ノート:井上成美
用語の略について
[編集]Pooh456さんが第四艦隊を4F、連合艦隊をGFと略した編集[1]は私も気になっていました。これはWikipedia:過剰な内容の整理ではない? 柔軟にやるってことですね。そちらと同じく再リバートも推奨されないことなのでご注意を。 他の記事と比較しても、日本戦争史を解説するお堅い記事にはそぐわない奇特な書き方で、データ量を減らすのみでデメリットが生じていると考えます。
略語を使うかどうかは(語の立ち位置・語の長さ・一般的な使われ具合・記事内容・語感もろもろを考えて)おおよそ感覚的に判断することになるかと思います。個人的には、横浜鎮守府→横鎮はラフなので略さないか『伝記』のように鎮守府とする、横浜海軍航空隊→横浜空は違和感はないが、数も少なく略さなくてもまたよし、このあたりがなんとも微妙なラインですね。--NNMM(会話) 2012年3月29日 (木) 12:29 (UTC)
- 聯合艦隊をGF、第一艦隊を1F、第四艦隊を4Fなどと略するのは、帝国海軍で実際に行われていたことです。戦後の文献でもしばしば行われています。例:雨倉孝之 『海軍アドミラル軍制物語』 光人社。
- 頻出する「聯合艦隊」や「第四艦隊」を「GF」や「4F」に略せば、情報量を減らさずにデータ量がそれだけで大きく減るのは明らかです。
- 「データ量を減らすのみでデメリットが生じていると考えます」
- 何のデメリットが生じているのか具体的に述べて頂かないと、NNMMさんがこの新節を設けた意味が見えません。--Pooh456(会話) 2012年3月30日 (金) 00:03 (UTC)
- GF,4Fなんて元の言葉がほとんど残っていないのですから、符丁とみなしてよいでしょう。50年以上前にある組織でのみ使われていた符丁が平易な言葉だとは思えません。データ量については単純な文字数の問題ではなく、重要な本筋を残し枝葉となる記述の整理を検討してみようという話ではないでしょうか。--Bellis(会話) 2012年3月30日 (金) 23:13 (UTC)
- たとえば、聯合艦隊を「GF」、第一航空艦隊を「1AF」と略するのは、「50年以上前にある組織でのみ使われていた符丁」ではありません。現在も、帝国海軍について言及する際に普通に使われています。帝国海軍関係の文献で、当時の史料の引用以外の「地の文」で使われているのは、例示した「雨倉孝之 『海軍アドミラル軍制物語』 光人社」以外にも例が多数あります。ネット検索でも、「明らかに現代の人が書いた文章」で、「GF」や「1AF」が使われている例が多数見出せます。
- なお、本記事では、初出時に「第四艦隊(4F)司令長官」「連合艦隊(GF)司令長官」などとして、読む人が混乱しないように配慮しております。新聞のスポーツ欄で例えば「マリナーズ」や「アスレチックス」について報道する際に、最初は「マリナーズ」や「アスレチックス」と書いて、2回目からは「マ軍」「ア軍」と略するのが普通に行われていますね。それと同じことです。--Pooh456(会話) 2012年3月31日 (土) 00:41 (UTC)
- どうでもいいところに反応されても困りますね。「平易な言葉を使うべき」。「内容の削減は文字数の問題ではなく、内容の幹と枝葉を区別し、枝葉を整理すべし」。--Bellis(会話) 2012年3月31日 (土) 02:01 (UTC)
「どうでもいいところ」って、この節は「Pooh456さんが第四艦隊を4F、連合艦隊をGFと略した編集[2]」に関して立てられた節ですが。私が言ったことが「どうでもいい」のであれば、この節自体が「どうでもいい」ことになります。失礼ですが、Bellisのおっしゃることは理解不能です。--Pooh456(会話) 2012年3月31日 (土) 02:16 (UTC)
- 言葉を略すとはどういうことかがテーマで、4F、GFなどは、テーマに付随する材料のひとつでしかないかと。日本語的には(私の意見の中で)どうでもいいところ、主ではない、の意味で書きました。--Bellis(会話) 2012年3月31日 (土) 02:26 (UTC)
- この節の題名は「用語の略について」です。「4F、GFなど」について議論する必要がないとすれば、Bellisさんのお考えでは「用語の略について」何を議論するのですか?--Pooh456(会話) 2012年3月31日 (土) 02:37 (UTC)
- 私の意見はすでに表明しています。何をとさらに問うのはナンセンスです。--Bellis(会話) 2012年3月31日 (土) 02:58 (UTC)
- うーん、微妙ですね。私がデメリットだと考える理由も上で述べていますが、感覚的な部分が大きいところでしょう。マリナーズの例だと、新聞などでマ軍と略されていても、Wikipediaの記事では容量削減のためにマ軍と略すことはしないでしょう。GF・4Fも他記事で自然と使われるぐらいであればいいのですが……。--NNMM(会話) 2012年4月2日 (月) 10:03 (UTC)
- 私の意見はすでに表明しています。何をとさらに問うのはナンセンスです。--Bellis(会話) 2012年3月31日 (土) 02:58 (UTC)
- この節の題名は「用語の略について」です。「4F、GFなど」について議論する必要がないとすれば、Bellisさんのお考えでは「用語の略について」何を議論するのですか?--Pooh456(会話) 2012年3月31日 (土) 02:37 (UTC)
引用の問題
[編集]- かぎ括弧の組みあわせで数が合っていません。検索結果は、「」(576/575)、『』(433/432)となっています。どこかに記述ミスがあります。
- 引用文中に括弧書きで補足書きのような記述がたびたび見受けられます。出典元にある記述なのか、引用したものが補足する意図で書き加えたものかが不明ですから、括弧書きが含まれる引用文は見直しが必要です。
とりあえず。問題の指摘まで。--Bellis(会話) 2012年4月8日 (日) 07:08 (UTC)
- 私が編集した部分については、出典文献の記述に括弧書きがあり、そのまま引用している場合は、その旨を明記しています。
- 例:「本稿記述の当時(昭和9年)は5.15事件後にして海軍部内思想動揺時代(之は少々過言かも知れず、然し本職は左様考えて対処せり)なりしことを念頭に置きて之を読むの要あり」※カッコ内も含め、現代風の表記に直した以外は、井上の書いた通り。
- それ以外の引用文の中の括弧書きは、引用時に補足の意図で付加したものです。--Pooh456(会話) 2012年4月8日 (日) 11:13 (UTC)
- コメント丸括弧も数が合っていません。7個食い違っていました。--Bellis(会話) 2012年4月9日 (月) 16:08 (UTC)
略歴の内容について
[編集]ちっとも略しているようには見えない略歴について。年号の正確性について疑いがあります。例えば第一次世界大戦においてドイツへの宣戦布告時期が1913年と読める記述がありますが、これは1914年が正解なので明確に誤りです。比叡 (戦艦)の竣工も1914年の出来事のようですが、記事上は1913年となっています。年号の数字を変えるのは簡単ですが、井上自身の経歴にも関わることなので、検証の上で対処すべきだろうと思います。年譜節と比較すると他にも食い違いが発生している箇所が見受けられました。--Bellis(会話) 2012年4月9日 (月) 16:42 (UTC)
- ご指摘を受けて、『伝記』 巻末の年表(年月日入り)で「略歴」節全体の年号記載を確認しました。結論としては、間違っていたのは「比叡」の竣工年(1913→1914)1箇所でしたので修正しました。ご指摘のように「第一次大戦の開戦は1914年」は常識ですので、1913年に開戦したように記事を書いてしまったのはお恥ずかしい限りです。「年譜」節の方は、追って確認しておきます。--Pooh456(会話) 2012年4月10日 (火) 03:01 (UTC)
- 「年譜」節を調べた所、「第17駆逐隊付」となった年号が誤っていたので修正しました。--Pooh456(会話) 2012年4月10日 (火) 04:03 (UTC)
Bellis氏の編集について
[編集]2012年5月5日 (土) 14:42(UTC)から、Bellis氏が本記事について「摘要欄に簡単な説明をしただけで、記述を大幅に削除する」編集を開始しました。
1) 「意味のある記述を除去してしまうこと」、「記事の改善を試みて下さい、但し慎重さも忘れずに」などで示されているように、「記述の削除」については、「事前のノートでの合意形成」が強く推奨されております。Bellis氏の編集は、上記のWikipediaのルールに沿わないようです。
2) Bellis氏の編集(削除)の結果、出典記載が消されてしまう事例が複数発生しました。
- 2012年5月5日 (土) 14:42(UTC)の編集。酔っ払った井上が板垣盛大佐に絡んだ件につき、出典表示が消失。
- 2012年5月6日 (日) 03:48(UTC)の編集。英語塾の閉鎖の件につき、出典表示が消失。
- 上記の2回については、利用者‐会話:Bellis#「井上成美」の編集についてで注意を喚起しました。(差分)
3) しかし、その後のBellis氏の編集(差分)で、出典記載が消されてしまう事例がまた発生しました。
- 「と絡んだ。<ref>市来崎秀丸大尉(兵58期)の目撃による。『阿川』 213頁。</ref>」という部分です。『阿川』 には、市来崎秀丸大尉の海兵卒業期は記載されておりません。これを補うために、他の文献を出典表示していたのですが、『阿川』を確認もせずにBellis氏が記述を削除した結果、記事が「破壊」されてしまいました。
4) Bellis氏が、2012年5月5日 (土) 14:42(UTC)から上記のような編集を始める前の、「Pooh456 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月29日 (日) 03:58(UTC)の版」に記事を差し戻しましたので、Bellis氏におかれては、記述の削除が必要とお考えなら、「ノートで合意を形成してから」にして下さい。
5) 「Pooh456 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月29日 (日) 03:58(UTC)の版」に記事を差し戻したのは、「Bellis氏の小刻みの編集、それに対するPooh456の対応をいったんご破算にしないと、収拾がつかない」からです。--Pooh456(会話) 2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)
- 井上の理解については、市来崎秀丸の存在に意味がないです。「酔っ払った井上が板垣盛大佐に絡んだ」ことを残すこと自体がそもそも疑問ですが、そこに居合わせたのが誰かをわざわざパーソナルデータを補ってまで紹介する必要性を全く感じません。出典として伝記のページ数を添えたことで、出典条件は満たしています。出典にある何某がどこのだれかが重要になる場面でも特に意味があるわけでもないのですから。
- それから、Pooh456さんについては、本件に限らず、自分の理解できない事象に立ち会った瞬間に自分の望む編集状態に差し戻した上でノートページで話し合いを提案します。話合いの結果を待たずに差し戻す切迫した事態がないのであれば、差し戻しを行わないでノートページでの話し合いをするくらいの余裕は持っていただきたいものです。--Bellis(会話) 2012年5月6日 (日) 13:34 (UTC)
当方が、「Pooh456 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月29日 (日) 03:58(UTC)の版」に記事を差し戻したことについては、2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)の発言の(5)で説明しております。それについての反論は承ります。
しかし、そのような反論を一切せず、「差分」で再度の差し戻しを行い、さらに「話合いの結果を待たずに差し戻す切迫した事態がないのであれば、差し戻しを行わないでノートページでの話し合いをするくらいの余裕は持っていただきたいものです」と相手に求めているBellis氏の態度は理解できません。ご説明をお願いします。--Pooh456(会話) 2012年5月7日 (月) 02:14 (UTC)
- なにが理解できないのか理解できません。私はPooh456さんの対話姿勢が手前勝手にすぎると指摘したのです。「ご破算にしないと収集がつかない」のはどうしてなのでしょうか。私が純粋に加筆した出典情報まで除去する理由も不明ですし。
- Pooh456さんが言われるところの小刻みな編集をした理由を説明しますと、節単位に編集することで、節単位の差し戻しなど修正が容易にできるように小分けで編集しているのです。要約欄でも該当箇所が確認できますし、差し戻しも楽にできます。--Bellis(会話) 2012年5月9日 (水) 15:47 (UTC)
「なにが理解できないのか理解できません。私はPooh456さんの対話姿勢が手前勝手にすぎると指摘したのです。」などという発言は、議論拒否、個人攻撃と取られかねませんのでお控え下さい。
ご質問の”「ご破算にしないと収集がつかない」のはどうしてなのでしょうか”への答ですが「ノートでの議論を経ないで、Bellisさんが多くの記述を除去。改変しており、それについてPooh456も編集を行っており、編集が錯綜しているので、いったん、Bellisさんが、2012年5月5日 (土) 14:42(UTC)から編集を開始する前の、「全ての記述に適切に出典表示がなされている状態」に復帰させ、そこからノートでの議論を行いましょう、ということです。
本来は、 2012年5月5日 (土) 15:14のPooh456による編集(差分)を行う前の時点で、本ノートで議論を提起した方が良かったとは思いますが、現時点からでも遅くはありません。
なお、当方が問題にしているのは、「ノートでの合意を得ないで、出典のある記述を削除する」Bellisさんのやり方が、2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)の私の発言の(1)で示したように、Wikipediaのルールに沿っていないことです。「小刻みな編集」については、2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)の私の発言でも、2012年5月7日 (月) 02:14 (UTC)でも言及しておりません。--Pooh456(会話) 2012年5月10日 (木) 00:53 (UTC)
- Pooh456 さんが差し戻しを行った「2012年4月29日 (日) 03:58 UTCの版」の直後の編集では私は加筆のみを行っています。これを含めて除去したと主張し差し戻しを行ったといわれるのでしょうか。加筆を含めて「ご破算にしないと収集がつかない」と言われても同意はしかねます。
- Pooh456さんが錯綜していると思ってしまうのは、Pooh456さんが私の節単位での編集に対し、自ら記事全体の編集を行い上書きをしてしまったからです。節単位の編集には節単位の編集で対処すれば、錯綜の問題は起きなかったはずです。Pooh456さんが主張されるところの出展の除去問題はともかく、錯綜してしまったのはPooh456さんご自身の問題でしかないのです。別々の問題(出典、錯綜)ですから、分けて考えていただかないといつまでも本題に入れません。--Bellis(会話) 2012年5月10日 (木) 17:21 (UTC)
- 『Pooh456 さんが差し戻しを行った「2012年4月29日 (日) 03:58 UTCの版」の直後の編集では私は加筆のみを行っています。これを含めて除去したと主張し差し戻しを行ったといわれるのでしょうか。加筆を含めて「ご破算にしないと収集がつかない」と言われても同意はしかねます。』
- では、「2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版への差し戻し」なら同意して頂ける、ということでしょうか?当方としては、それで結構です。その段階で、この節の議論は終了させ、「井上成美#文章の簡略化」節に議論を移すのが建設的と思います。--Pooh456(会話) 2012年5月11日 (金) 03:37 (UTC)
- 事実関係の確認がまだ終わっていません。
- 話の主題は「出典および出典付の記述の除去について」ということでよいですか。
- 「出典の復帰を目的とした差し戻し[3]」の際に、別の出典付の情報[4]を巻き添えで消そうとしたことは認めますか。私は単純に作業ミスだと思っていますが、違う理由があれば理由説明もお願いします。
- 「小刻み」な編集は問題にしないことは相違ないですか。2012年5月10日 (木) 00:53 (UTC)では否定していますが、2012年5月6日 (日) 11:17 UTC[5]では ”「Bellis氏の小刻みの編集、それに対するPooh456の対応をいったんご破算にしないと、収拾がつかない」から”と話題にしています。”「小刻み」な編集は問題にしない”のであれば、前述の発言は前提条件がなくなりますから、取り消すと言う理解でよいですか。
- とりあえず、3点確認させてください。--Bellis(会話) 2012年5月12日 (土) 01:22 (UTC)
- 事実関係の確認がまだ終わっていません。
- (1) 本節の主題は「Wikipediaのルールにより、記述の削除については、ノートでの合意形成が強く推奨されている」ということです。2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)の私の発言の(1)で述べている通りです。同発言の(2)(3)で述べている「出典記載が消されてしまう事例の複数発生」は副次的なことです。
- (2) 「作業ミス」と解釈して頂いて結構です。現に、2012年5月11日 (金) 03:37 (UTC)の私の発言で、「では、「2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版への差し戻し」なら同意して頂ける、ということでしょうか?」と譲歩提案しております。その版では、Bellisさんの重要視しておられる「別の出典付の情報[6]」が残ります。
- (3) 2012年5月10日 (木) 00:53 (UTC)の私の発言で述べているように、「小刻みな編集」については特に問題にしておりません。--Pooh456(会話) 2012年5月12日 (土) 02:34 (UTC)
- では、1.についてのみ見解の相違があるということですね。2.についてはただの編集ミスということですから差し戻し範囲を「譲歩」すると発言されるのは不可解です。Pooh456さんご自身の中で”自分の出典は残すのが当たり前で他者の出典は残すにはPooh456ご自身の中で「譲歩」が必要”と解釈できますね。3.については問題ではないということで了解しました。
- 新たに3つ確認をさせてください。
- 私は記事の理解に必要のない有用でない情報として除去しました。「有用でない情報を消す場合」に一々ノートで議題にすることが強く推奨されるということはルールにありますか。
- 記事の構成やある情報などについて見解の相違がある場合、必ず「事前に」ノートページで議題にすることは不可能だと思います。「問題が起きてから」話し合いが始まることも当然あるでしょう。「問題が起きてから」一方の主張に従って差し戻しをする必要があるのでしょうか。編集の中断を呼びかけ話し合いをはじめるだけではいけない理由や差し戻しが必要だとする決まりがあるのでしょうか。あるのであれば説明をお願いします。
- Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないはPooh456さんの現在の立場に当てはまる記事です。読んでみたことはありますか。具体例の”もしあなたが「この記事にとって重要だ」と考えて追加したある人物に関する情報が、「取るに足らない」といわれて除去されたら”を読んでみたことはありますか。
- --Bellis(会話) 2012年5月12日 (土) 05:45 (UTC)
- (1)について。既に、2012年5月6日 (日) 11:17 (UTC)の私の発言の(1)で示していることの繰り返しになりますが、
- 「Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと」に「意味のある記述を除去してしまうこと」が示されております。この「Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと」が、Wikipediaのルールの中の基本であることはご承知かと思います。
- 「Wikipedia:編集方針#記事の改善を試みて下さい、但し慎重さも忘れずに」に「もしページの内容を大きく改稿、または変更する必要があると考えたのならば、ぜひそうしてください。ただし事前にノートで提案することをお勧めします。十分な説明をしないまま、価値のある記述を除去してはいけません。」と示されております。
- 「Wikipedia:ページの編集は大胆に#ただし、配慮を忘れない」に「もちろん、真実であることが実証されていたり出典が明示されている記述を除去するときには、より慎重になってください。」「論争の種となる項目を編集する前に、ノートに、編集したいところを抜き出して、どのように変更するかを提示してください。もちろん、その編集の出典を明記するべきです。ノートに提示したあと、1週間程度待っても反応がなければ、その編集を実行してください。しかし、質問や反論が出た場合には、一定の合意が得られた後に本文を編集してください。」と示されております。
- (2)について。Bellisさんが、(1)で示したWikipediaのルールに反した編集を行っており、かつ、Bellisさんの編集によって失われた情報が膨大であり、「Help:以前の版にページを戻す方法」に示される「例えば記事が乱暴に破壊されたり、不適切に改変されてしまった場合」に該当する状態になってしまっておりましたので、Bellisさんが編集を開始する前の状態に差し戻し(差分)を行いました。現状は、それに対してBellisさんが再度差し戻し(差分)を行った状態で止まっておりますが。
- (3)について。Bellisさんが、この節での議論をなおも続けようとなさるのであれば、「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しない」に抵触するかと思います。--Pooh456(会話) 2012年5月12日 (土) 06:47 (UTC)
- 再度確認です。3.については読んだ上で自分は該当しないという判断でしょうか。返事が曖昧でわかりませんでした。他にも”もし、他の人がした変更が必要な過程を経ておらず、問題だと感じたら”などもありますね。
- 私はまさに”ある人物に関する情報が、「取るに足らない」として除去”しただけなのです。作業量的に大幅な改編をしたとは思ってもいません。Pooh456さんが「意味のある記述」と主張されるのは自由ですが、それを私に押し付けないでください。記事に残すべき内容なのかは、これから話し合う内容なのですから、ご自身の主張を根拠としたルール解釈が正しいと決め付けないでください。
- 見解の違いだと説明を繰り返しているにも関わらず、相手をルール違反だと非難しつづけ、それを根拠にした主張を繰り返す間はまともな調整ができるはずもないです。
- 私が譲歩しPooh456さんの希望されるある時点の編集まで差し戻すことは吝かではないのです。しかし、Pooh456さんが当然のように主張する差し戻しは、決まりで強制されるものではありません。それをこれからも当然のように各所で決まりだと主張されてしまうことを懸念します。それは自分中心の解釈であり相手のことを考えない間違ったルールの解釈です。話し合いが先で、差し戻しは話し合いの結果出てくるものです。それを理解してください。--Bellis(会話) 2012年5月12日 (土) 07:55 (UTC)
- 一番重要な(1)については納得して頂けたようで、安心しました。
- Bellisさんが「私が譲歩しPooh456さんの希望されるある時点の編集まで差し戻すことは吝かではないのです」と仰って下さっておりますので、2012年5月11日 (金) 03:37 (UTC)の私の発言で申し上げたように、「2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版への差し戻し」を行わせて頂き、この節の議論は終了させるということでよろしいでしょうか?
- 「井上成美#文章の簡略化」節で2012年5月10日 (木) 10:13(UTC)に Erepon さんが提案なさった方法(差分)で、記事「井上成美」全体について「読みやすくする」編集を行いたいと思います。よろしくお願いします。--Pooh456(会話) 2012年5月12日 (土) 08:13 (UTC)
- もう一度言いますね。
- 再度確認です。3.については読んだ上で自分は該当しないという判断でしょうか。
- 見解の違いだと説明を繰り返しているにも関わらず、相手をルール違反だと非難しつづけ、それを根拠にした主張を繰り返す間はまともな調整ができるはずもないです。
- Poohさんの言われる(1)は「Wikipediaのルールにより、記述の削除については、ノートでの合意形成が強く推奨されている」のことだと思いますが、納得はしていないと何度も申し上げています。「記事が乱暴に破壊されたり、不適切に改変されてしまった」との主張はPooh456さんの見解でしかありません。別の節でこれから話し合い、これから結論を出そうとすることを根拠に「記事が乱暴に破壊されたり、不適切に改変されてしまった」が正しい意見だと繰り返すのはやはりPooh456さんの都合でしかありません。そのことを理解したというまでは、Pooh456さんは何も理解していないのだなと判断します。
- そういった考えの下で私は「譲歩する」と伝えました。繰り返しますが「Pooh456さんの主張は納得はしていないが譲歩する。Pooh456さんは自分の解釈を押し付けすぎていることを自覚すべき」です。--Bellis(会話) 2012年5月12日 (土) 15:44 (UTC)
仰ることは承りました。結論として、「2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版への差し戻し」を行わせて頂き、この節の議論は終了させるということでよろしいでしょうか?--Pooh456(会話) 2012年5月13日 (日) 01:04 (UTC)
- 「承りました」とは曖昧な返事ですね。意味がわからないです。”何を「承りました」”でしょうか。「Pooh456さんは自分の都合や解釈を相手に押し付けすぎていることを自覚した」ということでしょうか。それとも「『まともな調整ができるはずもない』から話を打ち切る」のでしょうか。私はどちらでも構いませんが私のその後の対応が変わるので説明を求めます。Pooh456さんの表明でこの節は終わりになるでしょう。
- 差し戻しは2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版で結構です。--Bellis(会話) 2012年5月13日 (日) 03:52 (UTC)
- 「承りました」とは「Bellisさんのお考えは承知しました」ということです。Bellisさんの表現ですと、「『まともな調整ができるはずもない』から話を打ち切る」に近いでしょうか。
- 「差し戻しは2012年4月29日 (日) 04:39(UTC)の版で結構です。」
- ご了解を頂き有難うございました。それでは、本節の議論は終了とさせて頂きます。--Pooh456(会話) 2012年5月13日 (日) 04:27 (UTC)
- 「承りました」とは「Bellisさんのお考えは承知しました」ということです。Bellisさんの表現ですと、「『まともな調整ができるはずもない』から話を打ち切る」に近いでしょうか。
文章の簡略化
[編集]率直に言って、非常に「読みづらい」です。 「情報」が詳細であることは良いことなのでしょうが、「井上成美」を語る上で無関係の情報を削除し、簡潔な文章を心がけるだけで、かなり簡略化できると思うのですが。 とりあえず「略歴」を例にします。
(現在の文章) 少尉任官後、1911年(明治44年)1月に国産の新造艦である巡洋戦艦「鞍馬」乗組。「鞍馬」は、同年4月から11月まで、イギリス国王ジョージ5世戴冠記念観艦式に参加する遣英艦隊(「鞍馬」と巡洋艦「利根」の2隻)の旗艦となり、井上は海外経験を積んだ。[11]1912年(明治45年)4月から、初級兵科将校必修の海軍砲術学校普通科学生(砲術学校では、のちに盟友となる米内光政大尉(兵29期、のち大将・首相)と高野五十六(山本家を継ぎ山本五十六となる)大尉(兵32期、のち元帥)が共に教官をしており、井上は高野大尉から兵器学を教わった)、次いで海軍水雷学校普通科学生となり、在校中の1912年(大正元年)12月1日に中尉に進級。[12]
1913年(大正2年)2月、水雷学校普通科学生を終えると同時に、二等海防艦「高千穂」乗組。同年9月、巡洋戦艦「比叡」(後に井上が艦長を務める)乗組。「比叡」は、1912年(大正元年)11月21日に進水、井上が乗組んだ1913年(大正2年)9月にはまだ艤装中で、翌1914年(大正3年)8月4日に竣工し、同月10日に第一艦隊に編入された。その直後の8月23日、第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告した。「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1ヶ月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。[13]
(編集例) 少尉任官後、1911年(明治44年)1月に巡洋戦艦「鞍馬」乗組。 「鞍馬」は同年4月から11月まで、イギリス国王ジョージ5世戴冠記念観艦式に参加する遣英艦隊の旗艦となり、海外経験を積んだ。[11] 1912年(明治45年)4月から、初級兵科将校必修の海軍砲術学校普通科学生。砲術学校では、のちに盟友となる米内光政と山本五十六(当時は高野五十六)が共に教官をしており、井上は山本に兵器学を教わる。次いで海軍水雷学校普通科学生となり、在校中の1912年(大正元年)12月1日に中尉に進級。[12] 1913年(大正2年)2月、卒業と同時に、二等海防艦「高千穂」乗組。 同年9月、巡洋戦艦「比叡」(後に井上が艦長を務める)乗組。「比叡」は井上が乗組んだ9月にはまだ艤装中で、翌1914年(大正3年)8月4日に竣工し、同月10日に第一艦隊に編入された。その直後の8月23日、第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告。「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1ヶ月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。[13]
これは一案ですが、年譜と重複している部分を削ったりなど、全体の情報量を減らさずに文章量を減らすことは出来るはずです。 軍人・軍艦も他項に記載があることは、ここで説明する必要はないと思います。 (兵学校〇期、山本の養子入り等)--以上の署名のないコメントは、Erepon(会話・投稿記録)さんが 2012年5月9日 (水) 10:17 (UTC) に投稿したものです(Pooh456(会話)による付記)。
- 1) 山本五十六の養子入りの件は書かないで良いだろう、というのはご指摘の通りですね。
- 2) 登場する海軍士官につき、全員に「兵○期」と入れているのは、帝国海軍兵科将校の人事や人間関係と、兵学校卒業期が密接に関連していたことを反映しています。例えば「井上が酔っ払って板垣盛大佐に絡んだ」という、井上のキャラに似つかわしくないエピソードですが、井上が兵37期、板垣が兵39期で、井上が兵学校の1号生徒の時に板垣が3号生徒であり、井上が板垣とごく親しい仲だったから、傍目(青年士官である、市来崎秀丸大尉(兵58期))には、「悪ふざけ」が出た、とも「想像」できます(出典がないので記事には書きませんが)。なお、兵学校の1号生徒と新入生(井上の時代は3号)の間が「格別の関係」であったことは、志賀淑雄少佐について書かれた本、豊田穣の著書などに書かれています。
- 3) また、Wikipediaで立項されている海軍士官であっても、記事の中に兵学校卒業期が書かれていない例、出典表示が欠けている例が多数あります。幸い、 『伝記』 では、登場する全海軍士官について兵学校卒業期と最終階級が明記してあるので、それを、原則として「節の初出」の所で書いております。最終階級については「その海軍士官が、どのくらい重要な人物だったのか」を判断する情報として有用ですので記載しています。戦後の自衛隊での最終階級(例:海上幕僚長)を書いているのも同様です。『阿川』 にはそういった記載は原則として無いので、別途出典を探して記載しています。
- 4) 例えば、井上の支那方面艦隊参謀長時代に井上の下で参謀であった中山定義少佐について(兵54期恩賜、のち中佐、戦後に海上幕僚長)と書くのは「井上に負けない大秀才で、現に戦後に海自トップに上り詰めた中山が、 『海軍部内で頭脳明晰を謳われる井上が語学で自分同様に苦労したと知って、励みになった』 と言っている、ということは、井上の理解に役立つでしょう。
- 5) 記述時点での階級は、これを省くと、その人がどういう立場なのか理解できなくなりますので、必要と考えます。
- 6)「鞍馬」についての「国産の新造艦である 」という記載ですが、井上が、その後、やはり国産の新造主力艦である「比叡」乗組となったことと共通しますので、記載しました。帝国海軍が消滅するまで、新鋭主力艦に配属される初級士官は海兵恩賜組クラスの優秀者ばかりだったのは、様々な文献でご承知と思います。
- 7) 遣英艦隊の編制までは書かなくても良いのでは、というご指摘はもっともですね。
Ereponさんが示された部分を見直すとすれば、こんな感じでしょうか。
(編集例 その2) 少尉任官後、1911年(明治44年)1月に巡洋戦艦「鞍馬」乗組。「鞍馬」は国産の新造主力艦であった。 「鞍馬」は同年4月から11月まで、英国王ジョージ5世戴冠記念観艦式に参加する遣英艦隊の旗艦となり、井上は海外経験を積んだ。[11] 1912年(明治45年)4月から、初級兵科将校必修の海軍砲術学校普通科学生。砲術学校では、のちに盟友となる米内光政大尉(兵29期、のち大将・首相)と山本五十六大尉(兵32期、のち元帥。当時は高野姓)が共に教官を しており、井上は山本に兵器学を教わった。 次いで海軍水雷学校普通科学生となり、在校中の1912年(大正元年)12月1日に中尉に進級。[12] 1913年(大正2年)2月、水雷学校普通科卒業と同時に、二等海防艦「高千穂」乗組。 同年9月、巡洋戦艦「比叡」乗組。「比叡」も国産の新造主力艦であり、井上は後年に艦長を務めた。比叡は、井上が乗組んだ時はまだ艤装中で、翌1914年(大正3年)8月4日に竣工し、同月10日に第一艦隊に編入された。 その直後の8月23日、第一次世界大戦に伴い、日本はドイツに宣戦布告。「比叡」は、青島の独軍基地を攻略する陸軍部隊の間接掩護を命じられ、約1ヶ月間、東シナ海方面で警戒任務に当たったが、戦闘は生じなかった。[13]
--Pooh456(会話) 2012年5月9日 (水) 11:27 (UTC)
ご趣旨は了解しました。 私の編集案は「読みやすくすること」であって、「情報量を減らすこと」ではありませんので、Pooh456さんの指摘された点に同意します。 とりあえず、上記の編集例に変更されてはいかがでしょうか。 ただ1913年~の部分で「水雷学校普通科卒業と同時に」は前段で「水雷学校普通科学生となり」と書かれていますので、単純に「卒業と同時に」でよいかと思います。 同じ言葉が何度も、それも至近の文章で繰り返されると、かなり読みづらい印象になりますので、意味が通じる部分は極力省略の方向が良いと思います。 全体の文章をこの方向で確認していくだけで、相当簡略化すると思いますし、「括弧数」の問題なども解決できるのではないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、Erepon(会話・投稿記録)さんが 2012年5月10日 (木) 10:13 (UTC) に投稿したものです(Pooh456(会話)による付記)。
- Ereponさん、ご理解を頂き有難うございます。
- 『ただ1913年~の部分で「水雷学校普通科卒業と同時に」は前段で「水雷学校普通科学生となり」と書かれていますので、単純に「卒業と同時に」でよいかと思います。』 は了解しました。
- 上記の編集例に本文を修正したい所ですが、現在、別な議論「ノート:井上成美#Bellis氏の編集について」が継続しておりますので、そちらが解決してからにしたいと思います。
- 『全体の文章をこの方向で確認していくだけで、相当簡略化すると思いますし、「括弧数」の問題なども解決できるのではないでしょうか。』
- そうですね。ご指摘のような方法で、それほど手数を要することなく簡略化が出来そうです。
- なお、ノートページでは、発言の末尾に「署名」をつけることになっております。「Wikipedia:署名」をご覧下さい。
- 「実際の入力には、テキストボックス上辺に用意されている「署名アイコン」(を使うのが便利です。カーソル位置を文末にした状態で同アイコンをクリックすると、そのカーソル位置にハイフン付きの「
--~~~~
」が自動入力されます。」 - という方法で、「署名」をつけることが出来ます。よろしくお願いします。--Pooh456(会話) 2012年5月10日 (木) 11:15 (UTC)
- 「井上成美#略歴」節を、本ノートでの議論に基づき「簡略化」してみました。気がついたのですが、カッコの使用は最小限にした方が読みやすくなるようです。それほどの作業ではないので、順次、「井上成美」全体について「簡略化」を行いたいと思います。--Pooh456(会話) 2012年5月13日 (日) 05:15 (UTC)
海軍次官・軍事参議官としての終戦工作
[編集]”米内と井上が「喧嘩別れ」した経緯”のくだりが不自然です。
- 諸説があるが、「良く分らない」といいながら、脈絡のないエピソードを並べている。両書記官は「具体的な方法について一致していなかった可能性」を指摘しているのだから、「具体的な方法の食い違い」を列挙したのならまだ理解はできますが、そうはなっていない。食い違いが明確にわかるエピソードは1番目のエピソードのみ。
- 麻生・岡本の両秘書官が言っていると始まった後の箇条書きには岡本の証言が見当たらない。これも不自然に感じる原因のひとつ。
- 戦後、風邪をこじらせて入院した際のエピソードと米内との関係性が見当たらない。これは残す理由を思いつかない。他人がどのように思うかは自由だが妄言の類なので、転記の必要性も感じない。
以上。--Bellis(会話) 2012年5月13日 (日) 06:14 (UTC)
意見を述べる前に、Bellisさんの編集について苦言を呈しておきます。
「2012年5月13日 (日) 05:56(UTC)のBellisさんの編集」の結果、下記のような不整合が生じております。
井上は戦後に小柳富次中将(兵42期[237])に[236]。「米内大臣は、一度何処かでアメリカ軍を一叩きしたあと、和平に持って行ってはどうかと考えておられたが、私はそれはとても望みないと思っていた」と述べている。
このような不整合が生じる編集はお止め下さい。直しておきました。
さて、『伝記』 480頁を出典にして、「近衛・木戸などの天皇側近は、国体護持や既存の国家体制維持を前提としての休戦を望んでいた。一方、上記のように、井上は一般国民の側に立っての一日も早い休戦を望んでいた。米内と井上の間にも、同様の考え方の相違があったのではないだろうか。」という文を加えました。上記でBellisさんが「脈絡のないエピソード」と評している事柄ですが、いずれも「井上が、国体護持が出来なくても、天皇制廃止が条件になっても、日本国民の命を守るために早期停戦を」と考えていたことを示すものと考えます。「伝記」も、そのような文脈で、本文で(1)から(6)でまとめた記述をしております。
出典を提示できないのですが、米内は、昭和20年になってから「ソ連に、長門と残存駆逐艦を売却して、代価として石油と飛行機を得るという取引ができないか」ということを発言していたと記憶します。また、「スターリンには西郷隆盛のような風格がある」などと言い、政府が一縷の望みを繋いでいた「ソ連による和平仲介」を支持していたと記憶します。これらは「少しでも有利な和平条件を得たい」という、後世から見ると「馬鹿げた」考えによるものと言えますが、井上はそんな甘いことを考えず、本文に引用したように「独立と言うことだけが保たれれば、他はどんな条件でもよいから戦をやめるべきである…中立国、ソ連(スエーデン、スイスでも可)を介して速やかに交渉を開始すべきだ」という考えを持っていた訳で、上記のような発言をしていた米内とはかなりの温度差があった、と考えられます。
出典を提示できないのですが、海軍大佐だった高松宮が「和平の策を検討する際に、皇室の存続について考慮する必要はない」という、井上の考えと通じると思われることをいっていたそうです。昭和天皇は、ポツダム宣言受諾を決める御前会議で「自分はどうなっても良いから国民を助けたい」と言っており、降伏後にマッカーサーに対して同じことを言ったと記録されていますので、井上の停戦についての考え方は、昭和天皇・高松宮とは一致していたようです。--Pooh456(会話) 2012年5月13日 (日) 08:11 (UTC)
- 前段の不整合は言いたいことは伝わっていませんが、編集ミスなら直してください。
- 次段の本題ですが、「~だろうか」だと「誰の」憶測かわからないと「自己研究」と見做し除去します。あるいは差し戻しとなります。
- 出典にない話は興味深い話ですが、そこからPooh456さんは何を伝えたいのでしょうか。別に井上と米内に温度差があったことを疑っているのではなく、無闇に情報を繋げて記載することは情報の合成になりかねない。それが不適当だと指摘しただけです。差分だけ見ると改変後の記事の良し悪しまで判然としないので、今は内容の是非を保留します。--Bellis(会話) 2012年5月13日 (日) 08:35 (UTC)
- 「前段の不整合」は、あなたの編集ミスです。迷惑ですので、こういう編集は止めて下さい。
- 「次段の本題」ですが、「~だろうか」という記述には出典を付しております。「独自研究」と決めつける前に、出典文献を確認願います。--Pooh456(会話) 2012年5月13日 (日) 09:03 (UTC)
- 文言の出所として出典の記載がされていることはわかっています。しかし「誰の」憶測かわからないままです。
- 独自研究でなければ不適切な引用の可能性が残ります。Wikipedia:引用のガイドラインを見てください。最悪の場合削除依頼が必要となることを念頭に入れた上で私の指摘した問題箇所を読み返してください。Pooh456さんが引用に注意を払っていないとは思いません。しかし、Pooh456さんが不適切な引用を続けて来たのであれば根の深い問題といえるでしょう。
- 以前にもPooh456さんへは引用の問題について指摘しましたが全く理解していただけませんでした(ノート:聯合艦隊司令長官 山本五十六#「評価」について)。そういった事情もあるので理解してもらえる望みは薄いと判断し、引用の問題についてはこれ以上の説明をしません。--Bellis(会話) 2012年5月13日 (日) 13:21 (UTC)