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ノート:中野氏 (武蔵国)

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新しいページを作成した方は消えてしまったようですね。 こちらを見ると、出典は「八王子市史、福生市史、氏族、中野家菩提寺 過去帳、苗字家系、その他多数」だと言いたいようです。このページはどうなるのでしょう。--長島左近 2007年10月9日 (火) 13:46 (UTC)[返信]

元の記事(修正あり)

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中野氏 武蔵七党 西党の地盤は多摩川中流域です。 舟木田庄の郷村名については下記の通りです。 ・豊田村 は 日野市豊田 ・北川口郷と南川口郷 は 八王子市川口村 ・長房郷 は 八王子市長房 ・平山郷 は 日野市七生平山 ・中野郷 は 八王子市小宮村西中野 ・青木村 は 八王子市宇津木 ・下堀村 は 八王子市柚木堀の内あたり ・横河郷 は 八王子市横川 ・大塚郷 は 八王子市柚木村大塚

いずれも現在の東京都下八王子市に点在する。中野氏の所領も中野郷も現在の中野山王町あたりに なる。 良く間違えられるのが東京都の中野区辺りとの混在だ。間違えられる原因の一つは小野氏系の中野氏の勢力範囲として捉えられている為である。しかし中野区辺りは豊島氏や江戸氏などの勢力範囲だったと考えられ、ここに中野氏の所領があったかどうかは定かではありません。北国紀行に登場する中野長者は別者と考えられる。

西党の小川氏が鹿児島に渡り繁栄したことは甑島系図においても分かっている。その甑島系図には詳細に 中世の西党のことが細かにわかる。その中でも中野氏の存在が明確にされない中、西宗貞の代に中野郷の所領 を有していたことなどが明記されている。宗貞の子、宗末(中野?)が多摩郡福生村に恩賞を得て所領を有している。ただ宗末の子孫についての、その後の記録は無く1187年には分派平山氏の俊重が平山と福生の所領を確保しています。また立川氏は多摩川の対岸にと多摩川中流域の支配に大きく関わっている。

一説によると中野氏は天正期に北条氏に所領を奪われ昭島の地に先祖を頼りに渡ってきたのではないかと考えられる。

その一つに近郷において、「天正期、往古大久野七騎と唱へて、この地に土着せし士七人あり。和田、小山、羽生、 田中、清水、濱、中野、野口なりしとぞ云々」とあり、土着してきた士の名前に和田氏を筆頭に中野氏などの 名が連なっている。

また、七党の川口氏についても次のように記されている。 「子孫、永禄まで移住せしが三田氏、小宮氏と同じく北条氏の為に所領を失い、 近郷に移住せし、民間に下る云々」と。 これが天正時期であることから、八王子中野郷の豪族であった中野氏も殆ど同じような運命であったと考えた 方が自然だと思われる。

川口氏、三田氏、小宮氏に沿うように、田村氏、中野氏も四散したようだ。

でわ、何処へ四散したのか・・

昭島市名家、中野家の口伝では仮の僧侶の姿で身分を隠し、この地に付いたということ、遠祖は武蔵七党 だったという話が残っており中神町の中野氏では無いかと思われる。

昭島市の福厳寺の造りは明らかに中世の城跡ではないかと思われる。 この造りは立川氏居城といわれている普済寺よりもしっかりとしている。 またこの寺の過去帳では中野氏が一番古く、中野氏が深く関わっていたものと思われる。 ”天正以前、立川氏一族が移住せしところ”と記述が残されていますが、中野氏も立川氏も 言わば西党の分派であり、近親による政略結婚も多い中世では一族と言うくくりも考えて 見れば普通にあることと考えられる。

中野氏の戒名の中には下記のように

福厳寺の開基が1624年と言われる中、1626年没には中野市兵衛。 その他に中野市兵衛を名乗るもの二名、又左衛門などが連なる。 実際は国造としてかなり古くから中野氏はいたと郷土史家の多くは語る。

枯岩宗栄禅定門―1666年没(又左衛門)と書かれているものがあり この”宗”は宗貞から継がれた子孫の名前の一字だと考えられている。

また、その他の中野氏には ・1628年没 又左衛門 ・幸(行?)蔵―1702年没  などがあり、又左衛門と言う俗名を襲名している。

因みに普済寺立川氏一族の寺名は戒名の「勇讃即清大禅定門」が残る。

系図については、宗末の末裔・・・宗安(中野)と言うものや、西氏貫主(中野)という 話がありますが定かではない。


※ 中野家に古文書、系図巻物が明治初期の本家火災により焼失 --長島左近 2007年10月15日 (月) 03:52 (UTC)[返信]

記事保存

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歴史

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小川氏の甑島系図によると、西宗貞は中野郷を所領としていた。宗貞の子、宗末(中野氏)は多摩郡福生村(現在の東京都福生市)を所領としていた。

その後の消息は定かではないが、天正期に後北条氏に所領を奪われ、東京都昭島市中神に移り住んだとする意見がある。古文書氏族によると、近郷の出来事にも「天正期、往古大久野七騎と唱へて、この地に土着せし士七人あり。和田、小山、羽生、田中、清水、濱、中野、野口なりしとぞ云々」という記載がある。そのほか「川口氏、小宮氏についても北条氏台頭により所領を奪われ民間に下る云々」という記載もあり北条氏の影響をもろに受けていたものと推測出来る。昭島市の中野家の口伝には「仮の僧侶の姿で身分を隠し、この地に付いた。遠祖は武蔵七党だった」という口伝が残っているとされる。なお中野家には、明治維新まで系図巻物三巻があったが、新屋の火災により焼失したとされる。昭島市の福厳寺は、西党の中野氏が深く関わっていると考えられる。福厳寺の過去帳は、中野氏一族の記録が最も古い。

中神の中野家は、江戸時代中久大尽と言われ紀州徳川氏の出入りを許され大財閥として君臨していた。中野家は、甲斐の武田氏の末裔を称しているが、これは江戸時代に武田家の系譜を継ぐ、坪内家に仕えたことによるという意見がある。太平洋戦争中昭和天皇のお供(中野良行氏)をする者など名家として栄えた。

参考文献

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ISBN や書名などを、こちらに具体的に明記してください。

  • 八王子市史
  • 昭島市史
  • 福生市史
  • 氏族
  • 中野家菩提寺過去帳
  • 中神部落の研究(郷土史)
  • 甑島系図
  • 中野家本家口伝
  • 苗字家系 他

ちょっとお待ちを

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138.243.129.129 さん、飛ばしすぎです。意地悪をするつもりは無いのですが、一旦ペンディングにさせて頂きました。

  • 西党の中野氏=中神の中野家とする学説は、どなたの説ですか?
  • 「古文書氏族」とは何ですか?西党ですか?中神の中野家ですか?
  • 138.243.129.129 さんは、中神の中野家の関係者ですか?

上記について、中野家の者です。中野本家筋に伝わる口伝をベースに公表しました。 福厳寺は西党、中野氏の居館だったと思います。

出来ればログインユーザーになって頂けると、連絡がとり易くなると思います。--長島左近 2007年10月26日 (金) 15:49 (UTC)[返信]

ページの移動と曖昧さ回避の項目作成について

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中野氏は全国各地に存在します。項目としては出羽中野氏がある他、肥前国の中野氏、九戸氏の後裔、南部氏の一門の中野氏があります。これらとの違いをはっきりさせるため、中野氏 (武蔵国)への移動と、中野氏 (曖昧さ回避)の作成を提案します。ただし、私は曖昧さ回避の作成を他の方に依頼します。また、肥前、陸奥の中野氏についての記事が同時に作成されて、このあいまいさ回避に記述されることを望みます。ご意見お願いします。--東海林 俊夫 2008年2月15日 (金) 07:38 (UTC)[返信]

現状の本記事を鑑みると、その提案は現段階では賛成できません。まずは本記事の問題点を解決してからのほうが作業も頓雑かつ複雑にならず、第三者も事情の把握がし易いかと思います。まぁ、この記事の問題についての議論が停止し要出典部分の説明(出典を明記する側がその部分について説明)をしていないなど、百科事典的な記事に発展する見込みが低く感じます。検証可能性も怪しい記述がありますし。(中野本家筋に伝わる口伝をベースって、それじゃ出典にもなりやしない。。。)--FOXi/Talk/Log 2008年2月20日 (水) 01:23 (UTC)[返信]
あと思ったのが、「存在しない記事が今後作られる事を想定して動く」事は推奨されない行為だと思います。全国各地に存在する中野氏の記事が今後作られるだろうから曖昧さ回避を作りたい、というのであれば反対です。あくまでも曖昧さ回避は同名記事が複数存在し検索者が意図した記事に行けるようにする案内ページです。現状では特に検索競合もありませんし。またこのためにサブスタブレベルの初版が執筆されるのも好ましくありません。--FOXi/Talk/Log 2008年2月22日 (金) 01:09 (UTC)[返信]
たとえば池田氏などとは違って、今現在の中野氏の項目で解説されている中野氏が他の中野氏よりとびぬけて著名というわけではないでしょう。むしろ出羽の中野氏のほうが有名なくらいです。移動の上で平等な曖昧さ回避ページにすることに全く支障はないでしょう。また、現在の中野氏の記事は問題点が多く、将来的には削除となる可能性すら否定できません。肥前の中野氏や信濃の中野氏、陸奥の中野氏について中野氏に加筆が入る可能性を考えると、巻き添え削除を避けるためむしろ現在の記事は移動することによって「隔離」することが必然でしょう。すぐにでも移動を実施すべきであり、蛇足な議論に時間を費やすことは執筆活動の停滞をもたらしかねません。--Kangoshiyouichi 2008年2月22日 (金) 03:43 (UTC)[返信]
あーっと、言葉足らずで誤解があるようで申し訳ない。Aという記事が存在し同名で現在は記事が存在しないが現実に存在が確認できるB,Cなどが今後作成されるだろうという「安易な推測」で動かれるのを懸念しただけであって、リスクは回避すべきではないとは言いません。ただし、『すぐにでも移動を実施すべきであり、蛇足な議論に時間を費やすことは執筆活動の停滞をもたらしかねません』という部分には同意しかねます。コンセンサスが欠けている段階での移動には納得できませんし、蛇足な議論だとは思いません。議論一つ一つには意味があり蛇足な議論などでは決してないと思います。--FOXi/Talk/Log 2008年2月22日 (金) 05:06 (UTC)[返信]
重要なのは移動がなされるべきかどうかであって、論点を拡散させるのは上手なやり方とはいえませんよ。瑣末な部分に拘るようでは議論をする能力を問われても文句はいえないかと。問題があるから移動してもよい、ということで異存はないのでしたらあとはFOXiさんと東海林さんのお二人が場所を移してとことん意見を交換してください。このノートはお二人の会話ページではないのですから。--Kangoshiyouichi 2008年2月23日 (土) 13:16 (UTC)[返信]

皆さん、誤解されているようで。すでに出羽中野氏と中野氏の2項が存在しているのですから、推測による移動ではありませんよ。たとえ今から他の中野氏が作成されないにしても、2項目あっては困る方がいらっしゃるかと思いますね。実際に私もそうでしたし、最上氏の項目にはかつて、この項目へのリンクがありましたよ。--東海林 俊夫 2008年2月22日 (金) 08:23 (UTC)[返信]

「皆さん」には私も含まれるんですかね。ちなみに曖昧さ回避ページは中野氏に作ればよく、別個に作成させる必要はないと思います。将来的には林氏松井氏中村氏のように複数の氏族が並存して記述されるページになる可能性は否定できませんが。--Kangoshiyouichi 2008年2月23日 (土) 13:16 (UTC)[返信]

議論は出尽くしたようなので、建設的かつ合理的な異論がでなければ最速で一週間後に現在の中野氏の記事を中野氏 (武蔵国)へ移動させ、中野氏を曖昧さ回避ページに作り直そうと思います。スマートでない議論をぐだぐだつづけても不毛なだけです。--Kangoshiyouichi 2008年2月23日 (土) 13:16 (UTC)[返信]

冷静な判断ができていないように感じたので意図的に議論から離れていました。移動に同意。--FOXi/Talk/Log 2008年2月25日 (月) 01:53 (UTC)[返信]
移動に皆さん同意されたようなので移動します。曖昧さ回避は、他の方に依頼する結果になるかもしれません。--東海林 俊夫 2008年2月25日 (月) 07:29 (UTC)[返信]
ある人が移動議論と無関係な一人語りをはじめたときは、思わずWP:KIDSの「もしかしたら、あなたにはウィキペディアは、まだ早いのかもしれません」あたりの熟読を勧めたくなりましたが(笑)、無事に議論が終息して安心しました。東海林さんはご苦労さまでした。--Kangoshiyouichi 2008年2月29日 (金) 15:31 (UTC)[返信]
ある人が人の議論を無関係と言い切るその姿勢に思わずWP:KIDの「もしかしたら、あなたにはウィキペディアは、まだ早いのかもしれません」あたりの熟読を勧めたくなります(笑)--FOXi/Talk/Log 2008年3月1日 (土) 05:23 (UTC)[返信]

記事について

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しかし、こういうある意味貴重な史実になりうる情報も書いているわけで、小さい貴重な話を葬る のも勿体無いと思うので、上手く編集出来る方が抜粋して残した方がいいと思います。

中野家の人、こんにちはです。署名を付けましょう。--長島左近 2008年2月25日 (月) 15:10 (UTC)[返信]

どうやって付けるのですか?

編集画面の上の方に書いてありますよ。--長島左近 2008年2月26日 (火) 22:57 (UTC)[返信]

なんか難しいですね(@@;)意味がよくわかりませんが(汗)やってみます。 これでいいのかな? --122.18.157.158 2008年2月27日 (水) 23:25 (UTC)k>nakano[返信]

残念ながら違います。コメントを投稿するときに、「ノート:中野氏 (武蔵国) を編集中」という画面になりますよね。コメントを入力する欄の上にBで始まるアイコンが付いています。その上に「ノートページへ投稿するときは」という説明書きがありますから、それを読んで下さい。--長島左近 2008年2月28日 (木) 16:25 (UTC)[返信]
すみません。スキンだの専門用語で意味不明の言葉が多くて良くわかりません。近いうちに西党のホームページを立ち上げてもらうつもりです。そこでお話できたらいいなーと思います。
ごめんなさい。IPユーザーですから、それで良かったみたいです。--長島左近 2008年7月20日 (日) 16:52 (UTC)[返信]

元に戻ってますよ

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勝手ながら節を、西党の中野氏と昭島市の中野家に分けました。以前、出典が不明確であると私が指摘し、要約・修正したにもかかわらず、いつの間にか元の出典・根拠がはっきりしない、関係者の一方的な主張に基づく記事に戻りつつあるからです。122.18.157.158 さんは昭島市の中野家の関係者である事。Wikipediaのルールについて理解不足である事を考えて、本文の方に少々失礼な事を書かせて頂きました。お許しください。私の疑問・懸念に答えるような形で、記事を修正・発展していただければ幸いです。--長島左近 2008年7月20日 (日) 17:10 (UTC)[返信]

削除依頼を提出します。

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このたび、非常に残念ながら、中野氏 (武蔵国)の削除依頼を出すことに決めました。Wikipedia:削除の方針の「ケース E: 百科事典的でない記事」に該当する記事であるとの結論に達したからです。

1) この記事は、138.243.129.129(Whoisによると、NTT Communications Corporation)さんによって、2007年9月21日 (金) に初版が作成されました。

2) 138.243.129.129さんは記事に記載されている、昭島市の中野家の関係者です。関係者である事は、ノートページの2007年10月26日 (金) 15:49 (UTC)の会話で、「中野家の者です。中野本家筋に伝わる口伝をベースに公表しました。」と明言されています(ただし署名はありません)。関係者による執筆は、Wikipedia:自分自身の記事をつくらないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかの「家系図や人名録ではありません」に違反しています。またそもそも昭島市の中野家は、Wikipedia:削除の方針の「百科事典に記載するほどの著名性・特筆性」がありません。

3) この記事は138.243.129.129さんの家に伝わる口伝をベースに執筆したものです。ノートページによると「こういうある意味貴重な史実になりうる情報も書いている」(2008年2月25日 (月) 頃?)という趣旨であり、自分の一族が歴史ある名家である事を史実にしたいという願望を持ったWikipedia:削除の方針の「独自の研究結果の発表」と思われます。

4) 再三の出典要求にしたいして、誠実な対応がなされません。確かに2007年10月26日 (金) 13:14に参考文献のリストが提出されました。しかし第一に参考文献に問題があります。「氏族」(昭島市の中野家の古文書)や口伝、昭島市郷土研究会(地元の歴史マニア?)などWikipedia:信頼できる情報源と呼べ無いものが混ざっています。また、どの部分が口伝で、どの部分が書籍なのかが全く分からない状態が約2年間続いています。 2008年12月18日 (木) 07:20にTemplate:参照方法を貼りましたが、9ヶ月放置されたままです。

5) 再三の助言に従いません。当初はルールの分からない善意の初心者である可能性を考えて、再三にわたりウィキペディアのルールに適合するように指導・助言、援助を行ってきました。例えばノートに保存されている2007年10月15日 (月) 03:52 (UTC)のようなエッセイ風の記事の改良を試みました。またノートの2007年10月26日 (金) 15:49 (UTC)では、ログインユーザーに成ることも助言しました。しかしログインユーザーになることは無く、2008年7月20日 (日) 17:10 (UTC)のように隙あらば、ウィキペディアのルールに適合しない、昭島市の中野家=西党の中野家=歴史ある名家に戻そうとしています。

6) ルール無視者です。現在もIPユーザーとしてゲリラ的な編集を続けていると思います。2009年9月2日 (水) 01:47の118.8.158.123(NTT Communications Corporation)による編集などです。

非常に残念ですが、約二年間の経緯を見る限り、Wikipedia:削除の方針の「百科事典的な記事に成長する見込みのない」に該当するといわざるを得ません。よって削除が適当と思います。--長島左近 2009年9月2日 (水) 15:12 (UTC)[返信]

報告-上記依頼に基づき削除された当記事がOCN(東京)のIP:118.8.158.123会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisにより2009年9月27日 (日) 07:48 (UTC)に改善なき再作成が行われました。--121.3.72.192 2009年9月27日 (日) 10:23 (UTC)[返信]

報告-上記依頼を根拠に、武蔵七党西党の両記事内の中野氏についての記述を除去しました。--121.3.72.192 2009年9月27日 (日) 10:23 (UTC)[返信]

武蔵七党の中野氏については、Wikipedia:削除依頼/中野氏 (武蔵国)で長島左近さん自身が述べられていたことですが実在していますので戻しました。西党については(中野氏という氏族自体は存在しているのですが)保留します。--Kangoshiyouichi 2009年10月9日 (金) 15:19 (UTC)(補足--Kangoshiyouichi 2009年10月9日 (金) 15:21 (UTC)[返信]

参考文献の調査の結果

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八王子市史・中神部落の研究・福生市史

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本日、図書館に行く機会があり参考文献の1つとして挙げられている『八王子市史』をざっと読んでみました。巻数が特定されていない為、『八王子市史 下巻』(八王子市史編さん委員会、昭和42年)です。第三章中世の第二節「室町時代」と第三節「戦国時代」を中心に眺めてみました。

中野氏に関する記述は私の読んだ範囲には、一切ありませんでした。376ページに横山十二郷というリストがあり、そこに中野郷という物を1つだけ発見しました。

本文の「天正期に後北条氏に所領を奪われ先祖を頼りに多摩近郊に逃げ延びて来た」の件ですが、437ページに「日野から高幡にかけての淺川べりは氏照の直属の家臣団がおかれたらしい」との記述がありました。しかし単なる領地替えで、中野氏と同じ西党の平山氏や由井氏は他に所領を貰って移っただけと記載されていました。

以上を踏まえて、本文の「昭島市の中野家」を再読してみると、出典にならないと思います。--長島左近 2009年9月3日 (木) 06:34 (UTC)[返信]

参考文献の「昭島市郷土研究会編 『中神部落の研究』昭島市郷土研究会、1961年」とは何か?ネットで検索してみました。山崎藤助さんという方が著者の書籍のようですね。論文の初出は1953年(昭和28年)で、相当古いもののようです。当該書籍は昭島市民図書館のウェブサイトで検索すると見つかります。ありがたい事に目次も表示されますが、内容は江戸時代以降から明治くらいまでが範囲で、中久大尽や福厳寺というキーワードは見えますが、西党の中野氏は見当たりません。40ページほどの小冊子のようで、1つの章は数ページ。確かな記述はあるのでしょうか?

確認は出来ませんが、外見上は出典として頼りない本だと思います。--長島左近 2009年9月3日 (木) 08:29 (UTC)[返信]

「昭島市民図書館のウェブサイトで検索」の件、簡易検索では出てきませんのでご注意を。--長島左近 2009年9月3日 (木) 08:39 (UTC)[返信]
要出典をこの記事に添付した者です。私も『福生市史』(上下巻)をざっと参照してみましたが、中野氏に関する記述は見えませんでした。なお参考文献の『中神部落の研究』ですが、これは(郷土史)と本文にあったのを、郷土史なのでおそらくこれだろうと思い、私が書誌情報を追加したものです。ただ内容は未確認です。今から考えると本当に正しい書誌情報なのか疑問も湧くのですが、信頼できる情報源の同タイトルはこれだけなので、中野氏の記述が無いなら、『八王子市史』『福生市史』と同じく適当に追加された文献だったのかもしれません。もしくは、中野氏関係者が、これら信頼できる文献と中野家家伝とを合成して記事が作られたのかもしれませんね。--KurmUmy 2009年9月3日 (木) 09:24 (UTC)[返信]
KurmUmyさん、調査ありがとうございます。助かりました。--長島左近 2009年9月3日 (木) 22:47 (UTC)[返信]

中間報告と1次資料

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中間報告します。本文で参考文献に挙げられている物は7つ。本文中に福厳寺の過去帳、吾妻鏡が挙げられており計9個です。現在2つは全くの虚偽である事が判明し、1つに疑問符が出されています。

更に「氏族」(昭島市の中野家の古文書)(私的な家系図?)や過去帳は一次情報源であり、ウィキペディアにおいては信頼できない情報です。Wikipedia:信頼できる情報源では「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次情報源は、使ってはいけません。Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:検証可能性をご覧ください。」と説明されています。

検証の結果、9個中5つが不適切な出典と判明した事を報告します。--長島左近 2009年9月3日 (木) 23:14 (UTC)[返信]

未検証は残り4つですが、『甑島系図』は出版されていないようですね。二次情報源の具体的な書名が無い限り、これも信頼できない情報ですね。--長島左近 2009年9月3日 (木) 23:34 (UTC)[返信]
吾妻鏡は出版されていますが・・・ウィキペディアによると吾妻鏡は「1180年(治承4)から1266年(文永3)まで」となっています。本文には「「天正期の以前、立川氏一族の移住せし跡也」と言う」と説明されていますが、天正は「1573年から1593年までの期間を指す」で、吾妻鏡とは全く時代が違いますが、どうなっているのでしょう?--長島左近 2009年9月3日 (木) 23:34 (UTC)[返信]

昭島市史と特筆性

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参考文献の1つとして挙げられている『昭島市史』をざっと読んでみました。昭島市史編さん委員会『昭島市史 本編』(1978年)。第六編「中世封建社会」から第七章「近世封建社会」です。

まず西党の中野氏ですが、全く記述がありません。第六編第二章「南北朝時代」第三節「日奉氏の分布と館址」(P518)に、列挙された支族の中に中野氏はありません。

次に福厳寺ですが、昭島市史も立河氏の館址説です(P523)。

次に昭島市の中野氏の出自に関してですが、第七編(後述)によると前述の山崎藤助さんの説は、中野家の先祖=武田の家臣説だそうです。昭島市史は不明としていますが、西党の中野氏には興味はないようです。福厳寺過去帳では、1685年に死亡した、三郎兵衛の父が初代となるそうです(P941)。江戸時代の明和(1764年から1771年まで)以前の中野家は、3人の村役人の1人ではあったものの(P957)、単なる有力農民だったようです(P1001)。

結論としては、昭島市の中野家=西党の中野家=平安末期からの1000年以上の歴史ある名家。福厳寺は中野家の物という、自称子孫さんのご主張は残念ながら立証されませんでした。本文中の過去帳の記述すら出典と一致しません。--長島左近 2009年9月7日 (月) 07:47 (UTC)[返信]

削除依頼に書いたWikipedia:特筆性に関しての検討もしてみました。第七章「近世封建社会」第三章「村落社会の新動向」に「中神村 中野家の経営」という項目があります。

中久大尽とは何なのでしょうか?自称子孫さんの説明では「大財閥」という事ですが、これは幾らなんでも美化しすぎです。『昭島市史』では「昭島市域においては最大の商人であり、多摩郡でも有数の地主」(P939)と説明しています。しかしこれでも簡略化しすぎで良く分かりません。

出典を読んで、私の理解した所では”江戸中期から幕末の多摩郡の有力な商人。明和以降、八王子市場の縞(しま)仲買の1人として織物を販売し財を蓄えた。文政から天保初期に中久大尽と呼ばれるようになった。天保後半になると問屋制家内工業への業態転換に失敗し、新興勢力の台頭を許す。縞仲買から、小作料の徴収や高利貸し業へと比重を高めた。名主となり、昭島市の3分の1(65~70石)を所有する大地主となった。幕末の動乱と横浜開港により、明治7年に倒産”(P1001-1002を参考)。

中久大尽の説明は、この程度が客観的なレベルではないでしょうか?個人的な感想としては、昭島市限定の郷土の有名人と言った感じです。Kangoshiyouichiさんの仰るとおり、中久大尽屋敷跡などに、ぶら下げると丁度良いかもしれませんね。--長島左近 2009年9月7日 (月) 07:47 (UTC)[返信]

結論

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検証の結果、出典9個。未確認1つ。残り8つは全て不適切であることが判明しました。本文は1文も出典と適合せず、独自研究の塊で、再利用できる箇所はありませんでした。--長島左近 2009年9月7日 (月) 07:47 (UTC)[返信]