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ノート:一揆

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メモ

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ウィキペディア内の一揆関連記事の抜粋

新本義民騒動

加賀一向一揆

ミュンヒェン一揆クーデター) 1923年:ヒットラーミュンヘン一揆(失敗におわるが、後に合法的に政権奪取)

ヒットラー
1923年11月9日(一部に8日)党勢を拡大したナチ党はミュンヒェンで政権獲得を目指してクーデターを起こす。これは前年にイタリアのファシスト党が行ったローマ進軍をまねて行われたものだったが、警察・軍隊いずれの協力も得られず、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヒェン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、ナチ党も非合法化される。逮捕の後禁錮5年の判決を受けランツベルク刑務所に収容されるが、所内では特別待遇であり、この期間に秘書ルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。禁錮5年を宣告されたにもかかわらず、1924年12月20日には釈放され、翌1925年2月27日にはナチ党を合法政党として再出発させた。

一向一揆

9月21日 (旧暦)世直し一揆) 文久3年(1863年_月_日) - 三河国加茂郡の農民が物価引下げを求めて一揆。初の「世直し一揆」

徳川光圀 財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子である綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する

盛岡藩 盛岡藩での一揆は記録にあるものだけでも133回で、次点の久保田藩(秋田藩)の87回を大きく上回り、江戸時代では全国一一揆の多い藩であった。

宮古市
江戸時代末期には、東北地方最大の一揆「三閉伊一揆」が勃発する。これは、盛岡藩が犯した失政のツケを、宮古を含む「閉伊地方」に対し重税を課して住民から搾取しようとしたことが直接の原因であり、話の流れ自体は平凡な一揆であったが、この場合問題なのは規模であった。1847年、圧制に耐えかねた一揆団は、1万数千人という他に例を見ないほどの人数で城下に押しかけ、藩側に要求を呑ませたのである。(藩側はのちにこの要求も破り、さらなる人数での一揆へと発展する)

朝鮮の歴史 1811年、洪景来の乱(地方差別に反発した一揆)。 李氏朝鮮 1811年、洪景来の乱(地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。

本願寺 長享2年1488年 一揆は加賀において共和国「百姓のもちたる国」を樹立。--以上の署名のないコメントは、赤鉛筆会話投稿記録)さんが 2004年6月28日 (月) 06:33 (UTC) に投稿したものです(Kitimi会話)による付記)。[返信]

一揆=武装蜂起?

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本文では、一揆について
> ・・・特定地域の支配層に対する共同体の「武装勢力の蜂起」・・・
と説明してますが、果たしてそうかなあ?実際の事例を見てみると、一揆っていうのは、弱い立場の人たち(百姓とか)が、自分たちの正当な権利を主張するために、一挙団結して支配階層へ要求活動をしていくことであって、武装蜂起なんて、どうにもなんない時の最終手段だったように思われるわけですよ。もし支配者側に理解ある人格者がいた場合は、無事に百姓たちの要求が認められた、という平和的な一揆も多数あった訳ですし。ついでに言っちゃうと、近年では唯物史観からではない別の視点からの一揆の再評価が行われてるのに、そうした記述も本文にはないですね・・・。ということで、ホントは自分が書き換えてしまいたいとこなんですが、とてもそんな力量はないので、取り敢えず提起だけさして頂きます。要するに「どなたか書き換えてみませんか?」という他人任せなお願いです・・・。shimoxx 2005年8月1日 (月) 14:06 (UTC)[返信]

軽く手を入れておきますけど、あくまでも心をひとつにする儀式によって同名、連合を組むことによって何らかの目的を達成しようとする組織化が一揆であって、戦国時代なんて下は民衆から上は大名クラスの領主まで、ほとんど全ての階層が自らの属する集団の利益保護のために一揆契約を結んでおり、正に社会そのものが一揆で組織化されていたんですね。中世は自検断の時代ですから、どの階層も武装して共同体内に軍事警察力を持っていますから、武装しているのは当然なんで、蜂起どころかそれこそが中世末期、戦国時代の社会秩序といっても過言ではないわけですね。--ウミユスリカ 2005年8月10日 (水) 23:48 (UTC)[返信]
早速加筆なさったようですので、拝読しましたが、素晴らしい!日本史分野は(私の執筆も含めて)俗説的・一面的な項目が多いので、ウミユスリカさんのように正確で多面的な記述が今後ますます必要不可欠だと痛感します。ウミユスリカさんには、心より篤く御礼申し上げます。shimoxx 2005年8月13日 (土) 02:08 (UTC)[返信]
本業が生態学の研究なもので、歴史学に関してはそれほど自分として満足できる量の執筆に必要な資料を持っていないのが実情です。特に日本の歴史は同時代的にも現実と建前の乖離が著しいものが多く、それを解きほぐした良質の研究論文や、それを基にした一般向け書籍、執筆時に人を納得させるために引用するための一次資料の掘り起しが素人には非常に負担の多い作業となります。この一揆の項目も、既に執筆された個々の小見出しを定義部分の本文と整合性を付けながら書き直すのがかなり厄介な仕事になりそうですね。できたら歴史学の専門家、特に大学院生やポスドククラスの若手研究者の参加を期待したいところです。でも、かえって自分の専門分野だと、万全の資料を整えてミスのないような執筆をしようとプレッシャーがかかって、なかなか手がつけられないというのも、自らを振り返ってみても現実の姿なんだろうとは思います。--ウミユスリカ 2005年8月13日 (土) 04:13 (UTC)[返信]

2005年10月19日 (水) 23:58 61.205.3.57による感想文

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05年10月20日未明に再放送していたNHK高校講座「日本史」で、江戸時代の一揆と打ちこわしを取り上げていましたが、まさに本文と合致する内容でしたので、何らかの参考になれ名と思い投稿します。 百姓一揆という語感から、飢饉などにより自暴自棄になった百姓(小作人)達の「無秩序な暴動」というイメージを持っていましたが、その再考を迫る内容でした。すなわち、誓約書を書き、高札を挙げて放火・盗みを厳禁する秩序だった行動であり、藩の首脳部に首謀者がもてなされたり、都市部においては暴利をむさぼった商人への見せしめが行われていたり、と私の旧来のイメージを大きく覆すものでした。西浦 mfkx84356@maia/eonet.ne/jp

上記百科事典に不要のためノートに移動。Izayohi 2005年10月20日 (木) 01:24 (UTC)[返信]

百姓一揆の英訳など

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ワット・タイラーの乱もPeasants' Revoltと表現されるのですが、実際は、農奴(serf、Peasant)だけでなく上のクラス(自営業者、自営農)の参加も多かったようです。それと江戸時代の農民は移動・職業の自由がないから全てserfだという考えもあります。少なくとも西欧の自由民である自営農民farmerとも呼べないわけです。

元々、反乱や運動を1つの階級に制限するのは無理な話で、peasant uprisingやrevolt は妥当な訳だと思います。また、Revoltは反抗するという意味で必ずしも暴力を伴わなくとも良いため、この点でも一揆の訳語としては悪くないと思います(ワット・タイラーの乱もリチャード2世への直接要求が主目的という点で強訴に近い)。本来の一揆の意味としてleague等を使うと事件という意味が出てこなくなります。

それと前文少し長すぎますよね。 Zorac 2005年10月22日 (土) 09:31 (UTC)[返信]

英語ネイティブとして上記に賛成です。因みに、uprisingも必ずしも暴力を伴うものではないですが、revoltより武力行使のニュアンスが強いかもしれません。本記事には「現実には peasant の意味する零細な小作人だけによるものではなく、むしろ村落の指導的な立場に立つ裕福な本百姓らによって指導されており」とありますが、Zoracさんが上で記載しているように、上のクラス(自営業者、自営農)の参加も多かったワット・タイラーの乱もpeasants' revoltと表現されます。peasantが相応しくないと主張するのは考えすぎているせいだと思いますが、代わりにpopular revoltにすればこの問題がなくなります。
この英訳に関する段落は誰かの自己主張に聞こえるので、だれか日本語ネイティブの方、もうちょっと中立的にまとめてくれないでしょうか。--219.162.47.103 2009年9月15日 (火) 04:35 (UTC)[返信]

前文長すぎ

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前文を「解説」という節にし、目次の後に入れたいと思います。 Zorac 2005年10月29日 (土) 05:21 (UTC)[返信]

読みやすい形態への編集提言ありがとうございます。前文、定義部分が異様に長くなってしまったのは、初期の記述が古典的(かなり時代遅れの)一揆観に基づくものでしたので、そういう一揆観と歴史学上明らかになってきた一揆像の統合をはかる前に、そう時代遅れにはなっていないであろう歴史学的一揆像について、とりあえず加筆をはかったものでした。ですから、まだ冒頭前文と末尾の部分の一揆像にかなりの齟齬が認められると思います。統合については時間をかけながらぼちぼち取り組んでいこうと考えています。--ウミユスリカ 2005年10月29日 (土) 11:40 (UTC)[返信]
私が提案しているのは定義より後の部分を「解説」という項目にして目次の後に移動したいということです。ウミユスリカさんがこれに反対されているのかどうか文章からは分からなかったのですが、いったん解説に移してから「ぼちぼち取り組んで」いかれたらどうかと思います。移動しようと提案したのは、長いというだけでなく、この部分が百科事典の記述というより「論」になっているせいもあります。
百科事典というのは基本的には定説を書くもので、異説、新説や従来は「こう思われがちだが、実はそうでない」といった論は後に持ってくるものだと思います。また、内容的にも上記で指摘した英訳の話や「正に一揆こそが社会秩序」「戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ね」等には疑問を感じています。 Zorac 2005年11月1日 (火) 12:48 (UTC)[返信]
とりあえず、可読性を上げるために定義部分を「概要」という節に分けました。「概要」という名称は余り深く考えずにつけましたので、もっと相応しい名称があれば、適宜ご変更頂ければと思います。
あと、現在の記述内容ですけれども、(英訳の件は判りませんが、)中世史学で概ね定着していると言って良い一揆論が記述されていると思いました。どうでしょうか。--しもー(shimoxx) 2005年11月2日 (水) 15:44 (UTC)[返信]
私も内容は概ね良いと思っています。問題としているのは「一揆論」であるということと、いくつかの点で疑問があるということだけです。 Zorac 2005年11月3日 (木) 05:29 (UTC)[返信]

目次の後ろに移動することに関しては異議はありません。
英訳の件ですが、最大の問題点は、一揆というものが被支配者が支配者に対抗するためのものだけではなく、支配者が被支配者を押さえ込むための一揆も一般的だったことです。そのため、日本の歴史上の一揆は世界の様々な対支配者抵抗運動の訳語として用いるのは余り相性がよくないのです。それにもかかわらず一揆を訳語に用いているケースが間々見られるのは、階級闘争を歴史を動かす主要因として極端に重視した時代に、一揆の対支配者抵抗運動の側面だけを偏って取り上げたために、日本史に対する知識の乏しい西洋史、あるいは東洋史学者がそうしたバイアスを鵜呑みにして訳語を当ててしまったためではないかと疑っています。そうすると、そうした歴史学史的記述が必要になるわけですが、私は専門分野が生物学であるため、比較的新しい論文や歴史書は集めていても、階級闘争史観全盛期の論文を収集して検討するほどのゆとりも財力もありません。ですから、私の書いた部分は一種の「呼び水」として考えていまして、歴史学史的にしっかりした記述はリアルタイムで階級闘争史観全盛期を肌で感じておられた方、あるいは若い世代ではあっても歴史学史自体に詳しい方の記述を期待しているところです。
さて、「正に一揆こそが社会秩序」「戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ね」といった部分ですが、私が受験を終えて心置きなく(受験に関係ない)専門性の高い歴史書を漁り始めた20年ほど前にはこうした視点は既に中世史研究者の間では常識になっていたと認識しています。こうした日本中世史研究者の一揆観は、最近の一般向けの歴史書ですと、久留島典子氏著の『一揆と戦国大名』(講談社, 2001年)がよくまとまっていると思いますので、是非ご一読をお勧めします。
実は当時、中世の日本史に関する歴史書を読み始めて一番戸惑ったのが、一揆に関する記述だったのです。こちらとしては被支配民の抵抗運動としての一揆しかイメージがないのに、何の説明もなくそうではない一揆が目白押しなんですから。実際、最初のうちは何を書いているのか混乱して全く理解できないという境地に負いこまれました。やがて、日本史の研究者が指している一揆、即ち一揆がリアルタイムで社会を動かしていた時代に一揆とは何かと認識されていた実像を知り、それに基いて頭の中を全面的に切りかえることで、ようやく中世史の歴史書がすらすら読めるようになったのです。
つまり、一揆という言葉に関しては世間に流布しているイメージと、日本史の専門家が認識しているイメージにあまりにも激しいギャップがあるのですね。ですから、私が記述したものは既に学問的には「定説」であるが、世間(非日本史歴史学研究者を含めて)のとらえる「一揆観」とは非常にギャップがあるものであると認識しています。日本中世史のここ20年来の歴史書を読んでいない方にとっての一揆とは、恐らく戦後の左翼団体が敵対左翼グループの運動を「一揆的」と揶揄したような、追い詰められた民衆が将来の見通しもなく暴発する暴動でしかないでしょう。
ですから私の経験上、このギャップをあらかじめ頭にいれておかないと、日本中世の「一揆」という現象の記述は読者に著しい混乱を引き起こして読解を妨げる恐れがある。そのため、このギャップを埋めるための解説、つまりZoracさんのおっしゃる「一揆論」つまりは最初の方にあるべきと考えたわけです。--ウミユスリカ 2005年11月7日 (月) 00:39 (UTC)[返信]

だから長いって。ウミユスリカさん。。。^_^;
もう少し短めにして、論ずるのではなく、説明するようにすればが良いと私は思いますが。IMHO
「支配者が被支配者を押さえ込むための一揆も一般的だったことです。」→本文からは、これは読み取れませんでした。そこまで、一揆の幅を広げるのであれば、「正に一揆こそが社会秩序」「戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ね」はうなずけます。しかし、支配に対抗する一揆と支配の一環として利用される一揆は分けて説明すべきだろうと思います。私の感覚では、室町時代に縦の支配が弱まったことに対応した横の連携が一揆で、再び縦の支配の強化を計った戦国大名の支配に抵抗しながら組み込まれていったというもので、織田信長は一揆を叩き壊すことで支配しようとしたが、大部分の大名は名を残して骨抜きにしながら支配を強化したという感じです。
とにかく今回は目次の後に入れたいと提案しただけですので、しもーさんが、既にやられたのでOKです。内容についてはいずれまた。 Zorac 2005年11月8日 (火) 13:41 (UTC)[返信]