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ノート:任那

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コメント

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記紀を神話と片付けるのに違和感があるので直しました。 時代による定説の移り変わりも妙なのでばっさり削除しました。 もう一度精査して投稿してみてください。 --203.138.105.161 2006年2月26日 (日) 09:48 (UTC)[返信]

59.86.142.249さんの編集についてお尋ねします。

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この編集において、いくつか疑問があります。瑣末なことかもしれませんが、編集合戦にならないように、こちらに書きます。

  1. 広開土王碑を中国史料に区分けるのはおかしくないですか?
  2. 任那の表記が『三国史記』巻44巻46強首伝にしか見られないという情報をわざわざ消すのはなぜでしょうか?
  3. 『三国史記』の『本紀』『伝』という表現には強い違和感があります。二重鍵括弧は書名に用いるものではありませんか?
  4. 井上秀雄『古代朝鮮』の書誌情報を省略する意図は何でしょうか? 記述にあたって該当書籍を用いたので参考文献として挙げました。実際に井上の論旨を上げるのであれば、井上秀雄『任那日本府と倭』(1972)を挙げるべきだと思いますが。
  5. 関連項目の加羅の記事は伽耶の記事に統合されているのですが、再掲する必要があるのでしょうか?

--田英 2007年3月3日 (土) 09:07 (UTC)--強首伝は巻44ではなく巻46所収でした。訂正します。--田英 2007年3月3日 (土) 11:26 (UTC)[返信]

修正しました。編集上のケアレスミスでした。申し訳ありません。--59.86.142.249 2007年3月3日 (土) 12:45 (UTC)[返信]
ご回答いただきましてありがとうございました。私のほうでもミス(強首伝の巻数)がありましたので、あらためて訂正しておきます。--田英 2007年3月3日 (土) 13:00 (UTC)[返信]
(意見)広開土王碑が中国史料になっている件ですが、高句麗は中国(東北部歴史)と朝鮮のどちらの歴史としても描けますが、碑が現在の中華人民共和国吉林省通化地級市集安市で発見されたこと、ユネスコ遺産も高句麗前期のものは「高句麗前期の都城と古墳」として中国からの申請で登録されていること、また碑が414年のものとされていますが、高句麗の都が朝鮮の平壌に遷都したのは427年とあとであるため、碑そのものは中国東北部からの出土と考えてよく、中国の史料としても問題ないと感じます。--Eurodollers 2008年1月4日 (金) 08:05 (UTC)[返信]

2007年4月4日の修正について

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日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。しかし、今日、韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている。韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題とし、政治的圧力による歴史の抹殺が図られている。(歴史教科書問題

という追記がなされていますが、前後の編集履歴や本文の内容、ノートと比較して、あからさまに突発的な修正だと思えます。内容が内容だけに強い政治的な思惑が感じられるのですが、だとするとWikipediaの精神に反しているのではないでしょうか。このままにしておいてよいのでしょうか?  --Yoh-yoh 2007年4月23日 (月) 07:57 (UTC)[返信]

Yoh-yohさんによる本文の修正状況で適正に修正されたと思います。--ろう(Law soma) 2007年4月24日 (火) 05:31 (UTC)[返信]

事後報告になってしまい恐縮ですが、「Wikipedia:中立的な観点」に鑑みこのような記述に修正させていただきました。また必要に応じて議論、修正されるとよいと思います。--Yoh-yoh 2007年4月24日 (火) 05:51 (UTC)[返信]

内容は現実に起こっている問題です。それを隠蔽するような行為は特定の立場の人々や国家を支援することに繋がり、むしろこうした隠蔽行為こそ「Wikipedia:中立的な観点」に反するといえます。それも全く同意形成の過程を無視して全消去とは横暴でよくないですね。 もし内容に誤りがあるならば具体的に指摘してください。話はそれからです。 同意が形成されるまで取り合えず元通りにしておきます。 それと「強い政治的な思惑」とは一体何の事でしょう? 私に対する誹謗中傷としか感じられません。もしそうでないのなら一体どういった意味なのか詳しく説明をお願いいたします。--久留米 2007年7月1日 (日) 07:26 (UTC)[返信]

追記

私の書いた内容は大別して以下三つに分かれると思います。

①日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。

②しかし、今日、韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている。

③韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題とし、政治的圧力による歴史の抹殺が図られている。(歴史教科書問題

①②③何れも誤りがあるとは思えませんね。 もし誤りがあると言うならば具体的に何処がなぜ間違っているのかを指摘してください。--久留米 2007年7月1日 (日) 08:07 (UTC)[返信]

ええと、私も上記編集に賛同していますので(いきなりの修正は確かに行き過ぎかも)ちょっと意見を述べさせてください。
○1については、「少なくとも日本国内においては」概ね正しいと認識しています。半島地域の史書では、かなり少数意見ですが。○2については、「国家規模」かどうかはともかく、そのような動きが顕著であると認識しています。○3については概ね同意です。しかし、Yoh-yohさんの穏健な投稿も、認識としては同じなのではないでしょうか?ここは日本語版であり日本国版ではないので、文章は中立的にすべきです。資料的にヤマトと関連する集団が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたと見なされていることを明確に記載しているのですから、あまり問題にならないように思います。(認識不足でしたらすみません)--ろう(Law soma) D C 2007年7月2日 (月) 02:56 (UTC)[返信]
例えば、日本による任那支配は後述される史料において記載があり、近年まで日中両国内では特段異論は生じていなかったが、近年それら史料の解釈や是非について韓国、北朝鮮での研究者より異論が出され、現在まで論争が続いている。そのため各国の政治、公教育の場においてもそれぞれの立場による記述や主張の相違が見受けられ、韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題としている(歴史教科書問題)。では如何でしょうか?--ろう(Law soma) D C 2007年7月2日 (月) 03:05 (UTC)[返信]


2007年4月4日の投稿の要点は、『政治権力や社会的圧力による学問への介入や歴史観の強要が起こり、自由な研究や発言が脅かされる事態が起こった時、そうした真実を包み隠すことなく明らかにする』ということです。この原則はその主体が韓国であれ日本であれ普遍的に適用されます。 それが中立的な観点というものですから。

現在こういった事態は日本には存在せず韓国のみで起こっています。 その結果、ここでは韓国についての記載となっていますが、もちろん逆のケースが起こればそれも包み隠さず明示されるべき性質のものです。そういった双方に適用されるべき原則に基づいた投稿ですので、2007年4月4日の投稿内容は中立性に反するものではありません。

したがって2007年4月4日の投稿を土台にして、至らない点があるならば訂正して行けば良いと考えます。 ろう(Law soma)様も私の投稿①②③何れにも概ね同意されていることですしね。

一方のYoh-yoh様の投稿を見たところ表現が抽象的で読んだ人が要点を認識できない可能性があり土台にするには適当ではないと考えます。表現は具体的かつ明確であるべきです。


では、2007年4月4日の投稿を土台にして、ろう(Law soma)様の指摘について検討してみます。


>○1については、「少なくとも日本国内においては」概ね正しいと認識しています。

この意見には同意いたします。①の先頭に「少なくとも日本国内においては」を付け足して

①少なくとも日本国内においては日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。

と改めたいと思います。


>○2については、「国家規模」かどうかはともかく、そのような動きが顕著であると認識しています。

韓国政府が『日本による任那支配』を多様な歴史観の一つとしても認めず公然と否定し外交問題化していると共に、韓国社会内部に於いて『日本による任那支配』を多様な歴史観の一つとしても認めずにタブー視する強い社会的圧力が実在する訳ですから、それは国家の官民挙げての全否定、即ち「国家規模」の否定と言っても差し支えはないものです。よって②についてはそのままで良いのではないでしょうか。


>○3については概ね同意です。

とありますので③はそのままで良いですね。 --久留米 2007年7月2日 (月) 13:44 (UTC)[返信]

田英といいます。ご提案の内容では一面的になっているように感じますので、以下の確認と提案とをさせてください。(丸付き数字は環境によっては再現できませんので○1のように書かせていただきます。
○1.「少なくとも日本国内では」「古代より一貫して記録され語り継がれてきた」ですが、この書かれ方だと、日本国内において任那支配について一切疑義が唱えられなかったように読めてしまいます。『日本書紀』にはヤマト王権による半島南部支配を主張する立場で書かれており、『日本書紀』の記述にしたがって、「記録され語り継がれてきた」という一面は存在します。末松保和『任那興亡史』によって日本による任那支配、その拠点としての任那日本府の説は主流となったようですが、後年、日本国内でも任那日本府に対するこれまで(戦前や終戦直後)の理解の仕方に批判が提出されており、結果、日本府を通じての半島南部の有効支配については否定する見解が提出されています。私の手元にある資料だけでも、井上秀雄氏、鈴木靖民氏、鬼頭清明氏、田中俊明氏などです(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』1992年 ISBN 4-642-08136-4、鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)など)。
○2.確かに韓国・朝鮮側では「日本による任那支配」を認める論調はないように思います。前記1の視点とも関わるのですが、「韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている」だけであると、日本国内での否定論がないように読めてしまうことが問題になると考えます。
○3.こちらについては、ろうさんの文面のほうがよいと思います。「歴史の抹殺」までの厳しい表現となると、歴史教科書問題の記事のほうで扱われるわけで、「任那」を説明する記事の本文に敢えて残すことはないと思います。
つまり何が言いたいかというと、「日本においてもヤマト王権による任那支配が100%の通説となっているわけではない」「それを否定しているのは韓国朝鮮だけではない」という記述が必要だと考えています。定義文の箇所について、
日本による任那支配は、後述の史料の解釈に拠って[[第二次世界大戦|戦後]]まで日本国内では永らく通説として扱われてきた。しかし近年、それらの解釈について韓国・北朝鮮はもとより日本国内の研究者からも異論が出され、現在まで論争が続いており定説化していない。各国の政治・公教育の場においてもそれぞれの立場による記述や主張が見られ、韓国政府は任那・任那日本府についての話題を日韓の外交問題としている(歴史教科書問題を参照)。
辺りでどうでしょうか。--田英 2007年7月3日 (火) 13:21 (UTC)[返信]


田英様の提案を慎重に検討いたしましたが2007年7月2日(月) 13:44のノートへの書き込みで既に述べておりますように、表現を抽象的にすることによって意図する要点が曖昧になってはならないと思います。 田英様の提案もYoh-yoh様の投稿を土台にしたものであり、抽象的な印象は拭えません。

また2007年4月4日の投稿内容は、決して田英様が指摘されているような日本国内での否定論の存在を否定する性質のものではありません。 例えば、ある人が、昨日、白いシャツと黒いズボンを着用して過ごしたとします。 そして、その人が、今日、出会った人に「昨日、白いシャツを着用していました。」と言ったとすると、「昨日、黒いズボンを着用してなかった。」と言っている意味になるでしょうか? 従って、この点につきまして2007年7月2日(月) 13:44のノートへの書き込みにある提案内容のままで問題ないと思います。

もう一つ指摘にある「歴史の抹殺」の表現についてですが、多様な価値観を認めることなく「任那の歴史」を消し去ろうとする行為はまさしく「任那の歴史の抹殺」そのものです。ここを曖昧にすべきではないですし、「任那」についての問題なのですからここで扱うことに妥当性があります。 従って、この点につきましても元の内容のままで問題ありません。むしろ元の内容のままのほうがより適正です。 --久留米 2007年7月4日 (水) 14:16 (UTC)[返信]


追記

特にここでは触れていないからといって必ずしも日本国内での否定論の存在を否定する性質のものではありませんが、もう一度慎重に再検討した結果、より誤解の生じない表現も考慮することにしました。 そこで、○1.の先頭に「異論もあるものの」との表現を追加しようと思います。

○1.異論もあるものの、少なくとも日本国内においては日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。

これで「日本においてもヤマト王権による任那支配が100%の通説となっているわけではない」「それを否定しているのは韓国朝鮮だけではない」といった意見を否定していなことは明確になります。この内容でよいのではないでしょうか。--久留米 2007年7月4日 (水) 14:29 (UTC)[返信]

返事が遅くなりました。○2について若干意見が変わっております。韓国内においても「支配」を認めていないだけで、百済が倭軍を利用したとの見解や、倭が加耶諸国との外交交渉のために派遣した臨時の使節団であるとの見解があり、倭と加耶諸国の密接な関連を否定しない意見も多くあります。要は日本府の存在自体を否定しているのは韓国政府なのであって、官民挙げてというよりは政府がというべきなのでしょう。国家規模といっても言い過ぎではないのかもしれません。私自身は中国の史書から言って「倭・加耶諸国連合軍指揮権」を持つ倭王が設置した加耶諸国との連合軍最高司令部とでもいうべき連絡調整会議ではないかと思っておりますが、独自研究になりそうなのでボチボチ文献を当たっているところです。--ろう(Law soma) D C 2007年7月5日 (木) 01:41 (UTC)[返信]
まずはろうさんによる吉田孝『日本の誕生』を用いての追記編集に感謝いたします(任那にかぎらず、他の記事についてもありがとうございます。)。これまでの出典表記が、任那支配を否定するものに寄っており、任那支配を積極肯定する論考のほうがなくて気になっていたところが解消されました。
続いて久留米さんには、わかりやすい喩え(白シャツ、黒ズボン)をしていただきありがとうございます。この喩えにしたがって確認させていただきますが、「白シャツを着ていた」とだけ表現しようとすることに対して「黒ズボンを履いていた」ことも添えよう、というのが、先に私が「日本においてもヤマト王権による任那支配が100%の通説となっているわけではない」「それを否定しているのは韓国朝鮮だけではない」を反映させよう、としていることです。私は黒ズボンを履いていたことのみを書いて白シャツを着ていたことを除こうとはしていません。追記の部分で示していただいた久留米さんの編集内容だと、黒ズボンを履いていたことを隠そうとしているようにも読めてしまいます。この点についてお考えをお聞かせいただきたいと思います。--田英 2007年7月5日 (木) 14:19 (UTC)[返信]


多忙のため返答が遅れてすみません。 ろう様、結局のところ韓国には支配を認めるという意見が存在しないということですね。つまり少なくとも民間の大勢において支配を認める意見を許容する空気は醸成されていないのです。この状況では韓国政府だけでなく民間も同様であるといっても過言ではないでしょう。

田英様、隠す隠さないというよりも、この文章は本来そういった主旨のものではないのです。「日本においてもヤマト王権による任那支配が100%の通説となっているわけではない」「それを否定しているのは韓国朝鮮だけではない」といったこと主張するために、先頭に「異論もあるものの」と付け加えるだけでは不足であるならば、他に別記すれば解決することだと思います。--久留米 2007年7月8日 (日) 15:09 (UTC)[返信]

この文章の本来の主旨とは、どのようなものでしょうか? 私の理解では、○1~○3をあわせて冒頭に配置される文であるので、中立であることはもちろん、できるだけ誤解の生じない内容・表現であるべきだと考えています。また、「日本においても~」「それを否定しているのは~」については、私の主張ではなく事実です(前段の7/3の私の投稿で論者の例を挙げています)。「異論もあるものの」「一貫して記録され語り継がれてきた」という表現では誤読を生じさせやすいと考えますので、他の場所に別記するのではなく明示的に「日本国内の研究者からも異論が出され、現在まで論争が続いており定説化していない」と示すことを提案しています。--田英 2007年7月8日 (日) 22:07 (UTC)[返信]
「少なくとも日本国内においては日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。」 この内容は紛れもない客観的事実です。そしてこの文章をどう読んでも日本国内での異論の存在を否定する意味はありません。ですから、これはこのままで何も問題はありません。「日本においても~」「それを否定しているのは~」という内容は別記すれば十分解決します。韓国が行っている歴史観に対する言論抑圧行為も客観的事実です。別記すれば解決する問題を口実に重要な客観的事実を隠滅するような真似はすべきではありませんよ。
お尋ねのこの文章の本来の主旨についてですが(「要点」という言葉を使ってますが)2007年7月2日 (月) 13:44 (UTC)の投稿に述べた通りです。2007年4月4日の投稿の要点は、『政治権力や社会的圧力による学問への介入や歴史観の強要が起こり、自由な研究や発言が脅かされる事態が起こった時、そうした真実を包み隠すことなく明らかにする』ということです。この原則はその主体が韓国であれ日本であれ普遍的に適用されます。 それが中立的な観点というものですから。--久留米 2007年7月12日 (木) 14:14 (UTC)[返信]

2007年4月4日の修正について(2)

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長くなったので節を分けました。

久留米さん、ちょっと待ってください。確かに私の趣旨は「韓国には支配を認めるという意見が存在しないということ」ですが、日本においても「支配を認めるという意見」は少数派です。程度の差こそあれ、支配まで認めている学者は少数です。主に朝鮮史の専門家は倭の影響を少なく認め、日本史の専門家はある程度強く認めているが、政治的支配まで認めている人は少数です。なので問題になるのは、通説・有力説問わず日本側では倭の加羅付近に対する一定の影響力を認める意見が大多数なのに韓国側では最小限の影響力を認める意見すら少数派だという点をどのように記載するかということだと思います。--ろう(Law soma) D C 2007年7月9日 (月) 00:21 (UTC)[返信]

ろう様、>日本においても「支配を認めるという意見」は少数派ということですが、ええ、ここが問題なんです。何故少数派になってるんでしょうか?私が受験勉強していた1990年ごろの話をしますと、学校教材には両方の意見がのっており「任那支配を否定する側」の最大の根拠として、日本陸軍の酒匂中尉が碑文を改竄したという李進煕の唱えた「広開土王碑文改竄説」が大々的に掲載されてましたので、私もそれを信じて「任那支配を否定する説」を当時は支持していました。ところが、近年、酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見されて酒匂本と一致していることが判明したことで李進煕の唱えた碑文改竄説は完全に否定されましたね。最大の根拠が否定されたならば、当然「任那支配を否定する説」が否定されなければならないはずです。ところが逆に「支配を認めるという意見」が少数派になってくるというのは、これはどう見ても異常な事態です。この異常な事態の元凶こそは韓国による歴史観に対する政治的介入であり、それに同調する日本国内の一部の人達による社会的圧力なんです。「支配を認めるという意見」に対しては、「右翼!」、「皇国史観!」、「再び韓国を侵略しようとしてる!」、「韓国のとの友好を損ねる!」、といった種類の政治的で非学問的な非難が常に浴びせられているのは紛れもない事実です。wikipedia内の関連項目を見てもこの種の非難が存在します。つまり韓国と日本国内の両方から政治的圧力や社会的圧力がかけられたことが原因となって自由な発言が封じ込められ、学術研究の中立性が損なわれ、その結果任那の歴史研究に大きな支障をきたしているのです。このことをここで明記しておく必要があるのです。--久留米 2007年7月12日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
ろうさんではなくてスミマセンが、李の碑文改竄説以前に、日本の学者から広開土王碑文に対するそれまでの研究のあり方を問題視する論考があります(中塚明「近代日本史学史における朝鮮-とくに『広開土王陵碑』をめぐって」『思想』561号、佐伯有清「高句麗広開土王陵碑文再検討のための序章-参謀本部と朝鮮研究」『日本歴史』287号 ともに1972年で李の碑文改竄説と同年発表ですが、先行しています)。また、李進煕の碑文改竄説は最近になって「完全に」否定されたのですが、発表直後からこれを積極支持する学者は日本国内にはほとんどいませんでしたし、むしろ徹底的に批判する姿勢で臨んでいます。ただし、植民地支配と朝鮮古代史研究とのあり方について、例えば中塚明「日本近代史の展開と『朝鮮史像』-とくに参謀本部と歴史研究のかかわりについて」(『朝鮮史研究会論文集』11号 1974)は、明治初期には多様にあった古代日朝関係史像が朝鮮支配の展開とともにある方向に傾いていき1890年代までには歪曲が定着したことを明らかにした、と評価される論考であり、佐伯有清『研究史広開土王碑』(吉川弘文館、1974)は碑文の研究のあり方が日本の古代朝鮮史観を歪曲させるのに重要な位置にあったことを提示するもの、と評価されています。(以上は『回顧と展望 16朝鮮』(山川出版社、1988年発行)の1972年~1974年の部分を確認しながら記述しました。)李の碑文改竄説を根拠として戦前の朝鮮古代史研究が見直されて任那支配を否定する説が広まったわけではないのです。ですから、李の説が完全に否定されたことが「任那支配を否定する説」の基盤を失ったことにはなりません。李の説とはある意味関係のないところで、植民地支配のなかで主流を占めた学説に対する批判は進行し、逆に「任那支配を認める意見」がその説を強化することができなくなってきているに過ぎません。韓国・朝鮮の政治的介入があって、それに同調する日本国内の社会的圧力というものが存在することは承知していますが、それだけのために「任那支配を認める意見が少数派になっている」という指摘は当たらないでしょう。むしろ、日本の朝鮮史学会・日本史学会を貶める物言いだと思います。
気になるのですが、「つまり韓国と日本国内の両方から政治的圧力や社会的圧力がかけられたことが原因となって自由な発言が封じ込められ、学術研究の中立性が損なわれ、その結果任那の歴史研究に大きな支障をきたしているのです。」とされるのは、久留米さんの意見・見解ではありませんか?そうした状況にある、と表明されている書籍・論評がありましたらお示しください。--田英 2007年7月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]
久留米氏に同意。いったい日本の古代史研究者はなにをしているのだろうか?歴史研究者でなく政治、イデオロギーに囚われた人間でしかない。結局、日本帝国時代の悪いイメージ(これも歴史学者が事実をしっかりしないために根付いたひとつの問題)と古代歴史をくっつけて研究してしまい、半島に気を使い、真実に近い論を言えない人々と言える。そこには何ら客観性・中立性や事実に近づこうとする精神はない。半島で前方後円墳がいくつも見つかり、日本製ヒスイが各地で多く見つかり、中国や朝鮮の史書には倭人が攻めていたと書かれ、終いには碑文には倭人が百済・新羅を破り臣民としたとまで書かれている状況でありながら、
「ヤマト朝廷と深い関連を持つ集団」が伽耶地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたなどと、あくまで「倭人が~」と言えない半島主導の半島言いなり研究者たち。これが本当の売国奴(歴史売国奴)と言えるのではないだろうか?これがまったく逆に、例えば九州あたりで新羅独特の墓が多く出て、半島でしか取れない物が多く出土し、各国の史書や碑文に新羅人が倭人を攻め臣民にした、などと書かれていたら「新羅人が」九州を支配していたなどと定説化していることだろう。これまでの日本の研究者の行動からして間違いない。どんだけ主張できない(わざとしない?)研究者達なのだろうか?真実を求めはっきり主張できる研究者はいないのだろうか?210.231.12.150 2007年10月6日 (土) 19:31 (UTC)[返信]


前節の件で、堂々巡りになりそうですのでこちらでストレートにお尋ねします。
  • 「古代以来今日まで」の「今日」はいつを指しますか。
  • 「一貫して」とは、「ひとつの態度・手法を終始用いること」の意味合いです。「異論もあるが」とつなげられる表現ではないとは思いませんか。「日本国内での異論の存在を否定する意味はありません」どころではなく、異論の存在を否定する意味にしかなりません。「一貫して」という表現に拘る余り、久留米さんが「異論を抹殺する」事態に陥っているとは考えられませんか?
  • 「一貫して~」を紛れもない客観的事実とされていますが、「異論があること」そのものによって、事実ではなくなっており、すでに久留米さんの主観になっています。敢えて客観的事実との主張を続けられるのであれば、客観的事実であることを示す検証材料を提供してください。(異論についての具体的な材料は提供済みです)
  • 「韓国が行なっている歴史観に対する抑圧行為は客観的事実です。」については、ろうさんも私も否定していません。私は、歴史教科諸問題の記事への誘導で十分事足りると考えます。実は私が前回の編集で行なった「また、日本が朝鮮半島を植民地として支配するにあたっての正当化に利用されたこともあるため、近年の概説書や教科書では任那問題を避けることが多い[1]。」として脚注つきで検証できるようにし、さらに別の例もあげていますが、これでも不満ですか?
以上、お答えいただけますでしょうか。--田英 2007年7月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]


えーと、ちょっとクールダウンしましょうということですね。久留米さまの意見はよく分かりますので、あとは正確かつ穏当な表現にしたいというだけです。いずれ、任那については中国側史料と広開土王碑文に残っている他は『日本書紀』に記載されていますが、(朝鮮側史料は後代のものなので一旦除外)『古事記』には一言も言及されていません。また、任那の調について百済新羅が代行すれば許容していることから、広義の朝貢国の可能性もあります。ということは日本側でも直接支配説で一致してはいなかったのではないでしょうか?--ろう(Law soma) D C 2007年7月13日 (金) 00:38 (UTC)[返信]

領域

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話題が分かれたようなので小節立ててインデント修正しました--田英 2007年7月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]

任那の領域をどう捉えるか(伽耶全域?金官一国?)が曖昧なままであることが気になっていましたので、すこし規模の大きな編集をさせてもらっています(→差分)。吉田孝『日本の誕生』も参考にしました。ついでに、近年の任那問題についても触れられていましたので状況としての加筆をしましが、議論中の一文はそのまま維持しており、つながりが悪くなっていることを報告しておきます。--田英 2007年7月11日 (水) 08:45 (UTC)[返信]

田英様、任那の領域をどう捉えるかといった問題は議題とは無関係です。無関係な話題を持ち出して議論を混乱させるようなことはしないでください。--久留米 2007年7月12日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
「任那の支配」を議案としているときに、その領域についての理解は無関係でしょうか?「支配」という面からは支配の形態と、対象となる領域・範囲が付いてまわるものだと思います。上記編集以前の任那の記事においては、支配の有無の前段階として、任那の領域が現状はどのように捉えられているかの表記がなかった(旧来の学説である「半島南部、伽耶の地域とも重なり合う」というものだけで、最近の学説が反映されていませんでした)ので追記が必要と考えました。この追記によって議論が混乱することはないと思いますが、なぜ混乱になるのかお聞かせ下さい。--田英 2007年7月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]


久留米さま、小節分けしておりますので、混乱はしないと思います。別々に議論しましょう。--ろう(Law soma) D C 2007年7月13日 (金) 00:38 (UTC)[返信]

『梁職貢図』百済条の出典

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『梁職貢図』百済条の出典は次のとおりです.

 李鎔賢「『梁職貢図』百済使条の「旁小国」」  朝鮮史研究会論文集 37,1999年,171頁~195頁

ここには,  叛波,卓,多羅,前羅,斯羅,止迷,麻連,上己文,下枕羅 の10か国の名前が挙げられています.

しかし,任那の名前はありません.ここから『梁職貢図』成立(525年前後)以前に 任那が滅亡したと推測しました.   署名:Ty270410 ty270410 2008年1月28日 (月) 15:12 (UTC)[返信]

前方後円墳と加耶

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前方後円墳がある全羅南道と全羅北道について「伽耶の勢力圏の最西部であった地域」という記述 がありますが,この記述の出典,または根拠についてご教示ください.

私は「加耶」とは慶尚南道西半分を指すものと理解していましたが,寡聞にして全羅道を含むというのは 初めて知った次第です.

署名:Ty270410

当該部分の加筆を行った([1]参照)者です。加耶の勢力圏に全羅道南部で百済の勢力圏に入っていなかった地域を含むとの説は、吉田孝『日本の誕生』にあります。説の要旨は、加耶という地域名は慶尚南道西半分を指すが、加耶を盟主とする小国連合の範囲は後年「百済に割譲」された四県までを含み、その地域は倭人が移住した地域であり現在の全羅南道と全羅北道の一部にあたるとするものです。ただ断定した表現にしたのは私の勇み足ですので、出典付きで直しておきます。--ろう(Law soma) D C 2008年1月4日 (金) 00:50 (UTC)[返信]

Ty270410です.ご教示ありがとうございます.吉田先生の説ですね!でも,吉田先生の説は史料の裏づけを欠く推測だと今は思っています.しかし,私も確証を欠いていますので,今はご教示に従います.08年1月27日--以上の署名のないコメントは、Ty270410会話投稿記録)さんが 2008年1月27日 (日) 14:14(UTC) に投稿したものです(ろう(Law soma) D Cによる付記)。

史料の裏づけを欠くと言えばおっしゃるとおりなのですが、ヤマトの勢力圏をヤマトと呼んだりする(緩い連合組織であっても盟主の所在地名称を組織の名称として使用する)例を引いて説明しており、一定の蓋然性は有していると思います。Ty270410さんの当初のご質問は「伽耶とは慶尚南道西半分を指すものなのに全羅道を「伽耶の勢力圏の最西部であった地域」とするのは疑問とするものでしたので、そのような説があることを提示したのであり、その説の当否については明記しておりません。裏付けを欠くとする研究者の論文などがありましたら、是非追記をお願いします。なお、署名は上のボタンの右から2つ目を押せば加えられます。--ろう(Law soma) D C 2008年1月28日 (月) 02:22 (UTC)[返信]
Ty270410です.ご教示ありがとうございます.「伽耶」,または「加耶」の範囲については,『三国遺事』に記述があり,その記述の周辺とされています.

全羅道は考古学的に「加耶」と異なる地域とされています.(山尾幸久先生や東潮先生の説) 吉田先生の説は原著を見ておりませんが,異説のように思われます. しかし,論が分かれておりますので,今はこのままでよいかと思います.Ty270410 2008年1月28日 (月) 14:52 (UTC)[返信]

吉田先生の原著を読んでみます(時期は遅れると思います.).その上でLaw somaさんにご相談したいと思います.Ty270410 2008年1月28日 (月) 14:59 (UTC)[返信]
念のため補足いたしますが、吉田氏は「全羅道も加耶」とは言っておりません。「全羅道の一部分も加耶(金官加羅)の勢力圏だった」です。いわゆる加耶という「地域名」はおっしゃるとおり「慶尚南道西半分」ですが、金官加羅の勢力は全羅道にも及んでいたというものです。相互に矛盾いたしません。まあ確かに異説かもしれませんが。--ろう(Law soma) D C 2008年1月28日 (月) 23:15 (UTC)[返信]

:吉田先生の本を買ってきました.76ページに任那加羅(金官加羅)が政治的統合をめざし,倭の軍事力を利用して,倭の軍隊や移住者を慕韓の国々へ送り込んだのではないだろうか,としておられます.この記事を典拠として「金官加羅の勢力は全羅道にも及んでいた」とまで述べるのは少し言い過ぎのように感じられますが,いかがでしょうか? 「伽耶地域とその西隣の地域」というのが典拠に基づく記載としてふさわしいと私は思います.--ty270410 2008年3月10日 (月) 13:33 (UTC)[返信]

送り込めるということは勢力圏内にあった、と解釈したのですが、言い過ぎの感も否めませんね。了解です。--ろう(Law soma) D C 2008年3月12日 (水) 00:38 (UTC)[返信]

中国史料による任那

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この節は私(Ty270410)が執筆しましたが,前半は史料のみを記述し,後半では中国史料のみによる考察を記述しております.後半について「要出典」とされていますが,「中国史料のみからは・・・・・のように見える.」というかなり客観的な指摘にも出典が必要でしょうか? もしも,必要ならば「私の本名よりの私信」というような記載でもよいでしょうか? ご教示ください.

署名:Ty270410

(提案)「Template:出典不要ではないか?」とアンダーラインとともにつけられた部分について提案ですが、記述は中文(中国語)の記事にある各資料と同様で、中国語記事では任那に関する記述を抽出してまとめています。「中国史料のみから考察すると、「任那」という呼称は、」とするよりも、中国語記事と同じように、「中国史料における「任那」の名称が出現する部分を時系列に沿って構成すると」のように、事実の羅列にしてまとめれば、史料に触れられる人や関連書籍が手元にある人にはわかるため、その表現自体に対する出典は必要なくなると思います。--Eurodollers 2008年1月4日 (金) 07:52 (UTC)[返信]

Ty270410です.ありがとうございます.結局は内容的にダブルことになりますので,全部削除します. 08年1月27日

任那の勃興の年代

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任那の勃興の年代を369年としてありますが,その根拠を出典と併せて記載してください. ty270410 2008年2月3日 (日) 13:39 (UTC)[返信]

「中国史料と日本史料の統合による任那の滅亡」節について

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現状では独自研究の可能性が高いようです。節全体の除去が望ましいと思うのですが、いかがでしょうか?--Peachkiller 2008年3月3日 (月) 02:45 (UTC)[返信]

とりあえず、当該節に残っていた私自身の執筆分を上の節に移動し、文章の繋がりがよくなるようにしてうえで、当該節全体をコメントアウトしておきました。除去してもいいのですが、この手の編集は忘れた頃に出典が出てきたりするので、念のため文章自体は残しておきました。--ろう(Law soma) D C 2008年3月3日 (月) 07:55 (UTC)[返信]
了解です。しばらくはコメントアウトが良いかもしれませんね。--Peachkiller 2008年3月3日 (月) 09:02 (UTC)[返信]

 この節は私が書きました.掲示板では書いたことがありますが、未公刊ですので削除します。--ty270410 2008年3月4日 (火) 14:29 (UTC)[返信]

任那日本府は削除すべき

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任那日本府は別に項目がありますので、記載はそちらに譲り、ここから削除してもよいのではないでしょうか?--ty270410 2008年7月10日 (木) 14:18 (UTC)[返信]

概要くらい載せておいても別によいと思われます。詳細はリンク先で、ということになってますし。--210.231.14.159 2008年7月20日 (日) 20:22 (UTC)[返信]

論旨の順序を変える編集をされているIP利用者の方へ

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任那日本府関係の記述について、段落の順序を変更する編集をされている方がおられますが、論旨が手戻りするようですので一旦戻しました。ここでの論理展開としては、

  1. 従来は倭の統治機関説が通説であった。
  2. 政治的な理由等により、朝鮮史学者を中心として、日本府非存在説が有力となった。
  3. しかし朝鮮半島における前方後円墳の発見等により、朝鮮半島における倭の影響力を否定することは困難になった。
  4. 現在では統治機関であったかどうかについては両論あるものの、倭の影響力を否定する説はほとんどなくなっている。

というものですので、順序が変わったり途中の説の書き換えがなされると論理展開が破綻するように思います。--ろう(Law soma) D C 2012年1月11日 (水) 02:22 (UTC)[返信]

「日本版」を理由とするコメントアウトを戻します

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本日、IP利用者の方により、「出典ナシの状態は適切ではないと思います。かつここは日本版ウィキペディア」との理由を付してコメントアウトが行われましたが、コメントアウトされた中には明確に出典を付した記述が複数あるため、一旦戻します。なお、出典とはWikipedia:出典を明記するにも書かれているように「記事末尾に参考文献を記載する」ことが否定されている訳ではありません。参考文献節の各文献を参照されてもなお記載がないものでしたら除去できます。--ろう(Law soma) 2013年6月6日 (木) 06:15 (UTC)[返信]

その後、私の編集を「取り消し」として、上記で私が問題視した「明確に出典を付した記述」部分を除いたものをコメントアウトしたようです。ですが、参考文献節にある田中氏の著書等にはコメントアウトされている部分に似た記述があったように思います。今、手元にない書籍ですので差し戻しは控えますが、IP利用者の方には、出典は脚注形式だけでなくWikipedia:出典を明記するにも書かれているように「記事末尾に参考文献を記載する」ことも含まれるということを、よくご認識いただきたいと思います。なお、「偏向的扱い」は致しておりません。これまでの編集履歴をお読み頂ければ誰でもおわかりのとおり、私は元々、朝鮮史学の意見一色だった記事を日本史学分野の意見を併記した中立的な記事にしてきたつもりです。これを、貴方のように「日本史学分野の意見中心の記事」にされては、Wikipedia日本語版の方針である「中立的な観点」に反することになります。もう少しよくお考えください。--ろう(Law soma) 2013年6月7日 (金) 01:03 (UTC)[返信]