コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ノート:偽善/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

偽善が嫌われる理由

[編集]

偽善が嫌われる理由について少し補足したいのです。つまり、偽善がなぜ嫌われるかと言うと、現在の本文の内容を読んでもらってもわかるとおり、本来、善とは、「喧伝」をするようなものではないと思うのです。内省に内省を重ねてもたどりつかない、希望のようなもので。それを商売や事業や組織の都合上で、他人に向かって安易に発信している、その姿に、苛立ちを感じるのではないかと。つまり、善も偽善も悪も、自己の内面にしかおこり得ないもの(本当に他人のためになった行動なのかは、それこそ神(絶対的第三者)にしかわからないため)なのに、それを外面にだすのは本来の善のありようではないと思うわけです。皆さんはどう思いますか? --119.150.60.34 2008年7月21日 (月) 22:45 (UTC)

どうでもいい。としか言えません。と言うのも、出典がないからです。 出典がない以上は個人の意見に過ぎず、個人の意見を載せることはwikipediaの方針に反しています。 wikipediaの方針に反していることはwikipediaには載せれず、wikipediaに載せれないことを wikipediaのノートで語られても、どうでもいい。としか答えようがありません。121.103.133.245 2008年8月22日 (金) 04:56 (UTC)

文章削除その2

[編集]

これを書いた人間でも消した人間でもないのですが、とりあえず消されていたのでこっちに移してみます。私が直接消したものではないとはいえ、いくらなんでも問いかけているだけの文のように見えるので、もう少し事典らしくまとめてから投稿お願いします。

以下コピペ


- とりあえず哲学的には上のことでいいのだと思うが、

- 宗教的に聖書の偽善とは「言っていることとやっていることが違うこと」を言う。

- 二面性をもっているということ。

- 基本的に「偽善=悪そのもの」である。


- しかし、日本では偽善=善とはいえない小さな善を指している。

- 悪ではない。

- 小さい善なので、どういうわけか、うしろめたさを感じるらしい。


- かといって、大きな善をするわけでもなく、善とはなにか定義されてもないので、

- 後ろめたさを感じる小さな善ならば、しないほうが自分としては気楽だとなってしまう。


- うしろめたさの代表格の「自己満足」といった点では

- ウィキペディア (Wikipedia)のによると、

- 西洋思想では「善」の反対概念は「悪」であるが、

- 東洋の仏教思想においては「善 (仏教)」の反対概念は「煩悩」である。

- すなわち、仏教思想では「善」は心の問題である。


- とあり、仏教思想では「善」は心の問題であるので、自己満足=心が悪い=行動が善でも心が悪いと善ではない

- となるのかもしれない。


- 思想とは、昔からの宗教になにかしら影響を受けているので、

- ウィキペディア (Wikipedia)日本の宗教を読んでみるといいかも。


221.186.250.15 2007年12月4日 (火) 08:15 (UTC)

文章削除の理由

[編集]

追加を行なっていただいた方には申し訳ないと思うのですが、以下の理由で増補部分を削除させていただきます。つまりは、内容が重複してしまうと言うことです。

> 日本では、善行を行ったものを「偽善者」と呼ぶことで精神の均衡を保つ例が多いとの指摘もある。

すでに「「きれいごと」を非難する声のなかには、実質的な悪への関心が見られないこともまれではない」という説明の中に、この内容が含まれています。

>しかし、善と偽善の最大の違いはその「思い」の方向にある。善は善を向けられるもの、被善者の利益が最大になるように思って行動するが、偽善は自分の利益を最大とする。つまり偽善者にとって、被善者の利益自体はどうでもよく、第三者から見れば善でも、実際には被善者の利益につながらず、損益をかぶってしまう結果になる事もある。

これは、最初に「外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われることを指している」と述べていることの内容と重複しています。つまり、ここにはすでに内面的意図(本心や良心=「思いの方向」)について述べられています。(「被善者の利益自体はどうでもよく」=実際には「利己心」から行動している)

ちなみに、システマチックに言えば、次のような表ができます。 内面的意図  善/悪 「被善者」にとっての結果 善/悪 これらにより、四つの組み合わせができます。

つまり、 1.内面的意図が善で、「被善者」にとっての結果も善であるとき 2.内面的意図が善で、「被善者」にとっての結果が悪であるとき 3.内面的意図が悪で、「被善者」にとっての結果が善であるとき 4.内面的意図が悪で、「被善者」にとっての結果も悪であるとき

補足された上記の文章は、内面的意図の善・悪を問うているようでありながら、途中で「被善者」にとっての結果へと話がすり替わっています。

「偽善」にとって真っ先に問題となるのがこの内面的意図であり、そこでの善悪の認識が揺らぐことを示しています。つぎに、「結果」がやってきます。「被善者の利益が最大になるように思って行動」しても、「実際には被善者の利益につながら」ない場合もあります。また、善行であっても、「自分の利益」を度外視しきれない場合もあります。こうした場合まで「偽善」と呼ぶとすれば、酷なのではないでしょうか。

>また、偽善に対しての造語で「偽悪」という言葉もある。

これは、「悪ぶる」といった程度の意味でしょうか。そうであれば、あまり聴かない言葉でもあり、意味もはっきりしないので、収録には時期尚早と思われます。

議論をお待ちしています。

--ブッカー・リトル 2006年8月14日 (月) 08:25 (UTC)

***

以前の書き方にも深い思索を感じるのですが、やはり著作権の関係上『悪魔の辞典』からの引用はまずいのではと思うのと、もっと簡明な定義ができるのではないかと思うので、大きく改訂しました。ただ、「偽善」という言葉で他者を批判することの浅薄さを指摘する点など、前の稿の内容をうけついでいるつもりです。ご意見をお待ちしています。

まず、「偽善」の「善」は、もっぱら外面的なものを指しているように思います。その背景に内面的な「悪」がひそんでいるから、「偽善」といわれるのでしょう。

つぎに、「偽善」という言葉をポジティヴに捉えることはない気がします。つまり、「俺はどうせ偽善者だ」と開き直ることはあっても、偽善そのものがよいことだとは捉えられてはいないと思います。肯定的な面を言うとすれば、「偽善」に対する実存的な反省から、深い思索を生み出すことだと考える次第です。

また、「偽善」の項目に個人名を名指しするのはどうかと思います。

2005年1月20日 ブッカー・リトル

リダイレクト

[編集]

偽善・偽善者と云ふ名前で作成されましたが、言及される場合は偽善もしくは偽善者であると思ふので、「偽善」へ移動した上で「偽善者」をリダイレクトとしました。nnh 06:27 2004年6月9日 (UTC)

お手数をおかけしましたm(__)m - 202.221.184.194 06:30 2004年6月9日 (UTC)

悪魔の辞典について

[編集]

悪魔の辞典。著者の権利はともかく、翻訳の権利は大丈夫ですか? あと引用は現時点でのウィキペディア日本語版ではグレーゾーンでは。0null0 06:31 2004年6月9日 (UTC)。

テキストを手に入れた「Project Gutenberg」のFAQには次のようにあり、今回の翻訳には問題はないと考えています。
C.7. What can I do with a text that is in the public domain?
Anything you want! You can copy it, publish it, change its format, distribute it for free or for money. You can translate it to other languages (and claim a copyright on your translation), write a play based on it (if it's a novel), or a novelization (if it's a play). You can take one of the characters from the novel and write a comic strip about him or her, or write a screenplay and sell that to make a movie.
やはり問題であるということであれば、訳の部分については削除したいと思いますが、いかがでしょうか。 - 202.221.184.194 07:01 2004年6月9日 (UTC)

中立的にどうかと思いますが。。例えばこんな風にも定義できますし。

  1. 人はすすんで悪を行なわない。
  2. 悪を行なう人は後悔する。
  3. 人は善を行なうべきである。
  4. 偽善は「悪に勝る」ため、そこで満足してしまう。
  5. よって偽善を行なっている限り人は善にたどり着くことはない。
  6. 偽善は後悔が伴わない以上、悪以上に善を妨げるものである。

tanuki_Z 06:31 2004年6月9日 (UTC)

これまでの定義を否定せずに、別の見方があることについて示してみました。これから編集が重なっていけば、多様な見解からの「偽善」、「偽善者」を提示できるのではないでしょうか。ぜひ、tanuki_Zさんの編集も加えてください。 - 202.221.184.194 07:01 2004年6月9日 (UTC)

追加を行った者です。

[編集]

やはり最初にココのノートで議論するべきでしたね。まず、追加の文を書こうと思ったのは辞書的な公平さが傾いていると思ったからです。一般に偽善は嫌われていますが、本文ではまるで、偽善を嫌うのは心が狭く、性根が悪いからだ。というような結びになってしまっていると思います。偽善も善であるといった結論になっているわけです。 しかし、それでは一般に偽善は嫌われている理由がイマイチ釈然としません。 悪を行って、被悪者に損害を与えた場合、悪を行った者は罰せられます。それは社会に生きていて当然の事ですが、偽善は、被偽善者が損害を被ったとしても、罰せられるどころか社会的には偽善者は賞賛されたり、利益を得ることになります。このことが偽善が一般に嫌われる理由だと思うわけです。 「虚栄心や利己心などから行われること」という説明ではなんとなく概念的過ぎてつかみ所の無い感じを受けました。「自己の利益が最大になる」という言いまわしなら、しっくりくるように感じたので。 【2.内面的意図が善で、「被善者」にとっての結果が悪であるとき】 とありますが、この場合は「悪」なのでしょうか?(もちろんブッカー・リトルさんは便宜的に「悪」という単語を使ってらっしゃると思うのですが)結果が伴なわなければそれは「悪」になってしまうとは私は思えません。善を行おうとしてうまく行かなかった場合を「悪」としてしまうのは乱暴だと思います。 しかし、偽善者が元から自己の利益が最大になるように考えていて、被偽善者の損害も計算の内だったとしたらどうでしょう?これは「悪」の範疇に入るのではないでしょうか? 【善行であっても、「自分の利益」を度外視しきれない場合】というのは確かにあります。でもそれは「度外視できない」であって「被善者の利益を最大に」考えていた結果でしょうか?「自分の利益が最大に」なるように考えていたならそれはやはり偽善と言わざるを得ないのではないかと思います。 つまり、偽善は善と違い、被偽善者が損害を受ける、若しくは被偽善者にとって無意味な行為で、偽善者が著しく利益を甘受した場合などは、「悪」にもなりうる事なのでは無いかと思う訳です。

ブッカー・リトルさんのようなきれいな論理的な文を書けなくて申し訳無いのですが…乱筆ながら一応自分の考えを纏めさせて頂きました。

  • お返事(2008年7月)

今回の改定は、いくつかの足りない点が補われていると思います。私が「偽善」を単に擁護しているように見る人もいましたが、物事を両面から見るというのが基本姿勢で、その点で「偽善」はまさにうってつけです。ちょっと忙しくて検討できませんが、よくなっていると思います。ただ若干思惟が重複する箇所があると思いますので、いずれまた再考したいです。なお、「ワイドショー」とか「福留某」等の個人攻撃的なリンクを削除しました。--ブッカー・リトル 2008年7月2日 (水) 09:09 (UTC)

  • お返事(2006年)

 いきなり削除してしまうのは乱暴だとは思ったのですが、うまく接合できなかったために止むを得ずそうしました。申しわけありません。  「本文ではまるで、偽善を嫌うのは心が狭く、性根が悪いからだ」とされているという批判は、そのとおりかも知れません。ただ、三段落目で「「偽善」が指摘されうる」場合というのは、十分な根拠があって偽善者を非難している場合を指しています。そういう場合には、たしかに「罰せられるどころか社会的には偽善者は賞賛されたり、利益を得ることになる」と思います。欠けていた部分です。次のように文を変えてみました:「こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする」。 2.率直に言って、結果的に悪い結果となった場合には、いくら善良な意志から行なわれたことでも、「悪」だとみなさざるを得ないと私は考えています(こういう考え方を、責任倫理(M・ウェーバー)とかプラグマティズムと言うと思います)。しかし、そういう場合には素直に反省すればいいのであって、「善」だと言いくるめるのは良くないと思います。それをやるのが「偽善」です。  「偽善者が元から自己の利益が最大になるように考えていて、被偽善者の損害も計算の内」だという場合も、たしかに偽善でしょう。「利己心から」という表現だけではわかりにくいということだと思うので、第一段落目の続きとして文脈が続くように書かれるのであれば、こちらも納得できます。ご検討ください。--ブッカー・リトル 2006年12月15日 (金) 03:55 (UTC)


  • 「追記を行った者」です(笑)

プラグマティズム、確かに納得できます。それは今回の地震で、被災地に無数の「救援物資」なるものが到着して、「余りある善意に被災地困惑」という新潟日報のニュースを見て思いました。たまに、「善意なら迷惑をかけたってかまわない!」って考え方のひとがいるんですよね。確かにこれってすごい乱暴な考えだと思うし、すごい迷惑だと思うんですよ。つまり「いや、それは困るんですよ」っていっても「善意です!」って反論をする人。これは偽善の範疇に入ると思います。当然、普通に反省をすれば良い訳ですね。でも、結果を見届けられない場合の「善」は僕は「善」だと思います。つまり、相手の反応がわからない、という場合も多いと思うんですよ。つまり、「救援物資」を届けた、ところまでは、「善行」と言っても間違いじゃないと思うのですが…。「結果的に悪」という話が重要だとしたら、一体「どの時点の結果なのか」という話になってしまうと思うわけです。追記文については検討してみます。122.145.120.10 2007年7月21日 (土) 18:26 (UTC)