ノート:伝馬町牢屋敷
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小伝馬町牢屋敷 への改名提案
[編集] 提案 伝馬町牢屋敷から、小伝馬町牢屋敷への改名を提案します。
学術的に使用されるのは「伝馬町牢屋敷」ではなく、「小伝馬町牢屋敷」であり、一般的に使用されるのも「小伝馬町牢屋敷」であるため。
具体的な主要な文献は以下の通り。
- 饗場 実、「江戸小伝馬町牢屋敷における「牢法」の一考察」、『中央史学 』8巻、中央大学、1985年。
- 伊能秀明、『実録小伝馬町牢屋敷--「牢内深秘録」 で見る牢屋の内と外』、日本古書通信、1995年。
- 伊能秀明、「江戸小伝馬町牢屋敷の世界-明治大学刑事博物館蔵 『牢内深秘録』『徳川幕府刑事図譜』 に見る牢法」、『法律論叢』第67巻(2-3)、明治大学法律研究所、1995年。
- 堀 孝彦、「蕃書調所と堀達之助 市川兼恭『浮天斎日記』および久坂玄瑞の入塾」、『英学史研究』Vol.2003、No. 35、日本英学史学会 、2002年。
- 滝川政次郎、「第八回 牢屋奉行石出帯刀と小伝馬町牢屋敷」、『日本行刑史』、青蛙房、1961年。
- 石出猛史、「江戸の腑分」、『千葉医学雑誌』74巻、千葉医学会、1998年。
- 山本清司、「関東幕領に於ける遠島刑」、『法政史学』30、法政大学史学会、1961年。
など多数確認できる。--Koshi2016(会話) 2016年4月16日 (土) 08:32 (UTC)
- コメント 「伝馬町牢屋敷」の名称が学術的に使用されていないとまでは言えないと思います。都旧跡伝馬町牢屋敷跡-説明板や、伝馬町牢屋敷跡遺跡発掘調査及び遺跡見学会についてなど、中央区教育委員会では伝馬町牢屋敷の名称を使用しています。これはおそらく1954年(昭和29年)11月3日に都史跡(史第二十九号)に指定された名称が「傳馬町牢屋敷跡」となっていたことに依ると思われます。栗田和典「監獄、刑場、裁判所のしるし――ロンドンと江戸の歴史の場」『ことばと文化』10巻、静岡県立大学、2007年、pp.41-49 ISSN 13451685 で「伝馬町牢屋敷」跡を自ら確認し、解説しています。一方、私の立場は「小伝馬町牢屋敷」への改名に反対するものではありません。現代の資料のほか、神田上水留 神田上水小伝馬町牢屋敷掛樋枡井戸共御普請一件 慶応元丑年七月 御普請方 分冊ノ一と神田上水留. 神田上水小伝馬町牢屋敷掛樋枡井戸共御普請一件 慶応元丑年七月 御普請方 分冊ノ二は、1865年の資料と推定されますが、小伝馬町牢屋敷の名称が使用されています。どちらも使われるといってよいかと思います。--Benpedia(会話) 2016年4月19日 (火) 03:04 (UTC)
- コメントBenpedia様、コメントありがとうございます。
- まず、2つの論文(石出猛史、石出聡史:小伝馬町牢屋鋪(上)、刑 政106、1995。 石出猛史江戸の腑分千葉医学74) にて、小伝馬町牢屋敷は、「俗には「伝馬町(てんまちょう)ノ牢屋」ともいう」という説明があります。
- また、国立国会図書館の検索によれば、小伝馬町牢屋敷は14件、伝馬町牢屋敷8件となります(具体的な文献の提示が必要であれば、提示の用意はできています。)。
- 正式な名称であり、数量も多いその2点を考慮すれば、「小伝馬町牢屋敷」あるいは「小傳馬町牢屋敷」が適当と判断できます。--Koshi2016(会話) 2016年4月19日 (火) 09:01 (UTC)
- コメント Koshi2016さん、コメントありがとうございます。正式な名称の根拠は「江戸の腑分」石出猛史(1995年)によるものと考えてよろしいでしょうか。挙げていただいた7点の文献のうち、石出猛史は「俗には「伝馬町(てんまちょう)ノ牢屋」ともいう」と書いてありますね。俗称であることはわかるのですが、正式名称はいかに。石出猛史は「江戸幕府伝馬町牢屋奉行 石出帯刀」を刑政、1990年、101巻1号から4号まで連載しており、その後同誌に「小伝馬町牢屋舗」刑政、1995年、106巻8号及び9号を著しており、医師として人体解剖、腑分について研究している石出猛史でも1990年時点では伝馬町牢屋と認識していたことが示唆されます。これらの資料や1995年の資料などが正式名称について言及されたものだとありがたいのですが、すぐには資料にあたれないので折を見て確認したいと思っています。堀孝彦(2002年)は「小伝馬町牢」と、山本清司(1961年)「小伝馬町の牢」と書いており、小伝馬町であること、伝馬町牢屋敷と書かれていないことまではわかりますが、かといって正式名称が小伝馬町牢屋敷といえるものではありませんでしたので、改名提案の根拠として提示なさるのは適切とは言えないと思います。饗場実(1985年)、滝川政次郎(1961年)は資料にあたるのは私には難しそうです。さて、東京都総務局が保有している東京市史稿には、タイトルに牢屋としているものがほとんどで[1]、1件だけ「伝馬町牢屋取計方規矩間合」というものがあります[2]。(1797年(寛政9年)11月 南撰要類集二十九ノ中([3]に元の文書があるはずですが、私は古文書を十分に読み解けないので確認はできていません。)。学術的に使用されるという理由、正式名称であるという理由については賛成するに至りませんでした。誤解のないよう改めて表明しますと、私の立場は「小伝馬町牢屋敷」への改名に反対するものではありません。適切な理由で改名することを望むものです。--Benpedia(会話) 2016年4月21日 (木) 06:11 (UTC)
- ただ、根拠とした石出氏の文献に「小伝馬町」、「伝馬町」両方みられること。牢屋敷の表現にも「牢屋敷」「牢屋鋪」「牢屋」「牢」などがありますね。中央区の発掘調査報告、都史跡に指定された名称、石碑で使用されている名称で傳馬町・伝馬町である事。国立国会図書館での書籍数も差はあるが、見方を変えると大差でなくどちらかといえば拮抗しているとも言える状況かもしれません。
- 「小伝馬町牢屋敷」への改名の根拠として重視していたのは、学術論文で使用されている事、「神田上水留 神田上水小伝馬町牢屋敷掛樋枡井戸共御普請一件 慶応元丑年七月 御普請方」でした。しかし、Benpedia様からのご指摘と共に再検討すると、現状では改名をするだけの十分な2次資料が提示できていないといえます。もう少し資料を確認した上で、改名が難しいようであれば提案を取り下げようと思います。--Koshi2016(会話) 2016年4月24日 (日) 05:18 (UTC)
- コメント Koshi2016さん、コメントありがとうございます。「俗に」という形で記載したのは石出猛史(1995年)でありますが、石出の文献以外で「俗に」と記載したものを探してみました。結果、見つかったのですが、やや奇妙なことになっていますのでできるだけ憶測を排して報告します。
- 長谷川時雨の『旧聞日本橋』(岡倉書店、1935年、初版、pp.244-245)[4]の『舊幕時代牢屋敷之全圖』には「是を傳馬町の牢屋しきと云ふ」。
- 復刊その1(青蛙房、1971年、pp.274-275)には岡倉書店版と同じ図を掲載した上で文字を活字にし「是を伝馬町の牢屋敷といふ」。
- 復刊その2(岩波文庫版、1983年初版、2000年第6刷、pp.238-239)は、図がそもそも違っており『旧幕時代牢屋敷之全圖』。図の文字と、活字には「俗に是を伝馬町の牢屋敷といふ」。
- 長谷川時雨による前書部分には、「うまや新道の名も、厩も、小伝馬町大牢の御用のようにばかり」と書かれた2行あとの段落は「伝馬町大牢は明治八年まで存在し、」と書きはじめられており、書きぶりは一定していません。
- 『旧幕時代牢屋敷之全圖』は長谷川深造が描いたものとされており、『旧聞日本橋』よりあとに『江戸東京実見画録』(有光書房、1968年)、(岩波書店、2014年)に収録されていますが、岩波書店2014年は岩波書店1983年と同一のもので「俗に」という語があるものでありました。有光書房1968年は未見。
- なぜ岩波書店版の『旧幕時代牢屋敷之全圖』は岡倉書店の『旧聞日本橋』のものと異なっているのか(もともと複数存在するのか、どちらかがあとから書き直されたものなのか)を推定する根拠は見当たりませんでした。報告はここまでで以下は思うところを書きます。仮に石出が岩波版の『旧幕時代牢屋敷之全圖』の記述を「俗に」の根拠としているなら改名の根拠を別のところから探してくる必要がありましょう。これまでの議論では取り上げませんでしたが、「伝馬町牢」の名は江戸後期(天保年間)から明治中期にかけて活躍した歌舞伎作家、河竹黙阿弥の『四千両小判梅葉』(1885年(明治18年))で伝馬町牢の名が使われ、藤沢周平の『鬼平犯科帳』でも伝馬町牢の名でたびたび登場するため、江戸の牢屋といえば伝馬町、という刷り込みが世間にあるかもしれません。牢屋奉行の職務などに明文化されていないだろうか、実は単に「牢屋」が正式名称なのでは、といった可能性も排除せずに、いい資料が見つかることを期待します。--Benpedia(会話) 2016年4月26日 (火) 04:45 (UTC) 内部リンクミス2箇所修正--Benpedia(会話) 2016年5月2日 (月) 05:13 (UTC)