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ノート:二宮事件

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確かに陳舜臣氏の『中国の歴史3』は二宮事件の原因を孫権の「老害」に求めていますが、この点のみを強調すると事件の本質が曇るように思われます。二宮事件から離れた一般論として、個人的には「老害」なる語句自体を好みません。若年者・壮年者の場合は単に「失敗」として片付けられるような事が、老年者の場合だけ侮蔑的に表現されるのは一種の老人差別ではないかと思います。

例えば大川富士夫氏の『六朝江南の豪族社会』(雄山閣)は、孫呉~両晋の江南豪族による統治の形態について論じる過程で二宮事件についても頁を割いています。加筆される方はご参考にされてはいかがでしょうか。--219.126.202.229 2007年11月17日 (土) 08:56 (UTC)[返信]

呉録について、この記述を採用するとなると楊竺の死亡時期も罪状も250年の全奇たちの処罰とは大きく変わってしまいますので、挿入するならば陸遜の憤死に関わる異説として挿入すべきではないでしょうか? また、一度この箇所に挿入されていたものを、陸遜の憤死とは直接関係がないとして移動したならば、陸遜憤死の箇所の「そのため魯王派が孫権に讒言した。」という部分や楊竺の告発によって孫権が問責の使者を送ったと読める箇所は修正すべきかと思います。--Touno 2007年12月2日 (日) 16:44 (UTC)[返信]

呉録の記事の採用如何による楊竺の死亡時期の変化についてはご指摘のとおりです。個人的にはなくてもいいと思っていますが、基本的に他の人が書いたもので明らかに間違いというのでなければ残す主義なので残しておきました。時間のあるときに直そうかと思いますが、Tounoさん(に限らずどなたでも)で直されても結構です。ただし、呉録の記事と陸遜の憤死とはやはり直接は関係ありません。語録の記事による陸遜に対する問責は「孫権と楊竺二人だけの秘密であるはずのことをどのようにして知ったのか」であり、陸遜を責める内容ではありません。また楊竺が20条の疑惑事項を告発したこと、孫権がこのことで詰問の書状を送ったことは陸遜伝にあることで別物です。(ちなみに呉録の記事は陸凱伝(に付随している陸胤伝)の註です。)--つね 2007年12月3日 (月) 17:43 (UTC)[返信]