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ノート:交響曲第3番 (ブルックナー)

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2008年5月14日 (水) 14:09の版

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「若々しく新鮮な魅力を評価して第2稿・第1稿を使用する指揮者も少なくない」について、若干違和感があります。第1稿と第2稿では背景がやや異なります。第2稿については「この主題と楽想では、第3稿のような晩年の音楽の展開をさせるよりは、第4番第2稿~第5番あたりに近い様式を持つ第2稿がふさわしい」という評価に基づくものと思えます。もっともこの部分(原文は私が58.81.123.144にて記載)、半端な具体記載を膨らませるよりは、もっとシンプルに削り込んだ方がよいかもしれません。総持寺 2008年5月26日 (月) 15:46 (UTC)[返信]

私の編集の意図は、第1稿や第2稿を演奏する指揮者が、消去法で第1稿や第2稿を選択しているのではなく、第3稿よりも第1稿や第2稿に音楽的魅力を感じて選択している、というニュアンスを持たせることです。原文では、本来であれば作曲者の最終決定稿である第3稿を当然演奏すべきであるのに、問題点があるため仕方なく1、または2稿を用いている、という風にも読めます。「『この主題とこの楽想では、(中略)第2稿がふさわしい』という評価に基づくもの」と言う点には全く異論はありません。しかし、それを、「第2稿独自の魅力を評価して」という風に言い換えることは必ずしも大きく的外れであるとは言えないと思いますが、如何でしょうか。--Gruppetto 2008年5月26日 (月) 17:15 (UTC)[返信]

反応ありがとうございます。基本的な考え方に隔たりはなく、言葉遣い・文章表現の問題だけであると認識しておきます。双方の問題提起を踏まえた上で、若干言葉遣いと文章表現の変更をさせていただきました。もし気になる点があれば修正してください。総持寺 2008年5月27日 (火) 14:36 (UTC)[返信]

楽章構成

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第2楽章

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現在の本項目では楽章の構成を「A-B-C-B-A」としています。ただ、(こちらで執筆されている方はご存知と思いますが、)解説によっては、全体を4/4拍子の部分(現行のAに相当)と3/4拍子の部分(同BとCに相当)に大きく二分して把握しているものもありますね。前者をa、後者をbとすると、第1稿はa1-b1-a2-b2-a3の5部形式であり、第2稿はa2全部とb2冒頭が削除され全体としてはα-β-α'の3部形式(a1-(b1-b2)-a3)となり、第3稿では3部形式に変わりはないもののb2がより短い移行句に差し替えられる、という形になります。

これは「第2交響曲以降のブルックナーの緩徐楽章は2つの部分が交代しながら展開する5部形式が基本形である」という認識に立っているものと思われます。私はこの捉え方を採用しつつ「第1稿では5部形式であるが第2稿以降では3部形式に縮小されている」旨を加えたいと考えていますが、いかがでしょうか。

この場合、本項目の記述は以下のようになるかと思います。

アダージョ 変ホ長調 4/4拍子 荘重に (第1稿)A-B-A-B-Aの5部形式 (第2稿以降)A-B-Aの3部形式
第1部(A)は弦楽器群による美しく内面的な旋律である。第2部(B)は3/4拍子で、ヴィオラが奏でる優美な旋律と「神秘的に」と書かれたコラール風の旋律の2つの楽想から成る。これら2つの部分が提示された後、第1稿ではABが各々再現されるが、第2稿以降で順次削除短縮されている。楽章の終盤、Aにより大きな頂点が形成されるが、ここでの管弦楽法にはワーグナーの影響が反映されている。コーダも美しい音楽で、『ワルキューレ』の眠りの動機が引用されている。

--Wtrgt 2008年10月5日 (日) 06:55 (UTC)[返信]


『「交響曲第3番 (ブルックナー)」には大言壮語がある』とする主張について

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@Gruppetto:このままでは、Gruppettoさんと私の編集合戦になる可能性があります。そのため、もしGruppettoさんが再び私の編集を差し戻した場合、私は何も行動せず、一旦立ち止まって様子を見ます

討論をする前に、まず、現在の「交響曲第3番 (ブルックナー)という記事の冒頭部を見て頂きたい:

この作品は「難解」と評されており、ブルックナーの芸術的ブレイクスルーと見なす者もいる。ルドルフ・クロイバーによれば、第3交響曲は「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」。この作品はブルックナーの交響曲の中で最も改訂が多いことで知られ、少なくとも6つの版が存在し、そのうち3つが現在でも広く演奏されている。
  1. 私はこれを「大言壮語」として削除しようとしましたが、Gruppettoさんは「引用#日本法における著作物の引用」を理由に、「大言壮語的な表現があってもそのまま表現すべきだ」と主張し、元の大言壮語のあるバージョンに戻しました。
  2. その後、私は「引用の原文の大言壮語をそのまま残したいなら、せめて大言壮語のタグを貼り付けたほうが良い」と考え、そうしました。しかし、Gruppettoさんは「引用文はWikipedia:大言壮語をしないに該当しない」として、この貼り付けを取り消しました。
  3. 私が「Wikipedia:大言壮語をしない」の全文を調べたところ、「引用文が大言壮語である場合、大言壮語のタグを貼り付けないことができる」といった言葉や方針・意匠・提示・注意などは一切見つかりませんでした。

以上はあくまで私個人の視点によるものであり、自分の考えを他人に押し付けるのは本意ではありません。そのため、Gruppettoさんの御意見もぜひ謹んで伺いたいと思います。

最後、Gruppettoさんと私以外の利用者にも、討論に参加していただけると幸いです。--赤葡萄酒会話2024年12月18日 (水) 03:55 (UTC)[返信]

Wikipedia:大言壮語をしないの冒頭をよくお読み下さい。「記事の執筆者が、自分の言葉で要約して書く際に過剰な形容動詞や形容詞、副詞を使わないようにしてください」つまり、記事の執筆者が「この曲は傑作である」と書けばWikipedia:大言壮語をしないに抵触する可能性が高いですが、「評論家の〇〇は『この曲は傑作である』と述べている」と書く分にはWikipedia:大言壮語をしないには抵触しません。また、「芸術的ブレイクスルー」はWikipedia:大言壮語をしないで示されている大言壮語の例には全く該当しません。
次に、赤葡萄酒さんが上に書いていることも正確ではありません。赤葡萄酒さんは「私はこれを「大言壮語」として削除しようとしましたが」と書いていますが、赤葡萄酒さんは削除しようとはせず、翻訳をねじ曲げて奇妙な表現に変えただけです[1]。この編集では「ブルックナーの傑作群の幕開けを告げるものであり、彼の創造力と交響曲構築の壮大な技法が出会った作品」が「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ、彼の独自の技法が融合した作品」に編集されただけであり、これは翻訳元にあるクロイバーの言葉からかけ離れているうえ、日本語としても問題があります。「彼の独自の技法が融合した作品」では、「彼の独自の技法」が何と融合したのかが書かれておらず意味不明な文章になっています。これに対し私の翻訳した版「ブルックナーの一連の傑作群の始まりであり、彼の創造性と交響的構築の記念碑的な能力が融合している」では「彼の創造性」と「交響的構築の記念碑的な能力」が「融合している」と分かります。また赤葡萄酒氏が改変した版「ブルックナーの有名な作品の中で最初に作られ」にも「有名な」という言葉が使われているため、これも記事の執筆者が書けば大言壮語になる可能性があります。が、いずれにせよクロイバーという音楽学者の言葉の引用なので何ら問題はありません。ならば翻訳として正確なほうが良いのは言うまでもありません。
もう一点、赤葡萄酒さんは大量の赤リンクを作っていますが、赤リンクをお読みいただければ分かるように、赤字で強調するために赤リンクを作るのは間違いですので以後お気をつけ下さい。--Gruppetto会話) 2024年12月18日 (水) 06:24 (UTC)一部加筆--Gruppetto会話2024年12月19日 (木) 17:53 (UTC)[返信]

Wikipedia:井戸端/subj/引用文には大言壮語があれば、大言壮語のタグを貼り付けないほうが良い?においてもBsxさんが「大言壮語のタグを貼る必要はない」と仰っています。Nux-vomica 1007さんはその根拠としてWikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するを挙げていますので赤葡萄酒氏はこれをしっかりと理解することが必要だと思われます。--Gruppetto会話2024年12月19日 (木) 18:20 (UTC)[返信]