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ノート:久保之英

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宝暦5年の分限帳にあるのは父親ではないでしょうか。20歳過ぎで京都留守居役はいくらなんでも出世しすぎでは?--盛風力 2008年3月28日 (金) 13:21 (UTC)[返信]


  • 微妙に「これは父親のほうでは?」という気がしていました。久保七兵衛家の系図や資料があればいいのですが、知らないもので、ひとまず書いて、つっこまれるのを待ってました。正直、久保之英と久保之昭が曾祖父とひ孫の関係というのも知りませんでしたし。「さつまの姓氏」に久保七兵衛家が載っていた記憶がありますが、同書には生没年や通称が省略されており、参考になりそうにありません。原本にあたる本には生没年や通称までのっているはずですが、県立図書館にある分に載っているかは知りません。

 之英の父にあたる人の没年が分かればいいのですが、それまでは、妥当な表現に直しておきます。あと、久保之英の、七兵衛を称す前の通称が分かれば、大山巌の曾祖父の大山綱道みたく「部屋住み無禄」で載っているかもしれません。--60.38.255.134 2008年3月28日 (金) 23:16 (UTC)立山源次郎[返信]

諱の読みは「これひで」で良いのでしょうか。久保氏は紀姓を称しており(まあ仮冒でしょうが)、通字の之が紀貫之の之だとしたら読みは「ゆき~」になります。--盛風力 2008年4月2日 (水) 13:35 (UTC)[返信]


実のところ、「ゆき」なのか、「これ」なのかは、よく知りませんが、最近気になっていました。先祖が「行」の字を使っているので、「ゆき」の可能性が高いので変更しときます。あと、「嶋津家分限帳」を調べたところ、久保姓の者は「久保七兵衛」しか載っていませんでした。「さつまの姓氏」のほうも、「本藩人物誌」以上のことは何も載っていないので、「嶋津家分限帳」の七兵衛が之英か否かは分かりません。--210.237.32.170 2008年4月3日 (木) 10:07 (UTC)立山源次郎[返信]

久保之英の先祖について

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之英の曽祖父が之昭であることについては「示現流聞書喫緊録附録系図」の序文で之英が書いています。が、之昌が先祖であることの出典は何でしょうか。鹿児島県史料集(34)の解題では之英と之昌(東郷重位の高弟。明暦の大火のとき江戸の大奥詰。)の関係は分からないとしています。--盛風力 2008年4月19日 (土) 13:42 (UTC)[返信]


  • 出展は「本藩人物誌」による。久保平内左衛門之昌は七兵衛之盛の子であり、子孫は「七兵衛」と称すとあります。同書で書かれる子孫は、その人物の嫡家子孫を指しますし、通称の世襲の慣行上、久保七兵衛之英を之昌子孫として十中八九問題はないと思っております。大口から来たほうの紀姓久保家は子孫は五次右衛門と称したと「本藩人物誌」とあります。

 久保七兵衛家の系図が世に出てない以上、「本藩人物誌」の記述にそうのがいいかと思い、久保之昌を之英先祖としたまでです。正直否定する根拠の方が知りたいくらいです。「七兵衛之照と七兵衛之昭は同一人物だ」とかいて、質問されるならともかく・・・。  もっとも、「本藩人物誌」を見る限り、この家は「七兵衛」の他に、「平内左衛門」も使っていたようですが。  近思録崩れの時の流刑者に久保平内左衛門がいた記憶はありますが、とりあえず、本文では無視しました。同じく近思録崩れの時の流刑者、本田親孚作の「称名墓録」の方では久保之昌の子を久保七兵衛行(本当は之と思われるが)照としていますが、「示現流聞書喫緊録附録系図」の久保之昭との関係はわからないのでやはりこちらも無視しました。  しかしまあ、盛風力さんは鹿児島県史料集(34)の解題に「『島津家分限帳』の『久保七兵衛』は之英であったと思われる」というのには疑問を呈しておられるのに、「之英と之昌(東郷重位の高弟。明暦の大火のとき江戸の大奥詰。)の関係は分からないとしています」というのは鵜呑みなのですね。「関係がわからない」というのは「系図資料がでてないので、之昌の何代目の子孫かわからない。つまり、之昭が之昌の何代目の子孫か分からない」程度の意味しかなさいとおもいます。--220.111.240.207 2008年4月28日 (月) 10:03 (UTC)立山源次郎  まあ、個人的には[返信]

十中八九とはいえ推測であれば断定口調はまずいのではないでしょうか。京都留守居役は年代が合わないので疑問を呈したまでです。その疑問に対する答えがあるかと思ってたのですが。之昌の件は解題が「分からない」としているので出典を求めただけです。出典を求めるのを意地悪と思われてますでしょうか?典拠(先行研究、史料)は史学の学術論文を書こうとすれば学部生でも必ず厳しく突っ込まれるものですし、面倒な作業かもしれませんが誤解なきよう。--盛風力 2008年5月3日 (土) 15:32 (UTC)[返信]

;出典を聞かれる事は実にいいと思いますし、それに関して攻める気はありません。また、「京都留守居役は年代が合わないので疑問を呈したまでです」と考えるのは当然なことと思います。そのため、本文はそのままにしております。  ただただ私の言い方がまずかったのはお詫びします。ただ、「十中八九」といったのは「本藩人物誌」以外に久保之昌の子孫を久保七兵衛としている物を知らないのでそうしたまでです。  同書の子孫の通称の記述については信頼できると思います。当時の通称の世襲の慣習や「旧記雑録」の鹿児島衆の名簿を見ればわかるとおり、同じ氏では、通称はかぶらないこと(ただし、鹿児島衆と郷士との間ではどうだったか知りませんが)や久保七兵衛家自体が結構中堅クラスであることから考えても、身分差別の強い当時、他の久保家が七兵衛を称すのは考えにくいので、現存している資料から考えて、久保之昌の子孫を之英とするのは「限りなく白に近い灰色」だと思います。いかんせん、久保家の系図資料が出てないので、「十中八九」と書くしかないことは理解していただきたい。  ただ、今後久保家の資料が出てくれば変わるかもしれません。また、近思録崩れの時に左遷された勘定奉行の久保平内左衛門について調べれば、出てくるかもしれません。--210.237.32.170 2008年5月22日 (木) 10:37 (UTC)立山源次郎  [返信]

久保之英の親戚の久保平内左衛門之兄について

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  • すいません。大変な間違いを書いてました。「文化年間の久保平内左衛門は文化朋党の変で処罰された勘定奉行」と書いていましたが正しくは文化朋党の変の首謀者の樺山氏を高く評価していた郡奉行の久保平内左衛門でした。お詫び申し上げます。なお、この事は「文化朋党実録」に書いており、この人物の諱は之兄であることが同書に記載されてます。かってに犯罪者にしてすいません。ちなみに薬丸兼慶の実家の子孫で当時山奉行の黒葛原周右衛門も文化朋党の一味として、高隅に蟄居されてます。--220.111.240.207 2008年6月9日 (月) 03:23 (UTC)立山源次郎[返信]