から1333年までの出来事を一つの事件と見なして「元弘の変」あるいは「元弘の乱」と呼んでいる状態が一番多いような気がします(承久の乱も承久の変とも呼ばれますし…)。1331年・1333年のいずれにしても政変(「変」)と内乱(「乱」)が混濁したまま事態が展開されており、これを無理に分けるのは却って難しいような気がします。--水野白楓 2006年6月7日 (水) 04:09 (UTC)
- 本来は後醍醐天皇による討幕運動を「正中の変」も含めて一連の流れの中で捉えるべきだと考えますが、項目名としては「正中の変」と「元弘の
変乱」の2回に分け、「元弘の乱変」は「元弘の変乱」へのリダイレクトにし、「元弘の変乱」の末尾に分倍河原の戦い、東勝寺合戦など「元弘の乱」関係の記載を略述すればいいのではないでしょうか。--ろう(Law soma) 2006年6月7日 (水) 06:08 (UTC)
統合提案に変更
[編集]辞典類での記載内容を確認しました。『国史大辞典』、平凡社の『日本史事典』、山川の『日本史広辞典』ではいずれも項目名は「元弘の乱」で、1331年の後醍醐帝の挙兵から1333年の鎌倉幕府の滅亡までが「元弘の乱」であると定義していました。『日本歴史大辞典』では項目名は「元弘の変」で、1331年の戦乱を中心に記述し、鎌倉幕府の滅亡までをカバーしていました。現在のウィキペディアの記述のように、「元弘の変」と「元弘の乱」は別の事件である、としているものはありませんでした。
統合の方向では皆さんも一致しているようですので、念のため統合依頼を出します。問題は存続記事をどちらにするかですが。--猪山人 2006年6月9日 (金) 16:00 (UTC)
- 「乱」は、時の政権に対する反乱の意なので、(朝廷を唯一無二の政権とする)皇国史観では全体を通して天皇家による「反乱」は「変」と記載されるのでしょう。個人的な見解ですが、1331年の事件は鎮圧されているので「乱」、1333年の事件は成功したので「変」なのかな?と思いますが事件の流れは一つなのであえて言えば「元弘の乱」で統一しても可です。という訳で前の投稿を一部修正しました。--ろう(Law soma) 2006年6月11日 (日) 23:52 (UTC)
- 私もそれで良いと考えます。--水野白楓 2006年6月15日 (木) 03:21 (UTC)
- Law somaさんがおっしゃられるように「元弘の変」は皇国史観による用語と言うイメージがあり、戦後史学では元弘の乱が一般化しているように感じます。また、同時代史料にも「主上御謀反」という言葉も出てくるので1331~1333年までの一連の出来事を「元弘の乱」と呼ぶほうが自然だと思います。--怪蘇 2006年6月16日 (金) 08:07 (UTC)
それでは、「元弘の乱」を存続記事として統合し加筆したいと思います。あと5日ほど様子を見た後に統合を実施します。コメントありがとうございました。--猪山人 2006年6月14日 (水) 07:11 (UTC)
- 上記は統合を完了しました。--猪山人 2006年6月19日 (月) 13:33 (UTC)
- (追記)鎌倉・南北朝史で知られている森茂暁氏は、後醍醐天皇の京都脱出から鎌倉幕府に囚われるまでを「元弘の変」、この事件を含めた鎌倉幕府滅亡までの一連の戦乱を「元弘の乱」と定義において別のものとされているようです。(参照:森茂暁『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年)P418)なお、森氏がこの区別を以前から使われているのかは分からないのですが、当該区分を用いた論文(「“博多日記”の文芸性と九州の元弘の乱」)が発表されたのは2006年3月の「福岡大学人文論叢」だそうですので、それから3ヶ月後に行われている上記議論当時は反映されなかったと思われます。--水野白楓 2010年2月1日 (月) 11:27 (UTC)
- 森氏の著作を読んでいないのですが、他の研究者による定義も知りたいところです。それが分かるまでは、冒頭定義部を「元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。」→「特に1331年の討幕計画とその首謀者処分事件を指して、元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。」としておけばよいと思います。必要ならrefを付けて。--ろう(Law soma) D C 2010年8月12日 (木) 04:57 (UTC)