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ノート:交響曲第2番 (マーラー)

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この曲にはトランペットなどの楽器編成が問題になります。バンダが4なのですがオーケストラ本体から2人借りてこれるからです。でも演奏の難易度なども考えると4の方が楽でもあります。テインパニは一人につき3個は音域上きついですね。普通一人4個使います。--195.93.60.99 2007年7月6日 (金) 20:17 (UTC)[返信]

標題の日本語表記について

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この交響曲の(一応の)標題「Auferstehung」ですが、日本語表記は必要でしょうか? 疑問を投げかけるのは、日本語訳(「復活」)があれば十分なのと、何回かこの部分が編集されていますが、音写の適切・不適切という項目と関係ないところで編集が繰り返されるのは不毛だと感じるからです。 もし残すなら、「アウフエアシュテーウング」が適切かと思いますが、いかがでしょうか?私の持っているクラウン独和辞典第三版もこの表記を支持しています。 --Laputa 2007年12月3日 (月) 05:04 (UTC)[返信]

同意します。ドイツ語を日本語でどう発音するかは本項目とはあまり関係のないことで、それをめぐって編集が繰り返されるくらいなら除去したほうがよいと思います。--みっち 2007年12月3日 (月) 09:11 (UTC)[返信]
レスありがとうございました。それでは反対意見も無いようなので、当該箇所を削除しました。--Laputa 2007年12月12日 (水) 15:27 (UTC)[返信]

「誰」「要出典」項目の添付について

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「誰」「要出典」項目の添付(これこれ)についてご説明申し上げます。

「マーラーの改宗は方便であった」「マーラーは特にキリスト教の復活は意図していない」といった文章は(特に日本でくどいほどに)様々なところで拝見するところであり(個人的にはこうした日本に特異な現象、何もそこまで脱キリスト教色をムリに強調しようと必死にならなくてもと思うのですが)、こうした見解が記述される事自体は問題ないでしょう。しかし、少なくともこれはあくまで推測なのであり(マーラー自身の日記などで「本気で改宗などしていない」といった直筆でも出れば話は別ですが)、アルマ・マーラーはグスタフ・マーラーにつき、熱心なキリスト教徒であった描写を自著で残しています。アルマによる手記の真実性についてこんにちでは疑問符がつけられる事が多いようですが、それにしても、妻による異説が書き残されている以上、これを丸きり無視する事は出来ません。あくまで「誰々は「マーラーの改宗は方便であった」「マーラーは特にキリスト教の復活は意図していない」としている」といった記述にとどめるべきであると考えます。そのため、「誰」テンプレを付与しました。また、第一楽章との関連という推測については、出典を求めます。よろしくお願いします。--Kinno Angel 2010年2月24日 (水) 01:20 (UTC)[返信]

一連のマーラーの交響曲記事に手を入れたのはかなり前のことで、正確なところは思い出せないのですが、曲の解釈的な記述については、根岸一美・渡辺裕監修 全作品解説事典『ブルックナー/マーラー事典』に主として拠ったのではなかったかと思います。しかし、当該書籍を参考図書に挙げているのは第4番以降であることからすると、第2番の時点では読んでいなかったかもしれません。図書館に返してしまったため、要領を得なくて申し訳ありません。ご指摘の部分は、下記により一部不正確な点がありました。論旨としては概ね妥当だろうと考えていますが、こだわっていることでもないため除去しました。現状が最善と思っているわけではなく、より信頼性の高い出典に基づいて加筆・修正されるなら、ぜひお願いしたいところです。
なお、第2交響曲の構想がキリスト教の「復活」とは無関係だったことは、作曲過程からも明らかだと考えます。この曲は当初交響曲として構想されますが、第1楽章は一時的に独立して「葬礼」というタイトルの交響詩としても考えられています。この「葬礼」がミツキエヴィチの劇詩に影響を受けた説については別節で述べており、これは金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲」が詳しいので参考になると思います。第2交響曲が最終楽章を残して書かれていた時点でマーラーはビューローの葬儀に列席し、クロプシュトックの「復活」にインスピレーションを受けたのですから、この「復活」が当初の構想になかったことは自明です。しかも、マーラーはクロプシュトックの詩の一部を利用しただけであり、その3倍の量の自作歌詞を書き加えています(柴田南雄「グスタフ・マーラー」。この歌詞の扱いは第8番の第1部とも共通します)。かつ、この曲に一度も「復活」のタイトルを与えていません。というようなことは、記事でも述べていることであり、あらためて屋上屋を架すこともないと判断しました。
また、マーラーのキリスト教への改宗は1897年2月、アルマと知り合ったのは1901年11月であり、時系列的に、改宗は結婚のためではなく、ウィーン歌劇場の指揮者に就任するための方便というべきでした。マーラーが就任運動のためにいろんな手を打っていることは「マーラー書簡集」(ヘルタ・ブラウコップフ編、須永恒雄訳、法政大学出版局)でも認められます。この点、マーラーが熱心なキリスト信者だったかどうかは、この曲の成り立ちと直接関係はないと思います。アルマの著書の信憑性についてはご案内のとおりですし、いわれるようなアルマの記述が仮に事実としても、少なくとも改宗前に完成された第3番以前の曲にまでさかのぼって言い及ぶのは無理ではないでしょうか。とはいえ、Kinno Angelさんがアルマの記述をもとにどういうマーラー像、第2交響曲像を持たれるかはまったくご自由であり、もちろん私の同意などは必要ないことです。--みっち 2010年2月26日 (金) 10:22 (UTC)[返信]
編集・ノートでのご見解、ただ今拝見、確認しました。現時点で編集内容に異存御座いません。みっちさん、ありがとうございました。--Kinno Angel 2010年2月26日 (金) 11:08 (UTC)[返信]