ノート:代々木上原
フイフイ教という呼び方について
[編集]「フイフイ教」は、イスラム教の古い呼び方として存在するとは思いますが、かつて地元民だった当時、上原でフイフイ教と呼んでいるのを聞いたことはありません。「回教のお寺」といった呼び方はされていたようにも思いますが……。出典等ありましたらご指摘いただければと思います。--くにゃこ 2006年9月4日 (月) 12:56 (UTC)
自分は代々木上原でも西原の方なのですが(祖父母の代からで、戦前からの住民です)、 小学校の友人もそう呼んでいました。 (学区は西原・大山町・幡ヶ谷の一部です。「フイフイ教」は大山町。)
これは自分の叔母(昭和ヒトケタ生まれ)から良く聞かされた話なのですが 東京回教学院の前身はトルコ系住民の教育施設(富ヶ谷小学校の分校扱い)だったらしく、 西原小学校ができる前は西原も富ヶ谷小学校の学区だった関係で、 トルコ系・イラン系の友人が多かったそうです。
(ちなみに当時は代々木練兵場の柵を破って、練兵場内の塹壕で遊ぶ悪ガキもいたそうです)
「フイフイ教」という言い方はその頃からされていたようです。
いずれにしても、今となっては「民間伝承」に近い世界の話ですので、 ネット上にソースがある可能性は低いかもしれません。
おそらく新しい住民の方には、商店街や学校などで旧住民と交流しない限りは伝わらずに、滅んでいく言葉なのかもしれません。
図書館などで資料を確認してみます。 ソースが確認できたらまたこちらに書かせていただきます。 E46 2006年9月4日 (月) 14:24 (UTC)
「フイフイ教」でググるといくつか出てきました。
・夕刊フジBLOG http://www.yukan-fuji.com/archives/2005/06/post_2502.html
(引用)代々木公園から杉並方面に向かって井ノ頭通りを車で走行中、一瞬、不思議な塔が視界を横切ったような気がした。あまりにエキゾチックなその残像に、幻かとも思ったが、後日、付近に住む知人にその体験を話すと「ああ、あれはフイフイ教だよ」という答え。
・東京ジャーミー・近所の建築 http://homepage1.nifty.com/masuzawa/datas/syasin/shasinkan02.html
(引用)渋谷区大山町、その昔トルコ教会があり、フイフイ教と呼ばれていました。小学校の図工の時間、かっこうの写生の題材でした。
こちらをもって裏付けとさせていただいてよろしいでしょうか?E46 2006年9月4日 (月) 14:52 (UTC)
- 早速お返事ありがとうございます。そんなふうに呼ばれていたとは……。私の認識不足でした。うちは上原です。戦後引っ越してきたので、まぁ新住民の部類なのでしょうか?ともあれ大変失礼いたしました。コメントアウトを外しておきます。--くにゃこ 2006年9月4日 (月) 15:53 (UTC)
西原小学校の校区区域などについて
[編集]渋谷区立西原小学校は昭和2年ころの創立で、そのころは東京府豊多摩郡代々幡村でしょうから、西原小学校ができる前は、「幡代(はたしろ)小学校」の校区のはずです。父親が西原小学校の第1期卒業生で、幡代小学校から転入して卒業しています。富ヶ谷小学校の校区だったという記述は、代々木西原全体を言っているとすれば間違った記述でしょう。現在の東京ジャーミーの場所と同じかどうかわかりませんが、日本では東京と神戸にしかないフイフイ教寺院が昔このあたりにありました。そのせいか、インドネシア学生寮も近くにあって、理髪店でよくインドネシア人に出くわしました。代々木上原駅の位置が、複々線化するときに小田原寄りに200mほど移動したため、フイフイ教寺院の位置を正確に思い出せません。「回」の文字を「フイ」と中国読みすることを知ったのは大人になってからですから、地元で「回教のお寺」という言い方はしていません。代々木中学の生徒だったころに「コーラン」(クルアーン)を借りて社会科の時間にみんなで見たこともあります。明治時代から住んでいる人は少なくなり、代々木上原付近に小田急線が開通し、関東大震災以降に急速に宅地化が進んだことを知っている人も少なくなったようです。大山町には水戸徳川家の屋敷があり、別名を徳川山と地元では呼んでいます。我が家は明治時代末に田畑を耕して晩年を過ごしたいと5代前の先祖が引っ越してきて以来です。昭和の初めに引っ越してきた加賀百万石の前田侯爵邸には、すでにそのころ温室があってバラを栽培していたそうです。今の駒場の近代文学館のあたりのはずです。なお、現在渋谷区スポーツセンターの旧東京教育大体育学部跡地は、大正時代に国に体育振興に役立ててほしいと土地を寄付した方がいて、文部省体育研究所が最初は設けられたと聞いています。昔の写真では乳牛を飼う牧場だったようです。なお、西原小学校には校史がきちんと制作されているはずで、すでに他界した我が家の親戚が約40年前の編纂時に学校側の取材に応じているはずです。