ノート:信濃国分寺
鎌倉期から見える地名。小県【ちいさがた】郡のうち。戦国期には小窪郷とも見える。正安3年4月10日の鎌倉幕府下知状に「信濃国国分寺南条内田在家」と見え,永仁2年6月11日の父長信の譲状に任せて藤原秀信に安堵されている(国分文書/信史4)。当地は平安初期に現在の上田市国分に国分寺が移されて以降,その門前に形成された集落と考えられるが,永仁2年には当地に集落が形成されていたことが知られる。この所領は康徳(応力)元年8月3日の譲状では「しなのゝ国ちいさ方の郡国分寺のゆつり状の事 まめう田二段并さいけ一宇」と見え,明阿弥陀仏から河内入道へ譲られている(同前/同前7)。嘉暦4年3月日の鎌倉幕府下知状案には「二番五月会分……(御射山)右頭,海野在(庄)内岩下郷海野次郎左衛門入道知行分,〈付〉国分寺南条並善哉・塩野両郷地頭等」と見え,諏訪柱上社祭会の頭役勤仕が定められている(守矢文書/同前5)。下って戦国期,天正6年の上諏訪造宮清書帳に「上諏方南方大鳥居 小県海野・上田庄……小窪 壱貫四百文 代官 新衛門尉」,同7年の同取帳に「大宮南方大鳥居……海野之内……小窪之郷 正物弐貫四百文 代官 新左衛門尉」とあり,造宮料を負担している(信叢2)。武田氏滅亡後の天正10年閏12月23日,真田昌幸は宮下孫兵衛に「国分寺之内弐貫文」を宛行った(宮下文書/信史15)。天正13年閏8月13日の真田信幸書状によると,同2日真田勢は当地において徳川家康勢を打ち破っている(恩田文書/同前16)。
信濃国分寺が、国府と呼ばれていた事実は史料上どこにもありません。
また、国府と国分寺は隣接しているですが、まったくのデタラメな学説である。 伊勢国の場合、国府町と名乗っていた場所に国府がありませんでした!また、国分町に国分寺はありましたが、 国府はありません。鈴鹿市広瀬町に伊勢国府はありました。
国分寺と国府まで、6キロも離れている。
これでもまだ、小県国府があったと主張するのですか?和名抄には筑摩郡と書いてある。--180.197.89.43 2013年12月11日 (水) 16:05 (UTC)
- 「国分寺」でなく「信濃国」を見るべきでしょう。--Saigen Jiro(会話) 2013年12月13日 (金) 10:18 (UTC)