ノート:下間頼廉
法眼、法印の出典の明記がない。存命中は、ほとんど法橋の僧位である。--Sabkakusikaku 2009年4月5日 (日) 03:22 (UTC)
- ほとんどということを主張したければ、いつまで法橋という署名が見られるかぐらい書いてください。ただ天正4年4月に云々書かれても役に立ちません。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 03:26 (UTC)
- 「ほとんど法橋」というのが事実に反するのは、たとえば天正十年六月廿七日付 刑部卿法眼宛 教如書状(『大日本史料』参照)からも明白です。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 05:42 (UTC)
- ついでに書くと法印は、慶長十九年十月廿七日付 川那部内蔵助・渡辺長門守宛書状に「下間刑部卿法印頼廉」とあることから確認できます(『本願寺展』図録参照)。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 06:33 (UTC)
雑賀衆五か坊筆頭の川崎蓮乗寺の本願寺書状に、天正4年4月、刑部卿法橋頼廉という署名・花押がある。 >> これは出典が担保されているものです。これを削除する理由はないはず。--Sabkakusikaku 2009年4月5日 (日) 03:32 (UTC)
- その記述からは第三者が出典を確認できません。--丁度氷 2009年4月5日 (日) 03:47 (UTC)
こちらに法眼頼廉、こちらに法印頼廉が確認できる。らりた 2009年4月5日 (日) 07:41 (UTC)
↑ どれだか、わかりませんが。--Sabkakusikaku 2009年4月5日 (日) 11:16 (UTC)
ブラウザの検索機能で「法眼」「法印」で検索してみればすぐに分かる。というか素人の私がちょっとググッただけで出てくる程度の調査もしないで「ほとんど法橋」などと断定しないように。らりた 2009年4月5日 (日) 12:39 (UTC)
雑賀衆五か坊筆頭の川崎蓮乗寺の本願寺書状に、天正4年4月、刑部卿法橋頼廉という署名・花押がある。また、天正8年3月20日の本願寺文書にも、下間刑部卿法橋と記載されている。--Sabkakusikaku 2009年4月11日 (土) 07:39 (UTC)
- その2通を特筆しなければならない理由は何ですか? たとえば上で紹介されている『岐阜県史 史料編 古代・中世1』ひとつ見ても下間頼廉の書状は40通以上あります。何年何月何日のどの史料にどう署名しているかなんて書き出したらキリがありませんし、そのような書き方は冗長なだけです。--丁度氷 2009年4月11日 (土) 08:04 (UTC)
一向一揆を指揮した時代の彼は、ずっと法橋である。本願寺が降伏後に、法眼、法印に昇格している。彼の履歴書は、一揆の大将の話しが主体である。--Sabkakusikaku 2009年4月11日 (土) 09:07 (UTC)
- どなたか専門家の分析結果を載せるべきであって、あなたの調査結果を載せないように。これはウィキペディアのルールである。らりた 2009年4月11日 (土) 11:39 (UTC)
- もうこれ以上、この記事に対して編集強行をしないように。した場合はブロック依頼を提出します。らりた 2009年4月11日 (土) 11:44 (UTC)
顕如に仕え、織田信長との石山戦争では鈴木重秀(雑賀孫一)と共に本願寺軍の武将として織田軍を苦しめた。このため、「大坂之左右之大将」と呼ばれたという。しかし単なる軍事指揮官だけではなく、天正4年(1576年)に七里頼周が加賀にて無法を行なったときには、それを改めるよう文書を発するなど、政治面においても重きをなしていた。
天正8年(1580年)、本願寺軍が織田軍の前に敗色濃厚となると、正親町天皇の勅命講和により本願寺を退去することとなったが、このとき頼廉も下間頼竜や下間仲孝らと共に講和に署名している。講和後は顕如に従って本願寺を退去し、各地で織田軍に対して抵抗を続ける一向宗徒の説得に当たった。
この本文中の彼は、このあいだずっと法橋です。法眼、法印はずっと後のことである。よって、法橋の僧位の時代に、一向衆を指揮していたわけです。--Sabkakusikaku 2009年5月7日 (木) 08:44 (UTC)
- 「事実」だったら、そう書いてある歴史書や論文はいくらでもありますよね。それを示してください。「自分が事実といってるんだから事実だ」という主張は2chで横車を押すことはできても、Wikipediaでは通りません。--彩華1226 2009年5月7日 (木) 12:13 (UTC)
Sabkakusikakuさんが「出典を担保としている」のは、あくまで「法橋に任ぜられる。」という記述に対する出典でしょう。「法橋、法眼、法印に任ぜられる。」という文章と置き換えることはできないと思います。
法橋<ref>雑賀衆五か坊筆頭の川崎蓮乗寺の本願寺書状に、天正4年4月、刑部卿法橋頼廉という署名・花押がある。また、天正8年3月20日の本願寺文書にも、下間刑部卿法橋と記載されている。</ref>、法眼{{要出典}}、法印{{要出典}}に任ぜられる。
としてあるのなら主張もまだ理解できますが。(斜線部は下間頼廉の2009年5月4日 (月) 03:00 (UTC)の版、2009年5月5日 (火) 08:47 (UTC)の版より)--PALNAS 2009年5月7日 (木) 13:16 (UTC)
講和するまで法橋だったという主張ですが、天正8年に比定されている正月25日付書状に「刑部卿法眼頼廉」と署名していることから事実かどうか非常に疑わしいです。(参考:千葉乗隆 編『本願寺文書』柏書房、1976年)--丁度氷 2009年5月7日 (木) 14:16 (UTC)