ノート:人類館事件
沖縄県民が、他民族を差別したとするのは、無理やり過ぎでは無いですか。また、朝鮮の人々も抗議して、同じ様に自分たちの展示を中止させているようです。--58.90.159.235 2006年10月24日 (火) 12:05 (UTC)
独自研究
[編集]出典無し、外部リンク無し。--58.92.231.4 2007年7月15日 (日) 16:52 (UTC)
- 独自の研究には当たらないでしょう。本文に『人類館-封印された扉』という本が出典として挙げられているので。ちと沖縄にだけ焦点をあてすぎていますが、ならば加筆すればよいのであって、独自の研究というレッテルは筋違いと思います。どうも履歴を見る限り、不毛な編集合戦が過去に行われているようなので、念のために言っときますが、わたしは7/15の加筆(つまりテンプレはずし)以外は、これまでタッチしていない人間ですので、誤解のないよう願います。--210.132.233.32 2007年7月15日 (日) 17:40 (UTC)
- 貴方は、何か勘違いをなされていますね、独自研究はレッテルでは御座いませんよ。これは、出典・解釈等に疑問のある記事に対し、加筆・修正を期待するものです。貴方が、加筆・修正した後に除去するべきで、何もしない内からの行動はそれこそ不毛です。それから、「念のために」は言わないほうが良かったですね、疑いを持ってしまいました。
- では、貴方の加筆を期待します、ご返事は必要ございませんので、以上。--58.92.231.4 2007年7月16日 (月) 03:21 (UTC)--58.92.231.4 2007年7月16日 (月) 04:01 (UTC)
- 返事不要といわれてもね。まずWhoisなんかで調べてもらえればすぐわかるように、これまでこの記事に加筆したことはありません。嫌みめいたことを書く前にそれぐらいは調べましょう。
- さて本題ですが、どうも初心者さんでご理解頂けてないようですが、「独自の研究」というのは、Wikipediaにおいては排されるべきものですから、そこには否定的なニュアンスが含まれます。ですのでいろいろな意味で慎重にならなければなりません。
- まず編集の共同作業がここでは前提ですから、他者への配慮が不可欠です。そのためこうしたレッテルをまず貼るよりノートでの呼びかけが推奨されます。その点注意してください。ましてやこの場合、以前書かれた方が本文に参考文献を挙げているのですから、あなたの指摘は不適当です。また具体的にどの文章が「要出典」なのか明示していない点も配慮が足りなかったといえるでしょう。「貴方が、加筆・修正した後に除去するべき」というよりも先にすべきことが、あなたの方にこそあったということです。
- 次に先の版をざっと見た限り、十分なものとはいえないまでも学術的に絶対に誤っているという箇所はありませんでした。「独自の研究」のテンプレを貼るという行為は、記事に対する疑義を表明するばかりでなく、貼った人間の学力も問われています。人類館事件は著名な事件で、少し調べただけでも、私が7/16加筆分に挙げたような研究がすぐ見つかります。あなたがもしこういうものを事前に調べることに手抜きしていなければ、「独自の研究」のテンプレを貼るということはなかったでしょう。というのも自ら下調べするなり、知識があれば、この記事について「出典・解釈等に疑問のある記事」と感じることはないはずだからです。すなわちテンプレを貼るという行為によって、いみじくもご自分の不勉強を暴露する形となっています。この意味でも慎重さが必要だったのです。
- 最後にテンプレをはがしたからといって、その人物が加筆する義務などは生じません。ここはボランティアで成り立っている場所ですから、テンプレ除去するなら加筆するべき、といったものいいは反発を生むだけでしょう。今回は祝日で暇だったので、つきあって差し上げましたが、他の記事でも同様の言動を取られるなら、おいおいこの記事と同様の見解の相違にぶつかること、請け合いです。
- 軽々しくテンプレを貼る前に、事前に勉強すること、他者への配慮をした対応をすることを心がけてください。以上。--218.110.208.100 2007年7月16日 (月) 18:45 (UTC)
冒頭の定義文について
[編集]冒頭部分を一度修正しましたkamuraと申します。 現在の文章は資料と異なる内容が書かれているため、資料に基づいて修正すべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか?
(1)列挙されている民族名に、事件の当事者である清国が抜けているので追加すべきです。その際は、『風俗画報』269号(1903年)の原文表記に合わせて「沖縄県(琉球)」「清国(支那)」と表記する方が、資料の参照に際して混乱が少なく、分かりやすいかと思います。
(2)「見世物として観覧させた事件」ではなく、資料に即して「沖縄県と清国留学生が自分たちの展示に抗議した事件」と書くべきです。なぜなら、提示されている資料には沖縄県と清国留学生の抗議の理由を「見世物にされた」からだとは書かれておらず、以下のように書かれているからです。
『琉球新報』(4月11日) 「是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」
『浙江潮』第2号、1903年 「ジャワやアイヌ、台湾の生蕃は世界でも最低の卑しい人種であって禽獣に等しい。我々中国人が蔑視されるとしても、これらの民族と同列ということがあろうか」
以上の記述から、沖縄県と清国留学生が抗議した理由を書くのなら「アイヌや生蕃(台湾人)と同列に扱われるのは侮辱であるとして」あるいは「他の野蛮人と同列に扱われたくないから」としか書けないものと考えます。
(3)「住まわせ展示され」の部分は、『風俗画報』269号(1903年)の「各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する。」という記述に基づき、「一定の区域内に住みながら、日常生活を見せる」に改めるべきです。 また、朝鮮の展示も中止されたという資料は残念ながら見つかりませんでしたので、その資料が提示されない限り、朝鮮の展示中止について書き加えることはできないと判断します。
以上の点から、文章を手直ししてみました。できる限り現在提示されている資料に忠実に、そして自分勝手な判断を加えないように留意してみましたが、いかがでしょうか? ご異存なければ、この文章で修正しようと思います。
人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球)・朝鮮・清国(支那)・インド・ジャワ・バルガリー・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国留学生が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件。
※文末を「外交問題に発展した事件」と書きたかったのですが、外交問題になったという資料が提示されていないこと、および沖縄県が日本国内であることから、このような形にしました。 --Kamura tohru 2009年5月31日 (日) 00:11 (UTC)
- まずお尋ねしたいことがあります。kamuraさんは参考文献を読まれましたか。あるいは挙げられているもの以外の人類館事件に関する査読論文か研究書を読まれた上での加筆なのでしょうか。これは論を進めていくために必要なことなので是非お答えください。人様に尋ねるだけでは失礼ですので、自分のことも申し上げると、坂元や松田、吉見ら各氏の著作は所蔵しているか、図書館で以前借りて既読です。
- もう一つ。これは質問と言うより単なる確認ですが、kamuraさんのいう「資料」とは参考文献を指しているのですか、それとも別のものなのか、あるいは参考文献を含めたそれ以上のものを指しているのでしょうか。--獨頭 2009年5月31日 (日) 05:51 (UTC)
- 対応いただき、ありがとうございます。私の言う資料とは、ネットで検索できるものや、上にも書いています通り当ページに提示されたものを指します。獨頭さんほど参考資料を読んでいるわけではありませんが、この冒頭部分に関する限り、当ページを読むだけでも問題ないと考えます。私が冒頭部分に修正が必要だと考えるのは、このページ全体の要約として不自然な部分、あるいは根拠不足の部分があるからで、これは知識ではなく文章の問題だからです。
- (1)事件の当事者である「清国」が記入されていない。同じく当事者である沖縄県をはじめ、他の民族は書かれているのに清国だけが書かれていないのはおかしい。
- (2)「学術人類館」と書かれているのに「見世物として」と書くのはおかしい。
- (3)強制性や不当性を検証するために必要な人類館出演者の待遇や報酬、雇用など契約の有無に関するデータが無い。また、抗議によって実際に沖縄県と清国の展示(朝鮮も?)が中止されている以上、現在の「住まわせ展示され、見世物として」という人権無視などの不当な待遇を示す文章はおかしい。
- 以上の点から、
- (1)冒頭部分から清国を削除する正当な理由
- (2)人類館が見世物として興行されたという具体的な証拠
- (3)人権無視などの不当な待遇があったことを示す具体的な証拠
- が提示されない限り、あくまでも「現状としては」解釈を加えずに、当ページに提示されている資料の記述に従い、事実のみを書くのが公正なのではないかと思います。これは「抗議があったのだから強制された」「いや、抗議が受理されているのだから強制されてない」というような不毛な水掛け論を防ぐための措置でもあります。もし具体的な証拠となる資料が出れば、そのときに改めて書きなおせばよいかと思っております。--Kamura tohru 2009年5月31日 (日) 17:48 (UTC)
- 先ほど、他のwikipedia項目を参考にして、ノートで議論中であることを冒頭部分に記載しようとしたのですが、ノートが増えると煩雑になるかと思い、元に戻しました。念のためご報告いたします。--Kamura tohru 2009年6月1日 (月) 11:32 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。ただ今多忙につき木曜頃回答します。一言だけ言えば、一つでも参考文献を読めば、上の疑問が何故なのかが分かります。では。--獨頭 2009年6月1日 (月) 14:36 (UTC)
- ありがとうございます。ただ、参考文献を他に読んでいなければ分からない記述が冒頭の定義文にあるのは少々疑問です。wikipediaは不特定多数の人の閲覧するものであり、その多くは獨頭さんほどの知識は持っていない上、その理由が当ページ内で説明されていないからです。少なくとも現状では、当ページ内で参考文献の該当箇所を挙げなくては、読む側を混乱させることになると思います。とりあえず、以降の項目でも独立した項目で紹介され、議論の余地は無いと思われる「清国」については追加しておきますので、ご確認ください。--220.208.44.196 2009年6月1日 (月) 15:07 (UTC)
- 「トルコ」を見落としていたので追加しました。「バルガリー」も調べるとインドの部族のようですね。そうすると、現在の定義文に書かれている「マレー」は「キリン人種」のことだと考えてよいのでしょうか? もしお分かりになるようでしたら、ご教示いただけると助かります。--Kamura tohru 2009年6月2日 (火) 13:25 (UTC)
- 獨頭さんのご忠告に従い、いくつかの資料を読んでみました結果、獨頭さんのご意見を納得できた部分もあるのですが、それでもやはり現在の定義文には誤解を招きやすい部分があると判断いたします。場合によっては、定義文以外にも波及する問題かもしれません。とりあえず現状を保持しますので、今日の書き込みをお待ちしています。--Kamura tohru 2009年6月3日 (水) 22:08 (UTC)
可読性の観点からインデント戻します。しばらく時日が空きましたが、私見を述べます。まず前提として、当該記事に挙げられている『浙江潮』などの資料そのものからご意見を述べられていますが、それは独自の研究に当たるかと思います。資料そのものが正しいのかどうかは、参考文献等で確認した上でないと分かりませんし、そもそもWikipediaでは資料に基づいて加筆するのではなく、査読論文や研究書に基づいて加筆するのが大前提ですから、資料そのものから判断解釈されたご意見はこの記事の加筆の根拠としては採用できませんし、反映させることはできません。しかし「いくつかの資料を読ん」だとのことですので、(ここでの「資料」とは参考文献を指すものと解します。それを以前勧めましたので) 今後は参考文献に依拠した論を展開させていきたいと思います。
以下、具体的な私見に移ります。6月1日の番号についてのものです。 (1)への回答ですが、「清国」を含めるべきではありません。「議論の余地は無い」どころではありません。清国についてはKamura tohruさんが加筆されたように「民族衣装を着て、それぞれの民族住居で生活する様子を見せる民族展示が行われたところ」という風に展示が行われたわけではありません。展示が行われたのは、当時日本の植民地であった台湾についてです。博覧会開催中に展示が行われたという加筆をするのであれば、その典拠の提示をお願いします(無論参考文献のような研究書や査読論文です)。
(2)への回答ですが、複数の研究書で「見世物」という言葉が使用されているため、何ら問題ありません。たとえば「植民地の住民を見世物として大衆の眼前に晒したことで話題になった「学術人類館」が登場したのは、この博覧会においてであった」「この展示場に海外から呼び寄せられた「異人種」は「日常の起居動作」を観察されていたわけであるから、まるで見世物扱いされていたことになる」(ともに山路勝彦『近代日本の植民地博覧会』風響社、2008)。同様に「見世物」ということばを使用したものとしては参考文献にも挙がっている吉見本146頁や松田本128頁があります。また松田本133頁では当時の『大阪朝日新聞』が「観せ物」ということばを使用している資料を紹介しています。さらに伊藤真実子『明治日本と万国博覧会』(吉川弘文館、2008、pp97-98)でも吉見本の146頁を引用し、支持しています(伊藤さんはこうした展示が「娯楽要素として不可欠なもの」とも述べています)。この事件を扱った専門研究書が、しかも複数、使用している以上、この学術人類館に「見世物」としての要素が見られると見てよく、全然「おかし」くありません。「見世物」ということばを使用すべきでないというご意見に変更がないのであれば、そう主張している査読研究や論文をご紹介していただきたく思います。
(3)への回答ですが、上に上げたような諸研究では、劣悪な待遇や差別があったことを明記しています。たとえば松田本p129では「待遇の悪さ」に言及し、136頁では「学術人類館が露呈した「人種主義的まなざし」」ということばを用いています。また坂元本71頁では「植民地主義的「差別主義的まなざし」」が台湾館や学術人類館にはあったと言及していますし、平凡社大百科事典の琉球大の西里さんの書かれた「人類館事件」の項目では「明治期の沖縄差別を象徴する事件」という記述が見られます。そもそもこの「生きた人間」を展示すること、しかも観察する民族と観察される民族が截然と分けられていること自体非常に「センセーショナル」(松田本のことば)なことであり人権を無視したものでしょう。これに疑問の余地があるとは思えません。様々な専門研究もそういう理解となっていますし、このことは参考文献を一読すればすぐわかる事と思います。これだけの典拠がある以上、異なる方向での記述をする場合、Wikipedia加筆者自身の私見だけでは無論、反論とはなり得ませんから、挙げられた典拠以上の質と数を提示され、広範囲に学会で支持されていることを証明することが必要だと思います。
後、加筆自体についてですが、ここWikipediaは百科事典を標榜していますから、ある記述に対し一々資料そのものを挙げる必要はありません。ただし典拠となる研究書の提示は必要だとは思います。百科事典は、知識を調べる入り口であって、さらに興味を持った者は参考文献などを頼りに調べていくことを促すものです。「秀逸」とされたWikipedia記事でも、文章一つ一つに資料を引用しているわけではありません。むしろ引用が多ければ、非専門家の人たちの可読性を低める結果となりかねません。
長くなりましたが、以上の理由から冒頭の定義文は、以前当方が差し戻した版にするべきだと考えます。現在の文章は、感覚の違いと言うよりも、学術的に誤っているからです。
最後に質問ですが、Kamura tohruさんが読まれた本の書名を教えていただきたく思います。お願いします。--獨頭 2009年6月4日 (木) 14:57 (UTC)
- お返事ありがとうございます。まず、獨頭さんのご意見を読み、すべてに反論させていただくのには少々時間がかかると思いますので、取り急ぎ時間の許すところまでお返事させていただきます。
- 私が読んだのは屋嘉比収氏が書かれた『近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷』(別冊『環』琉球文化圏とは何か 藤原書店)です。
- まず、当時の生の証言が記録された一次資料がダメで、論文という二次資料なら良いというのが理解できません。私の挙げた資料は現実に当ページの【反発の構造―「文明」と「野蛮」の間―】でも引用されていますし、人類館に出演した各民族の記述もそうした資料に基づくものではないのでしょうか。これを使用しなければ冒頭定義文と後段の内容に矛盾も生じてしまいます。
- また、wikipediaには精査論文の存在していない項目が大量に存在しておりますので、その点で「Wikipediaでは資料に基づいて加筆するのではなく、査読論文や研究書に基づいて加筆するのが大前提」という獨頭さんのご意見は明らかに間違いです。
- あえて言えば、論文というのは一研究者の意見にすぎません。
- ある事実を特定の視点から解説してくれますが、その内容は事実そのものではなく、あくまで研究者のフィルターを通して加工されたものです。現在『博覧会の政治学』も読んでおりますが、そのタイトルからも分かるとおり、この書物は「政治学」の観点から博覧会を整理・解読した労作であり、この内容をwikipediaに掲載するなら「吉見俊哉はこのように主張している」と明記しなければ、読者にそれが事実そのものであると誤解させる危険が非常に高いと思われます。定義文では誤解を招かないように留意して事実関係を提示し、『博覧会の政治学』等研究者の意見は後段の各論で紹介すべきです。
- ただ今回調べてみて、いくつかの点で「見世物」、つまり「ショー」という言葉については獨頭さんのご意見にも正当性があると思いますので、その点については後述したいと思います。
- 現状では以上です。申し訳ないのですが少々お時間をいただきたく思います。もし「マレー」についてお分かりになるようでしたらご教示ください。--Kamura tohru 2009年6月4日 (木) 18:04 (UTC)
- 早速のご返答痛み入ります。今回のコメントは一次資料の扱いについて絞ってします。Kamura tohruさんは「当時の生の証言が記録された一次資料がダメで、論文という二次資料なら良いというのが理解できません。」と書かれていますが、これはWikipediaの基本理念を誤解されている、というかルールをまだご理解されてないせいだと思います。このことについては信頼できる情報源#用語の定義では「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述のことです。」とあります。さらにどういう人たちの著作を選んで書くべきかも後段で述べられています。ここまで明白に書かれている以上、「獨頭さんのご意見は明らかに間違いです。」と断言することはできません。この点、ご発言の撤回を願います。
- Kamura tohruさんは「あえて言えば、論文というのは一研究者の意見にすぎません。ある事実を特定の視点から解説してくれますが、その内容は事実そのものではなく、あくまで研究者のフィルターを通して加工されたものです。」と述べられ、それ故に「時の生の証言が記録された一次資料」を使用するのは構わないという論理を展開されておられますが、これは根本的な矛盾を孕んでいます。学術研究書の類といえど、その研究者のパーソナリティが文面ににじみ出ることは確かです。しかし「時の生の証言が記録された一次資料」を解釈するWikipedianにも同じことがいえます。しかもこの場合、文責もろくに引き受けない匿名の加筆者によって為されるもので、それはその加筆者自身の「フィルターを通して加工されたもの」に過ぎません。これはWikipedia:独自研究は載せないにある「編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈」を排するという宣言に真っ向から対立する「独自の研究」そのものです。つまり専門家・研究者の意見を匿名の権威もない編集者の意見によって修正することを意味します。これは百科事典と呼ばれる類の書物が維持すべきレベルを逸脱しています。だからこそ研究書に依拠して加筆訂正すべきなのであり、それに基づいて書いたときは、依拠した研究を註釈という形で併記することがWikipediaでは求められているのです。ですので「吉見俊哉はこのように主張している」と註釈で併記すること自体は問題ないし、むしろやるべきです。ただしそれに同意できないからといって、吉見説に異議を唱える研究書を挙げずに、あるいはあったとしてもどの程度浸透している説かを考慮せず書き換えた場合、それは編集者の「独自の研究」と判断されWikipediaでは排除されることになります。
- たとえばKamura tohruさんはWikipediaに記載された「資料」にのみ依拠し自ら解釈された結果、「清国」という文言を挿入されました。しかし参考文献をいくつか読んでいれば、これが明確な誤りであることに気づかれ、加筆編集するにしても別の角度からされたでしょう。現在、「人類館事件」記事には「この記事の正確さについては疑問が提出されているか、あるいは議論中です。詳しくはノートを参照してください。」という文言が冒頭に挿入されていますが、「清国」という一句が入っていることで、確かにこの記事は「正確さ」に欠けていると言えます。
- 返答を待ってもらった私がKamura tohruさんのご返答を急かすことはありません。むしろ諸研究を色々読まれる時間を作られることに賛同します。それはWikipediaの基本方針に添うものといえますので。では。--獨頭 2009年6月4日 (木) 21:29 (UTC)
- 詳細な解説をありがとうございます。獨頭さんのご意見には傾聴すべき点が多く勉強になります。私も独自研究の掲載には反対ですし、wikipediaの求める五本の柱に忠実にあるべきだと考えています。各部分への私の意見を述べる前に、もう一度私の定義文案を見ていただけますでしょうか。上記の文章に独自研究に当たる部分や、中立性を欠く部分がありましたらご指摘ください。
- ◆人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球)・朝鮮・清国(支那)・インド・ジャワ・バルガリー・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国留学生が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件。◆--Kamura tohru 2009年6月5日 (金) 05:32 (UTC)
- お邪魔します。私が見たところ、どちらも信頼できる出典は出ていると思います。ですから方針上の解釈論は無駄ですのでお止めになったほうが良いではないでしょうか。その上でとりあえず一言。獨頭氏の出された出典を拝見した上で、Kamura tohru氏の定義の表現の方が、とてもわかりやすく的確に要約されていると見えます。アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球)・朝鮮・清国(支那)・インド・ジャワ・バルガリー・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、 と記されているように、ここには「清国を展示した」とは書いておらず、獨頭氏の(1)の反論も読み違いをモトになされていると思います。現在の「見世物として観覧させた事件」では、はっきり意味が良くわからなく、読者に勘違いも与える表現だと考えます。--PSIA 2009年6月5日 (金) 07:28 (UTC)
- PSIAさん、ありがとうございます。的確なご忠告、汗顔の至りです。ご意見に異存ありません。では、方針についての話題については中止することとします。
- 再度獨頭さんにお願いいたしますが、私の定義文に事実と異なる部分、あるいは中立性を欠いたり独自研究にあたる部分、研究書や論文に引用されておらず検証が不可能と思われる部分があればご指摘ください。
- ご指摘がなければひとまず私の定義文案を記載し、それでもなお問題があれば追加・修正してゆく事にしたいと思います。--Kamura tohru 2009年6月5日 (金) 22:48 (UTC)
- 修正いたしました。文中の「清国留学生」は『近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷』に公使も抗議したとあり、後段でも説明があるので「清国」のみに変更しました。また、朝鮮については現在他の資料で確認できていないため、念のため書き込んでおりません。このまま一週間ほど反対意見が出なければ、「正確性」についてのタグをはずそうと思います。--Kamura tohru 2009年6月6日 (土) 17:33 (UTC)
- 事件の展示中止に至る経緯を簡単に説明した文章がなかったので、以下のような補足文を付けるべきではないかと考えています。ご意見いただきたく、よろしくお願いいたします。
- ◆
- 民間業者の施設で起きたこの事件では、清国の抗議が最も早く、公使や留学生からの抗議により、清国人の展示は展示前に中止された。このとき、朝鮮も中止されたとする資料もある[1]。沖縄県は一時展示されたが、在阪県人からの情報により、『琉球新報』に太田朝敷の抗議記事が掲載されて県民世論が反発し、琉球女性2人の展示も中止され、彼女たちは2ヵ月後に帰郷した。
- しかし、清国や沖縄県が反差別主義者だったというわけではなく、彼らの抗議理由もまた「野蛮人と同一視されたくない」というナショナリティーや差別意識に基づくものであったとされる。
- ◆--Kamura tohru 2009年6月7日 (日) 15:58 (UTC)
- 脚注(脚注挿入--PSIA 2009年6月9日 (火) 09:11 (UTC))
- ^ 「近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷」屋嘉比収 『別冊環-琉球文化圏とは何か』(藤原書店03)
- PSIAさん、脚注ありがとうございます。上の補足分ですが、人類館について調べているうちに、これは全面的に修正しなければならないと考えるに至りました。そこで上記の補足文を含め、現在全面的な見直しをしています。最初は単に同じページの他の記述と、冒頭の定義文が矛盾していることが気になって修正しただけで、獨頭さんがいなければ、ここまでこの事件を調べる気にはなりませんでした。その点感謝したいと思います。--Kamura tohru 2009年6月10日 (水) 08:14 (UTC)
- Kamura tohru氏の徹底的な調査に感服しております。出典に沿う正しい記事になるよう期待しております。獨頭氏が出てこられないのが残念ですね。Kamura tohru氏の調査にもとずく編集をし、獨頭氏がそこに異論があるならば一つずつ議論していくというスタイルで行けば良いのでは、と思います。--PSIA 2009年6月10日 (水) 09:58 (UTC)
台湾館について
[編集]「大阪博覧会」の台湾館の記述についての質問です。 現在、「大阪博覧会において、【人間の展示」は学術人類館と台湾館というパビリオンでなされた】と書かれていますが、台湾館でも「人間の展示」は行われたのでしょうか? 私の調べが足りないのか、未だ台湾館に人間が展示されていたという資料や参考文献を見つけられません。現在私が読んでいるのは『博覧会の政治学』『近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷』『第五回内国勧業博覧会要覧』上巻です。これは人類館の間違いではないかと思うのですが。ご存知の方がいらっしゃいましたら、お願いいたします。(6月8日既読の資料名を追加)--Kamura tohru 2009年6月7日 (日) 07:03 (UTC)
上記の疑問が解消しました。 結論から言うと、今日まで当ページに書かれていた「台湾館で中国人女子が展示~」という内容はウソです。 『人類館 封印された扉』で中国の方が、それが「人類館中国人女子事件」という人類館で起きた出来事であることと、その詳細な経緯を書かれています。応急処置として、台湾館で人間の展示があったという記述の削除と修正、および注意書きを加えておきます。--Kamura tohru 2009年6月10日 (水) 08:22 (UTC)
- 松田本に、纒足の女子が喫茶室の女給をしていたこと、その異質さ故に客がこぞって押し寄せたことが書かれています。消すことに得に異議はありませんが、脚注送りでよかったかとも思います。--Kulukulu 2009年8月3日 (月) 08:00 (UTC)
資料
[編集]国立国会図書館など、確認の難しい資料を掲載します。一部旧字を新字に改め、カタカナをひらがなにし、読み仮名を()で付けました。また可読性を高めるため一部改行を加え、原文に無い句読点も付け加えています。脚注部分の文責は私にありますので、間違いや、より的確な説明内容などありましたら、ご指摘いただければ幸甚です。なお、ご指摘の際は必ず原典を事前閲覧していただけますよう、お願いいたします。--Kamura tohru 2009年6月23日 (火) 19:40 (UTC)
■国立国会図書館デジタルアーカイブポータル
- 検索フォーム
- http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php
- http://porta.ndl.go.jp/service/servlet/Result_Detail?meta_item_no=I000057942&meta_repository_no=R000000008
- (人類館の記述)
- http://kindai.ndl.go.jp/BIToc.php
- http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40034027&VOL_NUM=00000&KOMA=117&ITYPE=0
『第五回内国勧業博覧会要覧』上巻(明治三十六年五月九日発行)より
- P.171
人類館は人種博覧会とも称す可(べ)きものにして、斜に正門に対して建設せらる、北海道アイヌ、台湾生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、瓜哇(ジャワ)[1]、バルガリー等八種の土人を傭聘(ようへい)[2]し、其(その)階級、程度、人情及(および)風俗等各固有の状態を示し、持って人類生息関し、学術上商業上及工業上の参考に資せんとするは其目的にして各其異なる住所の模型、装束、器具、動作等を観覧せしめ、尚ほ自国の歌舞音曲を演奏せしむ、学術以外又珍奇大に人を娯楽せしむるものあり。
--Kamura tohru 2009年6月23日 (火) 19:45 (UTC)
『第五回内国勧業博覧会要覧』上巻
- P.264
- ○台湾館
美術館の東隅の方り、阿部野門より通路に接して五彩を放てる一館あり、之れ我(わが)新領土の産物を陳列せる台湾館なりとなす、台湾が我版図に編入せられて以来既に十年に垂(なんな)んとし[1]、而(しか)して尚ほ我国人にして台湾を知るものは甚だ少なく、国民国家的観念未だ台湾を包括するに至らざるの感あり、乃(すなわ)ち今回特に此館を設置し、彼地の生産品を一堂に蒐(あつ)め、一は以て彼地の事情を知らしめ、一は以て台湾に対する国民の観念を濃かならしめんとするに至りたるなり。
先(ま)づ丹青(たんせい)[2]を以て飾られたる台北の南門に擬したる樓門(ろうもん)[3]を入りて左に歩を移せば此処(ここ)には清国福建省洋務局より参考品として陶磁器漆器類の陳列あり、次に台湾郵便為替及(および)貯金、電報累年比較、伝染病及地方病院等に関する各種の統計表を示し、尚ほ曠床(こうしょう)[4]並(ならび)に抹茶等の陳列あり、是れ応接所とも見るべきか。さらに進めば庁堂(ちょうどう)[5]といふ所謂(いわゆる)客間あり、即ち庁堂とは一に客庁と云ひ、門を入りて正面に設け、平素(へいそ)客に接する為めに作りし大廣間(おおひろま)なりとす、其(その)装置は正面に書軸を掛け、其前に中案[6]を据へ、尚
- P.265
卓上には其中央に大鏡左右に花卉(かき)[7]等を飾り、あるいは神仏を安置し、中央卓の前には八仙卓(八個の椅子をいふ)を左右に据へ、且(か)つ机卓を置くの外(ほか)付属品の備へあり、両側の壁には丹條聯(?)四幅つゝを掛け、其下は茶机を据ゆ、是れ之れを普通の装置とす。続いて寝室あり。普通之(これ)を房問[8]と呼ぶ。正面に眠床を据ゆ。是れ即ち寝台なり。濃紅色の蚊帳(かや)[9]を以て之を覆ひ、其正面の上部に蚊帳簾(すだれ)を垂れ、室の一隅に梳頭(そとう[10]洗面に用ゆる面桶架と称する洗面所を据え、休憩に用ゆる曠床あり、其上に丹條聯を掛く。或いは衣服類を蔵(おさ)むる堅厨と称するものあり。一見其状形を窺知(きち)するに足ると共に頗(すこぶ)る衆目を惹きつゝあるが如し。
台南より持来れる篤慶堂(関羽将軍を祀る廟堂)は故白川宮殿下が金枝玉葉の御身を以て賢くも征台の役に臨み給ひし時、御休憩所に充てさせられし建物なり、覚えず人をして殿下の高勲を仰ぎ偉蹟(いせき)を景せしむ、今や新領土の鎮護に立たせ給ふの台湾神社は台北を距(へだて)る約里餘圓山公園[11]より剣潭河を隔てたる丘上にあり。大直の峰仰げば愈々(いよいよ)高く剣潭の流(ながれ)臨めは(めば)益々(ますます)深し、而して堂の正面には女子の喪服、男子の喪服、粤(えつ)族[12]婦人の通常服、労働者の服装、男子通常の礼服、男子婚礼の服装、女子婚礼の服装、僧侶の服装及同士の服装を着けたる人形十個を示し、尚ほ絵画及標本を以て服装
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の状態、器具の種類、習慣の有様等を示したる二個の大衝立(ついたて)あり。いづれもその如何なる状態なるかを察知するに於て遺憾なく、是れ亦(また)頗る衆目を驚かすものゝ如し。夫(そ)れより館内の中庭に進めば台北より持来れる舞楽堂あり。その形状素(もと)より支那流たるは勿論なるも篤慶堂と共に輪奐(りんかん)[13]の美を極む。舞楽堂は普通戯堂と呼び凡(すべ)て官衆段戸等の中庭に設くるものなり、而して此堂は台北域内なる旧行台即ち現今台湾総督府の構内に在りしものにて、清の光緒十八年の建設に係るものなり。尚ほ其上に轎(きょう)[14]を出品せり。
次に阿倍野門寄りの通路に轅門(えんもん)[15]と称せるものあり、是れ台湾の●衙署(●がしょ)[16]の門前に多く見る所、蓋し支那式建物中の古き特色を示すものの一なり。茲(ここ)に建設せられたるは台北城内なる旧台湾巡撫衙門[17]の門前に在りし轅門の一を移したるものなり。
夫れより仙遊軒あり、即ち台湾流の料理店なり、未だ其風味を知らざるものは入りて玉愛、寶琴[18]の歓待を受くる亦可(「か」または「べき」?)なり。樓門より入り中庭の舞楽堂を経て進みたる正面に喫茶店あり、其樓上を優待所に充つ。室内の装置は総(すべ)て台湾流を以て設備せられたる、其左右には共同売店あり、各種の特産を販売せり。
さらに樓門に還(かえ)りて右方より進めば、台湾人生活の状態はここにても亦知ることを得べし。先づ織物類を陳列し蕃人の衣服、弓矢、武器、飲食器等を示し、尚土俗の一般を示さんめ宗教及迷信並に日常の生活に関する出陳あり、帽子あり、笠あり、各蕃族相貌一覧及び図解等の備さへあり、新港社党目老猫尉夫婦の像は以て康煕(こうき)[19]の中葉(ちゅうよう)[20]清国に帰服して頗る功ありしは台湾史を繙(ひもと)くものゝ能(よ)く知るところなるべし。尚ほ台湾館番族分布図のごとき、何人も注目すべきものなるが彼等今や我が皇徳に浴すそも何等の盛世ぞ。他に装身具、儀式及音楽に関する器具等の陳列あり、いづれも一見の価値あるべし。
台湾製塩高累年比較表は当業者の最も注意すべきものなるべし。今最近の産額を示せば即ち左の如し。
- 年次 産額
- 三二 一八,三九六,五〇八(斤)
- 三三 五八,八一一,一六九
- 三四 八〇,四三〇,七〇九
- 三五 一〇六,六七七,〇四〇
樟脳の出陳亦頗る衆目を惹くものありて種樟脳、改良乙種、粉末圧搾甲乙両種、乾リュウ製[21]等を陳列し尚ほ其副産物たるサフロール、インセクトール、デシンフェクトール等の出品あるを見る、樟脳を以て惜字亭(せきじてい)[22]形を作りしもの是亦大(おおい)に衆目を驚かすに足らん。台北監獄署製の花壺、茶棚及卓子等の出品亦少なからず。尚ほ帽子及其原料は慥(たし)かに本パナマを凌(しの)ぐものあるを見るべし。夫れより各種陳堂に入れば米を始め、泥藍(どろあい)[23]、姜黄(きょうおう。ターメリック)、葉煙草、椪柑(ぽんかん)、雪柑、蜜柑(みかん)、芭蕉実、甘蔗(かんしょ。サトウキビ)、胡麻、菁子(せいし)[24]、黄麻(おうま)[25]、苧麻(ちょま)[26]、蘭等の農産物の出品あり。且つ台湾内地間輸出入累年比較表を示せり、就(つい)て之を見るに一昨三四年に於ける輸出入の最も多額なるもの略ぽ(誤植?)左の如し。
- 輸入
- 呉服類 八〇〇,〇〇〇
- 薬剤品 八五〇,〇〇〇
- 米 九〇〇,〇〇〇
- 木材及板 一,二一一,〇〇〇
- 輸出
- 米 一,二〇〇,〇〇〇
- 樟脳油 一,三三〇,〇〇〇
- 樟脳 一,六〇〇,〇〇〇
- 砂糖 二,三〇〇,〇〇〇
次に包種茶、烏龍茶等の出品あり。砂糖、木材標本、米粉、麺、農具、鉱石、食塩、水産物、漁具及模型、酒、煉瓦、紙、動物症本、測量器、度量器、指物等の出品亦頗る多く其出品点数約四千に達し、其出品人員亦二千六百を超ゆといふ。
台湾館は実に博覧会中の小博覧会なり。参考館、加奈太(カナダ)館等と共に一種の光彩を放つ、一度び此館中に入れば、乃ち小台湾中に移りたるものの如く、左顧右眄(さこ・うべん)[27]如何に吾(わが)国威の盛大なるかを感得することを得ん。吾人は此陳列館を以て、特に今回博覧会中の最も有益なる設備の一なりと称せざるを得ず。
- ^ なんなんとする。ほとんどそうである
- ^ 丹=丹砂で朱色の顔料。「赤と青」から転じて色彩、絵画を意味する。
- ^ 楼門。二階造りの門。やぐらのある門。
- ^ 曠は広の旧字
- ^ 表ざしき
- ^ 案=机。中くらいの大きさの机?
- ^ 卉=草。草花を意味する。
- ^ 原文ママ。「房間」の誤植?
- ^ 蚊を避けるための目の細かい網。
- ^ 髪を梳(くしけず)ること。
- ^ 台北圓山公園と思われる。
- ^ エツ族。「越」とも書く。中国南部、現在の浙江(せっこう)省以南からベトナム北部にかけて住んでいた南方系の民族。また、その国。あるいは中国広東(カントン)省の異称。
- ^ 建築物の高大で壮麗なこと。
- ^ 中国・朝鮮で用いられた一種の駕籠
- ^ 《昔、中国で、車の轅(ながえ)を向かい合わせたところを出入り口としたところから》陣営の門。軍門。三国志には呂布が轅門にて戟を射る描写がある
- ^ 衙=役所。●=「府」の旧字か?
- ^ 江南式建築物。台北城内に初代台湾巡撫劉銘傅により建設され、清代に台湾全省の行政を統括していた役所。
- ^ 2人は台湾出身の女性で、台湾料理店「仙遊軒」の給仕を担当した。寶は「宝」の旧字。玉愛(ぎょくあい?)は23歳、寶琴(ほうきん?)は22歳。特に寶琴はその愛嬌で客を騒がせたという。また、この料理店と喫茶店は非常に人気が高かった模様(以上、大阪毎日新聞より)。資料としては使用できないが、月刊「大阪人」2003年11月号(vol.19)に「1903博覧会シティ(第五回内国勧業博覧会)開幕」と題した記事が掲載され、同台湾料理店および台湾館の記述があるが、その内容は現代のEXPO展示に対するのとほぼ同じイメージであり、おそらく当時の一般客の感想にもっとも近い内容だと思われる。
- ^ 清の元号 1662年 - 1722年
- ^ 「中ごろの時代」という意味。
- ^ リュウは「食」部に「留」。蒸すという意味。
- ^ 文字を神聖視する儒教の文字供養塔とも呼べるもので、寺などで書籍等文字の書かれたものや不要文書等を焼却するための炉。通常はレンガ作りで六角形。惜字炉、敬字亭とも言う
- ^ 藍草の葉を水中で発酵させたインジゴを含む泥状の植物染料。この染料につけ込んで染色するとくすんだ青色になる。
- ^ 漢方薬の蔓菁子(マンセイシ)と同一のものか?
- ^ 茎から繊維をとる植物。ツナソ。こうま。 *とった繊維はジュート。
- ^ 別名ラミー。植物繊維の一種
- ^ 左右を見わたすこと。転じて周りの様子を見てためらい、戸惑う意味にも使われる。「右顧左眄」に同じ。世界的には右を優位とする思想が多いが、戦国以降の中国においては左を上位とする思想が強い。たとえば、日本語では「みぎひだり」だが、中国語では「左右」と表記する。
--Kamura tohru 2009年6月23日 (火) 19:57 (UTC)
http://kindai.ndl.go.jp/BIToc.php
『第五回内国勧業博覧会協賛会報告書』川地喜三郎/刊 明治三十六年十一月廿日発行
(原文カタカナをひらがなに、また一部旧字を新字に改め、句読点および空白を追加ています)
- P.18
- 第弐編 本会組織の内容
- 第壱章 本会主意書、会則、役員功労章規定
- 其一 趣意書
来る明治三十六年を以て大阪市に開設せらる、第五回内国博覧会は其規模の大、其組織の新なる、決して従来の博覧会と口を同じうして論ずべからず、乃ち内は以て我殖産興業の発達を奨励し、外は以て我が通商貿易の拡充を計るにあるは、多言を要せざる所なり、是の故に主務省を初め、わが府市当局理事者に於ても、之が準備に拮据(きっきょ)[1]経営せられつゝあり、此の時に当り其開催地たる当大阪市民は、地位の如何に拘らず、職業の何たるを問はず、能く博覧会開設の趣意を体し、協同一致奮(ふるっ)て此博覧会をして、十二分の効果を収めしめ、毫末(ごうまつ)[2]の遺憾なからしめざる可からず、是れ本会を組織する所以の大要なり
本会の精神とする所前述の如し故に本会は先づ広く博覧会の首位と其の盛況とを内外に鼓吹(こすい)し、力(つと)めて来観心を誘起し且其来観者の便利と満足とを計り、之と同時に終始当局者の後援となり、専(もっぱ)ら公私の間に介立して諸藩の付帯事業を処理経営し、以て及ぶ限り此博覧会をしてその効果を多大ならしめ、其光彩を燦爛(さんらん)[3]たらしめんことを期す。而して本会の施設する事業の成効を期せんには開設地たる大阪市民全体の協力に頼らざるべからざるは勿論尚ほ広く各地方人士の賛助に待たざるべからず節に切に望むらくは速(すみやか)に本会の趣意を諒し奮て入会賛助せられんことを
明治三十五年五月 第五回内国勧業博覧会協賛会
- 会 長 住友 吉左衛門
- 副会長 鶴原 定吉
- 同 土居 道夫
- P.32
- 其二 会則
第十(興業物割引券の贈呈) 本会の奨励 引をなすもの左の如し
- (一)不思議館 (※以下、内容省略)
- (二)動物園
- (三)ヲーターシユート (※ウォーターシュート)
- (四)音楽界と演舞会
- (五)道頓堀劇場と芦辺踊
- P.180
- 第二章 幇助事業
- (一)喜賓会支部
- (二)清韓協会
- (三)大阪ホテル拡張に対する補助
- (四)喫茶会
- (五)不思議館
- (六)動物園
- (七)船滑り(ウオーターシユート)
- (八)特置体育場(大日本体育会)
- P.198
- (九)学術人類館と世界一週館
本館は内地に近き諸島の人種を集め 人類学上の研究に資せんとの目的にして設置せるものにして 坪井理学博士の賛助を得て 設備頗る整ひたり。館内は諸人種の風俗器具生活の模様等を実地に示すの趣向なれは 一人種毎に一室を劃(かく)し[4] 別に余興舞台を設けて 各人種交替に其の人種特有の歌舞音曲を演することゝしたるか 同所には北海道土人の酋長ホテネ事伏根安太郎のアイヌ服を着して慷慨[5](こうがい)談をなせるを見ること多かりき 在館人種中には最初支那 朝鮮 琉球等も交り居たるか 同人種の感情を害するとの点より之れを除き 台湾の生蕃 熟蕃(じゅくばん)[6] 印度 キリシ(原文ママ。キリンの誤植と思われる) 爪哇(ジャワ) 亞非利加(アフリカ) 土耳古(トルコ)等の人種は各本土に於けるか如く構造されたる室内に日常生活の有様を示し 時々国音にて唱歌するを聞けり。別に坪井博士作成の人類地図 及東京帝国大学人類学教室備付の諸物品を借り受け 又特志家(原文ママ)の出品等をも尽く陳列して 人類学研究の資料となさしめたり。本会は最初之れに賛同することを躊躇したるも 後同館の専(もっぱ)ら学術的となりたるを認め四月十七日の常議員会に於いて 本会補助事業の一に加へ同館普通入場料拾銭 優待券参拾銭なるを本会の徽章(きしょう)佩用者には半減することを約したり。
世界一週館は人類館と相隣せる一種のパノラマ館なり。日本 支那 欧州 北米等に於ける名ある都市港湾古蹟の中 十三ヶ所を択(えら)ひて油絵遠景を描き前には人物家屋樹木船舶等の実物 若(もし)くは模造物を配置し 人物其他を時々動かして観客の目を喜ばしむるにあり。而して其順序は (一)神戸港海岸より海上を望む景 (二)台湾土人の風俗 (三)海上より香港港湾を望む景 (四)古倫母[7](コロンボ)の景 (五)蘇士(スエズ)運河の景 (六)巴里(パリ)市街の景 (七)瑞西(スイス)の山水 (八)伊太利(イタリア)の景及ボンベイ埋没市発掘の景 (九)伯林(ベルリン)大学 (十)倫敦(ロンドン)市街 (十一)聖路易(セントルイス)博覧会工事中の景 (十二)ナイヤガラ瀑の景 (十三)布哇(ハワイ)ホノルゝ府遠景等にして入場料は拾銭なり。其順序体裁自ら世界一週の名称に適ひ 教育の一助ともなるを以て人類館と同時に 仝し(=同じ)条件の下に本会補助事業の一に加へたるか 開会以来全国各学校生徒の団体入場者多かりしも 前者と共に詳細の統計を得す。
- (一〇)東西合併大相撲と大阪大相撲
- (一一)豊公[8]遺物展覧会(附千瓢会)及東洋美術奨励会
- (一二)能楽会
- (一三)招魂祭 供養 天神祭
- P.205-206
- (一四)薩摩踊 美人写真館 大曲馬
薩摩踊は薩摩隼人古来独特の遊戯にして演芸者百二十人躯幹皆六尺前後、その演する所は太鼓踊棒踊甲冑踊等にして各由緒ある演技なり。場は動物園世界一週館人類館等と共に博覧会売店の西側に厳めしき道場を設けて鐘太鼓の音勇ましく開場し伏見宮殿下の御成り等もありて最初は好況を呈したりき。本会は又た之を補助余興となし金五百円を交付したるか何分屈強なる多数の人を要し従て経費甚だ多大なりし為一人拾五銭の入場料は之を償うに足らす本会々員に配布せる半減券の無効となりしは遺憾なりしか遂に五月八日閉会せしを黙許するの止むを得さるに至れり。
美人写真館は小川一眞氏が東京新柳二橋を主として日本橋葭町(よしちょう)赤阪浅草吉原及び当地の芸妓百余名を撮影して引延したる上十分の色彩を施したるを縦三尺五寸横二尺の額面となして館内に連掲したるものにして技巧見るへきものあり。又是れ本会補助余興の一として入場料僅々(きんきん)五銭なりしも終始入場者少く博覧会閉会以前に閉鎖したるは前者と共に博覧会余興設備中失敗者の一なるへし。
大曲馬は博覧会新場内に設けられたる本会補助余興の一にして前述の例に準する条件の下に約五百円の補助金を与えたるものなり。欧人の演技頗る巧に 皇太子同妃殿下の御台臨(ごたいりん)をも辱(かたじけの)うしたるか内部に種々の事情ありて博覧会開期半ならさるに閉場し後交替して演技するものありしも是亦失敗に了(おわ)りたり。
- (一五)全国書画家倶楽部
- (一六)大阪私立衛生会救急治療所
- (一七)全国新聞記者集会所
- ^ 手が疲れてくたくたになること。
- ^ 毛の先。極めて細かくわずかなことのたとえ。
- ^ 光り輝くようす。はなやかなようす。
- ^ 分かつ。区切る
- ^ 世の不正を憤って嘆くこと
- ^ 帰順した原住民。また、漢民族に同化していた台湾高山族(高砂族)
- ^ スリランカの最大都市コロンボ市。日本びいきで有名。
- ^ 豊臣秀吉公
--Kamura tohru 2009年6月23日 (火) 20:11 (UTC)
近代沖縄におけるマイノリティー認識の変遷/屋嘉比収
『別冊環⑥-琉球文化圏とは何か』(藤原書店03)所収 抜粋
一 明治期の太田朝敷
- 明治期の太田朝敷のアイヌ、台湾、朝鮮に関する認識を端的に示しているのは、1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会での、いわゆる「人類館事件」に関する太田の発言である。人類館事件とは、博覧会の会場外に隣接された民間業者による「学術人類館」で、「北海道のアイヌ5名、台湾生蕃4名、琉球2名、朝鮮2名、支那3名、印度3名、同キリン人種7名、ジャワ3名、バルガリー1名、トルコ1名、アフリカ1名、都合32名の男女が各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作」を見せる状態で展示された事件である。(3)同博覧会は、娯楽性や見せ物的要素においても、これまでの博覧会の内容や展示のあり方とは一線を画すものだった。そして欧米の博覧会で採用されていた帝国主義の植民地主義的な展示方式、すなわち植民者が現地人を差別的に眼差す展示方式を、帝国日本として初めて国内に導入した博覧会でもあった。(4)それに対して、中国や朝鮮の展示については、公使や留学生から抗議や批判が起こり、中国や朝鮮人の陳列はいち早く中止された。(5)沖縄についても在阪県人から人類館事件の情報がもたらされ、それを現地取材した太田朝敷の中止を求める抗議記事などが数回にわたり、『琉球新報』に掲載されたこともあって、県民世論が反発し、琉球女性2人の展示も中止され、彼女たちは2ヵ月後に帰郷している。
- その博覧会には、前述したように、帝国日本がアジアに拡張するに伴い、欧米の植民地主義の眼差しを内面化した差別的な展示方式が導入されていたが、それに隣接し開設された「学術人類館」でも、異民族を「未開人種」や「劣等民族」として分類し評価する人類学の関与と、その人類学の学術知が果たした権力性や政治性が指摘されている。(6)その人類館事件に対して、太田朝敷は、琉球人を陳列した差別的展示のあり方に抗議し中止を求めたのであるが、その批判する論調の中で、はしなくもアイヌや台湾、朝鮮人に対する太田の認識が、次のような形で提示されている。
- 「陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」(7)
- その引用文の後半部分で強調されているように、太田は帝国国民である沖縄県人が、台湾の生蕃と北海のアイヌと同列に展示されたことは沖縄県人を侮辱するものである、と反発している。その太田の発言に見いだされる批判の論理は、差別された者がそれから脱却するために差別意識を内面化し、他の少数民族を差別視する抑圧移譲の構造である。それは言い換えると、自らを擁護しその優位性を主張するために、他の少数民族を差別し排斥する論理だといえよう。その抑圧移譲の構造を含んだ太田の批判の論理は、女性に対する太田の認識のなかでも同じように指摘できる。それは、太田が他の少数民族を表象する際に用いた「劣等種族」という語句と同様に、女性を表現する際にも「劣等の婦人(賎業婦、辻遊廓の娼妓)」という語句を使用している点に端的に示されている。先の引用文のなかで太田が、「辻遊廓の娼妓」である「斯の婦人を指して琉球の貴婦人」として展示されているのを批判していることからわかるように、太田のなかではその「劣等の婦人」が「琉球人」を代表して展示されているあり方に対しても強い不満をもっていた。そこには、職種で女性の優劣をつける太田の家父長的で差別的な眼差しがみられる。それは、帝国日本の「内国植民地」として位置付けられ、日本から「女性」として表象されている沖縄のなかで、沖縄男性がより劣位の位置にある沖縄女性へ抑圧を移譲する差別的な眼差しである。
- ところで、なぜ太田の論説は、そのような論理構造をもっていたのであろうか。それは、彼の人類館事件に関わる論説の中で、先の引用箇所とは別の部分で数多く散見される、次のような「全国共通」「全国との調和」「全国帰一」「全国と一致」という語句に如実に示されている。太田の論調は、これからの沖縄は「全国」同様に帝国日本の一県として積極的に「同化」し、日本の「帝国臣民」「国民」として貢献すべきだとする強い主張である。そこで強調されているのは、明治30年代前半に沖縄でも徴兵制や土地整理、租税制度など全国同様の法制度が施行されたことを受けて、これからは意識や精神面でも沖縄県民はりっぱな帝国日本の「臣民」や「国民」になるべきだという太田の主張である。そしてその背景には、他府県人の沖縄人に対する「種族的差別」を、沖縄県民がりっぱな帝国日本の「臣民」「国民」になることによって乗り越えるべきだとする太田の論理構成がある。言い換えると、沖縄人に対する「種族的差別」を「帝国臣民」としての「ナショナリティー」に同化することで乗り越えようとする志向性だといえよう。人類館事件に関する太田の論説を読んでみると、沖縄とアイヌ、台湾、朝鮮との関係において、「人種」や「民族」の問題だけでなく、その「帝国臣民」としての「ナショナリティー」の問題が、いかに重要視されていたかを確認することができる。その点で、当時の沖縄の新聞を読んで印象的なのは、アイヌや台湾人、朝鮮人と異なり沖縄人は日本人と「同一民族」であるという主張と、いち早く帝国臣民になった沖縄県民に比べて朝鮮人や台湾人は帝国日本の「新俯の民」だという差異意識である。そのことからも、明治後期の沖縄の知識人において、いかに日本帝国の「臣民」「国民」としての「ナショナリティー」の威光が、眩しく輝いていたかがうかがわれよう。
--Kamura tohru 2009年7月1日 (水) 15:39 (UTC)
- (3)『風俗画報』269号、1903年、37頁。なお、人類館は内国勧業博覧会協賛会の主催ではなく民間業者による開催であったが、同協賛会から費用が補助され同会の承認を得た催物だった。
- (4)吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書、207~217頁、1992年)。なお、政府主催の内国博覧会の敷地内でも、初めて植民地展示館として台湾館が設置された。
- (5)厳安生『日本留学生精神史──近代中国知識人の軌跡』(岩波書店、1992年)。坂本ひろ子「中国民族主義の神話」(『思想』1995年3月号)。
- (6)松田京子「パピリオン学術人類館」(大阪大学文学部日本学研究室『日本学報』15号、1996年)。
- (7)太田朝敷「人類館を中止せしめよ」(『琉球新報』明治36年4月11日)。なお太田朝敷の論説の全体像については、比屋根照夫・伊佐眞一編『太田朝敷選集』上中下巻(琉球新報社、1994~6年)を参照。人類館事件と太田の論説については同選集の中巻の解説、比屋根照夫「同化論の成立と展開」を参照。また人類館事件と沖縄については、真栄平房昭「人類館事件──近代日本の民族問題と沖縄」(『国際交流』№63、1994年)がある。--Kamura tohru 2009年7月1日 (水) 15:42 (UTC)