ノート:下島橋
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初架橋に間違いがあるのかも
[編集]昨日、この「下島橋」を立項しました。小学校~高校時代には、聞くことのある橋の名でしたが、ほとんど通ったことがありませんでした。先日、松本市役所梓川支所からの帰りに通過して、スイカとリンゴの飾りを運転席から見て来ました(←余計なことですね)。 立項に際しては、発行元に残部少なくなっていた『梓川村誌 続編』(梓川村はないので、求めたのは松本市役所梓川支所内にある公民館からです)を参考にしました。ここには、記事に書いたように、「1950年に、梓川高校の通学路として建設」と書いてあるのです。ところが先ほど、梓川橋編集のために、『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第4巻』(1975年刊)の年表を見ておりましたところ、344ページ(1945年9月18日)の項に「丸田橋・下島橋流失」との記述を発見しました。どうやら、1950年の架橋は初めてではなく、高校生通学の便を口実にして、流されていた橋の再架橋をしたようです。 真相を突き止めて、正しく編集し直すことができるのは、早急というわけにはいきません。しかし、いずれ修正したいと思います。--ジガンザン8108(会話) 2013年10月20日 (日) 07:13 (UTC)
- ShikiHでございます。上記の件はどうなるのかと思って見守っていました。わたしの思うところを書きますが、ただこれはその可能性があると言うだけであって、事実かどうかはまったくわかりませんが、わたしは二つの資料の両方とも正しいのだと思います。すなわち下島橋には新旧つの橋があって、場所が離れている。『梓川村誌』はこの二つは別のものとみなし、現在の下島橋は高校への通学路として架橋したのがはじまりであるという見解。『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』では旧橋が流されたのを記述し、その橋の名称はまちがいなく「下島橋」だった、と書いてあるだけで現在の同名の橋については考慮していない。こんなことではないでしょうか。新橋が「高校橋」とかいう名前なら何の疑問も起きないところです。すでにお気づきのことかもしれません。そうであれば余計な口出し、ご容赦ください。2013年11月21日 (木) 11:58 ShikiH、署名を忘れたので追加--ShikiH(会話) 2013年11月23日 (土) 00:53 (UTC)