ノート:上海南駅の赤ん坊
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「捏造だという主張」節の翻訳欠落について
[編集]この記事は、IP氏により「en:Bloody Saturday (photograph)」の翻訳記事として投稿されているものですが、原文と比較すると所々翻訳されていない部分があることがわかります。たとえば、原文「Wong was known to be against the Japanese invasion of China and to have leftist political sympathies, and he worked for William Randolph Hearst who was famous for saying to his newsmen, "You furnish the pictures and I'll furnish the war" in relation to the Spanish–American War. (王は、日本の中国侵略に反対している左翼の信奉者として知られていた。また、彼はウィリアム・ランドルフ・ハーストのもとで働いていた。ハーストは、米西戦争つながりで「君は写真を作れ。私は戦争を作る」と取材記者に向かって言い放つことで有名な人物であった。)」のくだりは、なぜか日本語版では削除されています。ちょっと余裕がないので「捏造だという主張」節以外は見ていませんが、完全な翻訳記事ではないので注意が必要です(ぴったりのテンプレが見つからず、迷ったのですが、不完全な翻訳という意味で「翻訳中途」を貼らせていただきました。よりふさわしいテンプレがあれば、変更していただいてかまいません)。
また、出典として引かれているテッサ・モリス=スズキついて検索したところ、その言動について色々議論がある人物のようです。Wikipedia:中立的な観点からも、注意が必要かもしれません。--Whaa(会話) 2012年9月9日 (日) 01:24 (UTC)
- 英語力がないので詳しい比較検討はしていませんが、現状では一つの記事としての不完全であるというほどの問題があるとは思えませんでした。英語版から数行訳し落としがあるという程度であれば翻訳中途のテンプレートを使うほどのことではないと思います。単に訳し忘れたのかもしれませんし、ノートに訳し落としがある旨を書いておけば十分でしょう。可能であればご自分で訳してみてください。
- テッサ・モリス=スズキについては、検索してみた限りでは特に出典として扱うに問題のある人物とは思えませんでした。証拠の捏造をした人物とかであるならともかく、政治的な分野では一方の立場が他方の立場に論難されるようなことは珍しくないでしょうから、それをもって出典としてふさわしくないというようなことはいえないでしょう。「反響」の節ももっぱらテッサ・モリス=スズキの出典だけに頼って書かれているというわけでもないようです。--頭痛(会話) 2012年9月9日 (日) 23:09 (UTC)
- (追記)「王は日本の中国侵略に反対している左翼の信奉者として知られていた」という件りは明らかに中立性に関わる文面ですので、もし同様のことが記事全体に見られるのであれば中立的な観点のテンプレートの使用を考えたほうがいいかもしれません。--頭痛(会話) 2012年9月9日 (日) 23:30 (UTC)
- 英語版と該当部分の参考文献(French, Paul (2009))をもとに、記事の修正を始めました。英語版の本文では参考文献に書かれている内容と書かれていない内容が混在しており、結果として訳出されない部分があったのではと推測します。次節「文献について」も参照。--五穀(会話) 2013年3月31日 (日) 13:55 (UTC)
- 私の調べた範囲では、参考文献には王がウィリアム・ランドルフ・ハーストの下で働いていたという記述は見当たりませんでした。王がハーストの会社を含む複数の新聞社に写真を提供していたことは、史実として知られているようです。
- 参考文献には、日本政府が王に50000ドルの懸賞金をかけたとの記述があります。他に同様の記述のある参考文献がありましたら、ぜひお教え下さい。--五穀(会話) 2013年3月30日 (土) 04:08 (UTC)
- 英語版と該当部分の参考文献(French, Paul (2009))をもとに、記事の修正を始めました。英語版の本文では参考文献に書かれている内容と書かれていない内容が混在しており、結果として訳出されない部分があったのではと推測します。次節「文献について」も参照。--五穀(会話) 2013年3月31日 (日) 13:55 (UTC)
全体がそうですが、ある人が「民族主義者」だの、ある人間の「主観」「主張」を事実のように断定表現で書いてしまったらPOVであり、現在そのようになってしまっています。誰がそのように主張したのか、という書き方への修正を求めます。一方で「捏造だという主張」というように一方の意見は「主張」という書き方がなされ、どちらが事実か不明な写真を一方が正しいような書き方がなされています。主張は主張として誰がそのように主張しているのか、主語をはっきりさせ、意見としての記載にすべきでしょう。異論なければ時間を見て修正して行きたいと思います。また、王小亭との重複も気になります。AcntNo2(会話) 2012年9月26日 (水) 13:06 (UTC)
- 写真を撮った本人が言ってる写真の公式見解と、他人(しかも証拠を捏造した人物)が言っていることを、「どっちが本当か分からない」かのように書くことこそ、中立性を侵害する行為でしょう。自由主義史観研究会が日本民族主義であるのも、自他ともに認める事実ですし。『日本のプロパガンダ扇動者の目的は、「写真が捏造だ」ということによって、日中戦争中の日本軍が犯した残虐行為に対しての欧米や中国がソースの報道の信用を落とさせることである』みたいな文章は引用元の研究者の意見とも言えますので、このような文章を書きかえるのには反対しませんが。--58.89.236.145 2012年9月29日 (土) 04:58 (UTC)
- 写真を撮った人の「主張」は「事実」になるのですか?あなたはある事件の裁判で当事者が「主張」したら、それが「事実」と信じる方なのでしょうか?そうではないでしょう。それぞれの証言があって検証があって、裏づけがあって事実となるのです。それがなければ当事者であろうが、それは意見や主張にすぎず、「事実」とはできませんよね。裏づけがない以上、それは、その人の意見や主張として記述してください。また、自由主義史観研究会が日本民族主義という事実の証拠を提出してください。それができなければそれは、彼らに反する意見の持ち主のレッテル貼りでしかありません。それを事実のような断定表現で書いてはなりませんよ。そもそもオーストラリア人の研究者を拝見するとかなり反日的な偏った方に見えますしね。そんな人の意見を中心に事実のように記述してしまうのは危険なことです
。修正なり訂正ができないのであればタグを消すことはお止めください。AcntNo2(会話) 2012年10月5日 (金) 13:46 (UTC)
- 対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。そのトピックについて異なる観点を記載する際には、その相対的な勢力差が適切なレベルで反映されるよう記述してください。同等であるとの誤った印象を与えたり、特定の視点を不適切に重点的に記述することを避けてください。例えば「地球の形状について、フェルディナンド・マゼランの調査では球体だとされ、ジョン・ハンプテンはわん曲した平面体だとしている」といった記述は、ある領域についての大多数の観点と極少数の観点を同等に伝えてしまっています。
「中立的な観点」から引用。多数の観点(原典、世界中のジャーナリズム)と少数の観点(日本の特定の人物(証拠を捏造して敗訴した人の主張))を区別して、きちんと少数の観点からも書いてあるので、「中立的な観点」の問題はないです。--東中野花道(会話) 2012年12月7日 (金) 09:46 (UTC)
- まず私が中立的観点で疑義を出していますので解決するまで勝手に合意なくタグを取らないこと。
- こちらの記事は対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。ことができておらず、多数派なのか少数派なのかわからない意見を事実として記述されているのです。あなたも仰るように意見を事実として書くには、その意見が多数派の意見でなければなりません。世に出ている見解の中、こちらの記事に出されているそれぞれの「見解・主張」が「多数派」である証拠を出してください、それができなければ、意見は意見として誰の意見なのかを示して記述してくださいと申しているのです。本文の一例を挙げれば「日本の民族主義者の何人かは、この写真を「演出写真だ」と言っている」と記述されていますが、演出写真と主張しているものは皆「日本の民族主義者」なのか?そうならばその証拠を出してほしい、それができないならば、ある人の意見として記述してください、ということです。偏った意見を事実として書いてはなりません、読者に誤解を与え、それはPOVと言います。
- では、本文に意見でなく事実として書かれているそれぞれの内容が多数派の意見であるという証拠の提出をお待ちしております。
- AcntNo2(会話) 2012年12月7日 (金) 12:47 (UTC)
Wikipediaに載っているだけでも、 写真の撮影者(中国人) 写真の出版社(アメリカ) 後日、アメリカの出版社 アメリカの芸術家 イギリスの歴史学者 オーストラリアの歴史学者 フランスの雑誌 と、世界中の人が支持していることが分かると思いますが。 アメリカもイギリスもフランスも当時は中立国ですし、戦後は日本の友好国です。 むしろ、あなたが ・日本の戦時中のプロパガンダ ・「日本の民族主義者」かつ「証拠を捏造している人物」 以外でこれを「演出写真だ」と主張している人がいるのなら、その名前をあげてください。 世界で何千万人もの人が見ているのに、主張しているのは日本一国のそれも限られた人のみ… 人はそれを「少数意見」と呼びます。--東中野花道(会話) 2012年12月8日 (土) 11:27 (UTC)
- 反論すればタグが取れるものではありません。中立的観点のタグは疑義が出されている間、解決するまで貼るものですので、相手を納得させることができない説明で、勝手に合意なく、はがし、隠してはなりません。
- さて、たとえば「日本の民族主義者」と言っている出典は、 “Manipulation of Documentary Photos in China: Fanning Flames of Hate in the USA”. Exploding the Myth:The Problem of Photographic "Evidence" (Photos from The Rape of Nanking). Association for Advancement of Unbiased View of History (1999年). しか出ておりません。「世界中の人が支持」している言葉なのでしょうか?その出典を提示ください。このように本文にある一つずつの言論が「ある人(ある出版社)の主張」なだけであり、事実として言い切れる多数派の意見という出典¥・証拠となっていないのです。それぞれの言説が多数派の意見である出典・証拠を提出してください。AcntNo2(会話) 2012年12月9日 (日) 07:47 (UTC)
- 写真が捏造であると言い方はあまり適切ではなく、むしろ写真の撮影にあたって演出があったと主張されている(例として、東中野修道を参照)、と考えるのがより正確だと私は考えています。中立的観点の件を解決するために、東中野花道さんがリストアップされた人物らによる主張を整理することを提案します。--五穀(会話) 2013年3月31日 (日) 15:07 (UTC)
- 写真の撮影者(中国人)-- 王は写真に演出があったかどうかという疑惑に関しては、何も満足には述べなかったそうです(French, Paul (2009), p. 193)。
- 写真の出版社(アメリカ)-- 1937年のライフ誌の初出では、この写真が演出である、もしくは演出でないという主張は(恐らく)ありません。
- 後日、アメリカの出版社 -- 1975年のライフ誌による特集のことと推測します。この写真に関する疑惑は根拠のないもの、と述べられています(Morris-Suzuki, Tessa (2005), p. 74の脚注)。
- アメリカの芸術家 -- アンディ・ウォーホルが写真の演出に関して述べた文献はありますか?
- イギリスの歴史学者 -- Paul Frenchのことでしょうか。王の写真では演出があった疑いがあると強調されています(French, Paul (2009), p. 192の下から4行目)。
- オーストラリアの歴史学者 -- Morris Lowは、写真が人々に真実と異なるものを見せた例として、王の写真について述べています(Low, Morris (2003), p117 上から14行目以降)。演出があった・なかったに関する直接的な見解は述べられていません。Tessa Morris-Suzukiは、(Morris-Suzuki, Tessa (2005))を見る限り、写真の演出があったかどうかに関しては何の見解も述べていません。
- フランスの雑誌 --
- 「捏造」と言えるかどうか判断つきませんが、ザ・バトル・オブ・チャイナ (このシーン)を見る限り、演出があることは容易に判断がつきます。Takabeg(会話) 2014年9月14日 (日) 11:30 (UTC)
文献について
[編集]本節において参照されているいくつかの文献について、内容の確認をしています。中立的観点の問題とも関連がありますので、著者のプロフィールを添えておきます。
- Morris Lowはオーストラリアの日本史学者で、文献(Low, Morris (2003))は歴史における写真の重要性について多角的に検討する、というテーマで出版されたエッセイ集の中の一編です。Lowによる寄稿文は、血の土曜日の写真の真贋について考察するものではなく、「真実を映し出すべき写真が見せた別の一面」の事例として、およそ半ページにわたって触れられています。1937年のジャパンタイムス誌の記事以上の情報はなさそうです。--五穀(会話) 2013年3月31日 (日) 13:55 (UTC)
- Paul Frenchはイギリスの著述家で、中国の現代史および現代社会を専門としています。文献(French, Paul (2009))では、ニュース映画が論争を生んだ例として本記事での写真、および関連する写真、映像が挙げられています。著者は、王の写真はプロパガンダ目的であったと断定し、結果として中華民国軍への指示と嫌日感情が高まりつつあった状況に水を差すこととなった、と述べています。
- Tessa Morris-Suzuki(テッサ・モリス=スズキ)はオーストラリアの日本学者で、北東アジア地域(日本、中国、韓国および北朝鮮)の研究を専門としています。文献(Morris-Suzuki, Tessa (2005))では、日本の歴史修正主義者、特に藤岡信勝の研究手法を批判する目的で、藤岡による王の写真に関する研究について述べられています。写真が捏造であるかについては、事実として論争があるとして両論を併記するに留まっています。--五穀(会話) 2013年3月31日 (日) 02:05 (UTC)
宣伝戦の一つです。
[編集]国民党中央宣伝部の副部長、董顕光(とうけんこう)は、この写真について「董顕光自伝」(1973)において次のように回想している。 「上海の戦況は次第に悪くなり、我々の宣伝活動は次第に上海から南京に移った。・・・私は蕭同茲(しょうどうじ)との合作で中央通信社内に非常に能率的な撮影班を設置することができた。この撮影班のスタッフは活動開始時はたった一人で、ニュース撮影が専門のプロの王小亭だけだった。彼の撮影した若干のニュース写真が全世界の新聞にあまねく採用されたことがある。特に上海戦のとき、爆撃された鉄道のレールの上に座って一人の孤児が泣いている写真は、日中戦争時に同業者からもっとも褒められた傑作であった。 以上、東中野修道「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」P29 より なぜこの写真が「戦時宣伝写真であるのか」詳しくは上記著作に書かれています。草思社 ¥1400
- おっしゃる通り宣伝 (プロパガンダ)です。ただ、上のメッセージもちょっと本の宣伝ぽいですね:) Takabeg(会話) 2014年9月14日 (日) 11:32 (UTC)
Bloody Saturdayというタイトルについて
[編集]本来"Bloody Saturday" (「血の土曜日」)というのは8月14日の上海租界爆撃のことを指し (google booksで 「"Bloody Saturday" Shanghai "14 August"」 と 「"Bloody Saturday" Shanghai "28 August"」 とを検索していただくとわかると思います)、中国空軍機による爆撃です。Flying Magazineの1941年8月号の第46頁には、Then the Japanese came. Fighting in, around and over Shanghai started on Friday, August 13, 1937. "The Japanese began invading the international settlement," Allison recalls. "Japanese aircraft began bombing Chinese positions Aerial activity on the first day of the fighting at Shanghai was partly restricted by a typhoon, but Chinese pilots managed to get into the air. The following day was known nationally later as 'Bloody Saturday.' Two bombs were accidentally dropped at two main Shanghai intersections, killing or crippling 2,000 persons. A few minutes previously other bombs had struck the Palace and Cathay hotels, killing and injuring a large number of people.とあります。冒頭が中国贔屓なのには目をつぶっていただいて、肝心な箇所はThe following day was known nationally later as 'Bloody Saturday.'という部分です。つまり「血の土曜日」として知られるようになったのは8月14日です。2013年に出版されたのPeter Harmsenさんの Shanghai 1937: Stalingrad on the Yangtze (上海1937: 揚子江のスターリングラード) の47頁にある記述でも、48頁から49頁の間にある写真アルバムにある租界爆撃の写真のキャプションでも、8月14日の爆撃が「血の土曜日」と呼ばれているとされています。一方、この写真は8月28日 (この日も土曜日ではありますが)の日本海軍機による上海南駅爆撃の後に撮影されたものです。それでは、いつから、この写真の名前が「血の土曜日」となったのでしょうか?LIFE (1937年10月4日)の"The Camera Overseas: 136,000,000 People See This Picture of Shanghai's South Station".でも、LIFE (1942年11月9日)のPICTURES TO THE EDITORS (continued) CHINESE WAIFでも「血の土曜日」とは言われていないようです。ウィキぺディアの創作だったら気分が悪いですが、ご存じの方いらっしゃったら、ご教示下さい。Takabeg(会話) 2014年9月22日 (月) 14:19 (UTC)
改名提案
[編集]血の土曜日 -> 上海南駅の赤ん坊と改名したうえで血の土曜日を第二次上海事変#国民党軍機による上海空爆にリダイレクトすることを提案します (中華民国側による上海爆撃はこの日 (8月14日)に限ったことではありませんが、現時点では"国民党軍機による8月14日の爆撃"という項目がないので)。一つ上のメッセージでも触れたように、この写真の本来のタイトルは「血の土曜日」ではありません。もちろんBloody Saturdayでもありません。新藤健一さんの『疑惑のアングル: 写真の嘘と真実、そして戦争』、井上祐子さんの『戦時グラフ雑誌の宣伝戦: 十五年戦争下の「日本」イメージ』、白山眞理さんと堀宜雄さんの『名取洋之助と日本工房1931‐45』などを見てみた結果、「上海南駅の赤ん坊」(の写真)が適切だと考えるに至りました。Takabeg(会話) 2014年9月22日 (月) 23:32 (UTC)
- 全く反応はありませんでしたが、「血の土曜日」というタイトルにソースをつけるのが不可能であるため改名します。Takabeg(会話) 2014年9月30日 (火) 05:51 (UTC)
ソースとして表示されているリンクについて
[編集]FILM; A Dragon Lady and a Quiet Cultural Warrior (現時点では第11番のソース)は、どの文章のためのソースなのでしょうか?Takabeg(会話) 2014年9月30日 (火) 10:38 (UTC)
中立でない原因
[編集]NPOV化に努めているのですが、中立でない原因は、おそらく反響の捏造だという主張という部分にあるのではないかと思います。皆様は、いかがでお考えでしょうか?この部分で多用されているテッサ・モリス=スズキさんの本はハワイ大のサイトにあります。それで記事で提示されている72頁から75頁までを読んで確認したのですが、東中野修道さんの「ひ」の字も出てこないんですね。利用者:58.89.236.92さんがソースをあまりにも酷くPOV-pushingに使っているのがわかります。時間があるときに修正する予定です。Takabeg(会話) 2014年10月1日 (水) 12:50 (UTC)
著しい重複
[編集]王小亭記事の「中國娃娃」についての部分がこの記事の取扱っている話題と著しく重複しているようです。この記事が立項されたのが2012年9月8日ですから、58.89.236.92さん (偏向編集や副題の立て方に特徴のある利用者)が、王小亭では受け入れられなかった中立でない文章を何としてでもウィキペディアに掲載したくて立項したのかもしれません。本来であれば、王小亭記事の「中國娃娃」についての部分をここに移すべきでしょう。また、「1938年、王は蘇州戦線や広東爆撃等を撮影した。日本により生命の危険に晒され、イギリス当局の庇護を受け、しばらく後家族とともに香港に避難した」という文章は王小亭記事にあったほうがいいような気がします。Takabeg(会話) 2014年10月2日 (木) 02:35 (UTC)
観点タグ
[編集]@利用者:AcntNo2さんは、この編集で{{観点}}を追加されているようです。タグを付ける直前の版がWikipedia:中立的な観点に抵触しているという点には私も賛成いたしますし、それを強引に外そうとした58.89.236.61 (これも)、210.188.27.157、東中野花道(現たんたんたぬき) (これもこれも)の各氏の行為は荒らしに該当します。そこで記事を中立化するべく努めてみたのですが、現在の版は、Wikipedia:中立的な観点に抵触していますでしょうか?検討・確認の上、不要であると判断した場合、タグを外してください。まだ{{観点}}が必要とお考えでしたら、具体的に問題点をご指摘ください。Takabeg(会話) 2014年10月4日 (土) 07:37 (UTC)
- 58.89.236.92さんが内容も表題も間違えだらけの英語版を盲信して翻訳してしまった結果、{{中立的な観点}}タグ添付となってしまっているのですが、利用者:AcntNo2さんが登場する気配はありませんので、プロジェクト:歴史、プロジェクト:中国、プロジェクト:太平洋戦争 (ちょっと違うかも)のメンバーの方々、それとコモンズでの活動から支那事変に詳しいことが予想できる利用者:遼東半島や利用者:あばさーさんなどの検証をお待ちしております。大丈夫だと判断されたら、{{中立的な観点}}タグを外してください。なお、58.89.236.92さんおよびその同一人物の方々には、タグ外しの判断はご遠慮いただきたく存じます。Takabeg(会話) 2015年12月8日 (火) 11:16 (UTC)
王小亭個人の経歴などは王小亭記事へ
[編集]王小亭個人の経歴(晩年や没年、栄典など)などはこの写真と直接の関係もなく、王小亭記事へ移動する方が適切です。すでに転載はしていますが、この記事に残す必要性もないので削除の提案です。
削除対象
「王は台北で1970年に隠居生活を経て、1981年の3月9日に糖尿病で死亡した[脚注]。」
「栄典:2010年、アジアアメリカジャーナリスト協会は、王小亭を映像ジャーナリストの先駆けとして表彰した[脚注]。」 の二つです。--さんぽーる(会話) 2015年12月24日 (木) 15:17 (UTC)