ノート:上見附駅
苅谷田川橋梁の建設時期について
[編集]2018年9月2日までの版では以下のように記述されていました。
当駅はいったんはスイッチバック式でない駅として開業したものの、(中略)本線の形状はほぼそのままに、上見附駅の周辺だけルートを変更したことによって生じた。このとき、刈谷田川を渡る単線並列の橋梁が建設されており、
しかし、戦前の地形図を確認したところ、スイッチバックの駅となってからもなお 刈谷田川の南岸に位置している様子が確認できました。
現在の版に出典が明記されていないため根拠を確認することができませんが、橋梁の正確な建設時期、あるいは刈谷田川の流路変更時期が確認できる出典を見つけ、より実際に即した表現に改めた方が良いのではと考え、国土地理院の航空写真を確認したのですが、1947年が最古のもので、この時期にはすでに新流路の上に架橋されておりました。
残念ながら1931年以降から1947年までの地形図や出典を見つけることができず、正確に流路変更時期を特定するまで至ってはおりませんが、少なくとも駅の移転と架橋時期は同時ではないと判断し、修正を加えました。
--Iso8.tv(会話) 2018年9月3日 (月) 09:27 (UTC)
後ほど記事に反映させますが、上記のように、駅移転から苅谷田川橋梁の建設まで時間差があることを確認できる出典を発見し、裏付けが取れたことをご報告いたします。
--Iso8.tv(会話) 2019年6月22日 (土) 10:43 (UTC)
上見附駅は3回引っ越した?
[編集]開業年である1915年(大正4年)に栃尾鉄道が公式に刊行したという書籍が国会図書館デジタルコレクションに収録されていました。 「栃尾鉄道案内」 このコマ番号31、書籍の35ページに見附町略図という図録が添付されています。この略図によると、刊行当時の上見附駅が小丹生神社(地図中では熱田小舟生神社とあり)の直近、現:双葉町付近にスイッチバック駅として'存在していることになっていて不可解です。これを記入している時点での記事内容をもとに時系列整理すると、
- 1915年(大正4年)- 浦瀬 - 栃尾開通(開業) - 初代駅舎
- 1919年(大正8年)- 最初の移転(スイッチバック化)- 二代目駅舎「地方鐵道哩程異動」1920年1月13日
- 耳取 - 上見附 1哩2分
- 上見附 - 明晶 1哩2分
※上二行をそれぞれ「1哩2分の増」と書いていましたが訂正します。--Iso8.tv(会話) 2019年7月6日 (土) 03:59 (UTC)
- 1965年(昭和40年) - 南へ40m移動 -(二回目の移転) 三代目駅舎
- 1975年(昭和50年) - 廃止
となります。 仮に、この公式案内本も正しいとすれば、実に3回の移転が行われたことになります。また、最初の引っ越しでは距離変更を届け出ず、1919年まで修正しなかったのかもしれません。(なお、創業当初はスイッチバック構造ではなかったのは正しいと思われます。)裏付け資料の発見が待たれます。--Iso8.tv(会話) 2019年7月5日 (金) 02:04 (UTC)
- 新たな謎が発覚しました。現地のサイクリングロードには栃尾鉄道の案内板があり、やはり双葉町の合流地点付近に初代上見附駅があったという記述があるようです。(参考・個人ホームページ)しかし、これではスイッチバック構造でない直通構造の時期が存在しなかったことになるのですが…ただ、この案内板が上記「栃尾鉄道案内」を基にした可能性も否定できません。
- では、双葉町に駅があったかというと、確かに存在した時期があった可能性は高いように思いました。
- には、駅のような構造が刈谷田川橋梁のたもとにはっきりと写っています。
- この写真の状態では有効長が足りていないと思われ、河川改修で一部削られた可能性があります。
- 後に、さらに河川改修工事が行われた結果、現在では完全に削り取られています。
- さらに、この位置に駅があったと仮定すると、「地方鐵道哩程異動」『官報』1920年1月13日にある修正後の、耳取-上見附 1.2哩・上見附-明晶 1.2哩という駅間距離は、越後交通時代の 耳取-名木野-上見附 計2.5km および上見附-明晶 3.2kmに比べて明らかに短く、現行の刈谷田川のあたりと仮定した方が近い数値となる。(これを根拠にするわけにはいきませんが)
- 昭和6年の1/50000地図では、越後交通時代とほぼ同じ位置に駅が移転しているので、この時点で1回目ないし2回目の駅移転が完了していることになる。
- それと、最初期に(スイッチバックではなく)直通していた時期があったことを確認できる出典がもう少し欲しいところです。『懐かしのトッテツ(栃尾鉄道)』の初版は2009年5月で、このWikipedia初稿(2008年12月24日リリース)を参考に記述した可能性が完全にゼロとは言い切れませんので。(しかも当時の版は出典の記述が無い)おそらく社史に書いてあると思いますが。--Iso8.tv(会話) 2019年7月6日 (土) 03:59 (UTC)
- さらに追記・前述のサイクリングロード案内板ですが、使用されている写真の撮影者は『懐かしのトッテツ』の著者ですね。案内板と著作で説明が違うというのは不思議です。(写真提供だけとしても、チェックしないはずがないですし)--Iso8.tv(会話) 2019年7月6日 (土) 04:07 (UTC)
整理すると、
- 1915年 - 開業。スイッチバック式の駅が双葉町に開設される。
- 1919年 - 市街地に移転。営業距離延長。スイッチバック構造は引き継がれる。この時点では刈谷田川橋梁は存在せず。
- 1930-40年代(詳細不明) - 河川改修により刈谷田川橋梁が架橋される。
- 1965年 - 道路建設により2回目の移転。
- 1973年 - 上見附-栃尾の区間廃止により、初めてスイッチバック式でなくなる。
つまり、移転の回数としては計2回。ということになるかと思われます。詳細は、ノート:越後交通栃尾線に出典などをまとめ直したので参照願います。--Iso8.tv(会話) 2019年7月7日 (日) 12:12 (UTC)
- 『懐かしのトッテツ』再読いたしましたところ、明確に初代駅はスイッチバックでなかった旨が記述してありました。結論としては従来記述の通り、最後の駅舎は3代目で間違いないようです。サイクリングロードの案内板については推測ですが、正確な位置に立てることができないため妥協案として現在地に設置しているのだと考えられます。当方が書き写したメモに欠落があったようで深くお詫び申し上げます。--Iso8.tv(会話) 2020年7月17日 (金) 12:40 (UTC)
初代駅舎の形態に関する記述見直し
[編集]以前のトピックにて、見附市双葉町の現地に立つ案内板の疑念が完全に解消しないまま、『懐かしのトッテツ』の記述をもって初代駅舎がスイッチバックではなかったと断定しましたが、複数の資料を参考にしつつ『栃尾鉄道案内』を再読したところ、『懐かしのトッテツ』の記述が誤りである疑いが濃厚となり、(個人研究との謗りは免れませんが)記述を全面的に書き換えました。具体的には、まず官報で確認できる営業距離の変化は以下の通り:
- 1915年2月 浦瀬 - 栃尾、10.0M 開業
- 1915年6月 下長岡 - 浦瀬、2.7M 延伸
- 1916年9月 長岡 - 下長岡、1.0M 延伸
合計13.7M は『栃尾鉄道案内』巻末にみられる長岡延長完成時の距離と一致します。また、『栃尾鉄道案内』に記されている「引込線」の意味がいままで判然としなかったのですが、『小林友太郎翁伝』の記述からスイッチバックそのものを表すことが判明しました。二代目駅舎への移転が大正3年の臨時総会で決定した、と解釈できなくもないのですが、仮にそうであれば、同時に決定した長岡駅への延長予定を織り込み済みの『栃尾鉄道案内』路線図ならびに見附町略図にみられる初代駅の位置は不合理です。『栃尾鉄道案内』はその序文からも開業直前に上梓されたものであることは疑いなく、総会の決定を受けての編集に十分の余裕があったと考えます。以上より、『栃尾鉄道案内』路線図や現地案内板の位置はいずれも正しく、開業当初からスイッチバック駅であったものと判断しました。--Iso8.tv(会話) 2023年1月16日 (月) 11:20 (UTC)