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ノート:ヴェステルボルク通過収容所

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記事名は「通過収容所」と「強制収容所」、どちらが良いか

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(今までの経過)私がこの記事の執筆者であるOmaemona1982さんに「通過収容所」はドイツ語の"Durchgangslager"からの直訳であり、英語版と同じ「強制収容所」の方が良いのではないかと提案した所、私の会話ページにお返事を頂きました。記事のノートで議論した方が良いのではないかという共通の見解から、ここに書きこみます。

  • 現時点でのGoogle検索結果: 「"ヴェステルボルク通過収容所" -wiki」は26件[1]。「"ヴェステルボルク強制収容所" -wiki」は2件[2]
  • 他言語での記事名: 13ヶ国語の内、カタロニア語版、英語版、ポルトガル語版、ロシア語版の4つで「ヴェステルボルク強制収容所」。ドイツ語版と日本語版の2つで「ヴェステルボルク通過収容所」。オランダ語版は「ヴェステルボルク収容所」。他の7ヶ国語では単に「ヴェステルボルク」とされている。(ヘブライ語の記事は1単語である事から推測した)
  • 私の意見: ヴェステルボルクが通過収容所であることは間違いないが、「通過収容所」という単語は強制収容所 (ナチス)#強制収容所の種類によると強制収容所の一種を指す用語で、分類上上位に位置する「強制収容所」の方が判りやすい。通過収容所であるという事実は英語版やオランダ語版などと同じく、記事内で説明すれば良いと思う。でも絶対に「強制収容所」でなければいけないとは思わないし、単にどっちが良いか意見を募りたいだけです。--Aratoda 2010年3月29日 (月) 23:57 (UTC)[返信]

Aratoda様、提案のノートへの移動ありがとうございました。さて本題なんですが、メリッサ・ミュラー著・畔上司訳「アンネの伝記」(文藝春秋)にヴェステルボルクは「警察通過収容所」であるという記述があります。de:Durchgangslager Westerbork(ドイツ語版のヴェステルボルク通過収容所の記事)やde:Durchgangslager Bozen(ドイツ語版のボーツェン通過収容所の記事)のようにドイツ語版の記事にもPolizei-DurchgangslagerとかPolizeiliche Judendurchgangslagerという表現がでてきます。このことから私の私見としては通過収容所とはゲシュタポ(警察)の管轄だったのではないかと思います。一方、一般の強制容所は親衛隊経済管理本部D局の管轄ですから、ゲシュタポの管轄ではありません。このことはハインツ・ヘーネ著「髑髏の結社 SSの歴史」はじめ諸書に明らかです。つまり強制収容所(Konzentrationslager)と通過収容所(Durchgangslager)は監督部署が違うために別物として区分されていたが、戦後区別があいまいになったのではと思っていますが、どうでしょうか。ナチスの強制収容所に詳しい方の参加をお待ちしています。--Omaemona1982 2010年3月31日 (水) 08:45 (UTC)[返信]

私はナチスの組織体制はよく知らないので、強制収容所と通過収容所が別の管轄だったかどうかについては何とも言えません。ただオランダ語版にはヴェステルボルクの司令官の記事があり、彼は1940年11月1日にSSの一員になったと書かれています。ヴェステルボルク収容所は1942年7月1日からドイツ軍の支配下になり、同年10月から1945年4月まで上記の司令官が職務にあたっていたそうです。--Aratoda 2010年3月31日 (水) 11:17 (UTC)[返信]
気になったので調べてみました。「一般の強制収容所は親衛隊経済管理本部D局の管轄です」との事ですが、親衛隊経済管理本部の設立は1942年で、それ以前から親衛隊管理下の強制収容所はあったようです。それはともかく、Polizei-DurchgangslagerはSSの一部分である国家保安本部が設置した保安警察及びSD司令官(BdS)の管轄下に置かれ、所長はSSの将校が務めていたようです。以下は見つけた英語の情報です。Kamp Westerbork,Durchgangslager Fossoli,Durchgangslager Amersfoort
保安警察(SiPo)、SDゲシュタポ等の関係についてもざっと目を通してみました。組織体制がコロコロ変わったらしく、最初はちんぷんかんぶんでしたが、やっとわかりました。SDとゲシュタポの違いは?(英語)
結論としては、4つのDurchgangslager (Amersfoort, Bozen, Fossoli, Westerbork)の運営時期は、1939年の国家保安本部設立後なので、国家保安本部の第IV~VI局による管轄だったと思われます。しかし元は国家機関だったゲシュタポが党機関に組み込まれた後ですので、SSの主導であったという事に関しては、強制収容所と通過収容所は同じだと思います。--Aratoda 2010年4月1日 (木) 00:29 (UTC)[返信]


おお!!色々調べていただいてありがとうございます。色々疑問が氷解しました。メリッサ・ミュラー著・畔上司訳「アンネの伝記」(文藝春秋)に1942年7月に「ユダヤ人難民の中央収容所」が「警察通過収容所」になった、とかドイツ人が司令官になったという記述があったので何だろうと思っていたのですが、たぶんこれはオランダ時代からあったヴェステルボルクの「ユダヤ人難民の中央収容所」は占領後もそのままオランダ行政機関の管轄に残されて同じ名称で同じように運営されていたが、1942年7月1日に親衛隊の管轄に入って「警察通過収容所」(Polizei-Durchgangslager)に分類されたということだったのではないでしょうか。

ラウル・ヒルバーグ著「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻」によると戦争勃発前のドイツの強制収容所は強制収容所総監(テオドール・アイケ)が一元的に支配していたが、戦争勃発後、ドイツ占領地に親衛隊及び警察高級指導者が独自に強制収容所を建てたそうです。そのせいで強制収容所の中央集権システムが崩れてしまったので、それを仕切りなおして中央集権化するために、1942年6月、それ以前から強制収容所の運営に大きな影響力があったオズヴァルト・ポールの管理及び経済本部と予算及び建設本部が合同して親衛隊経済管理本部が新設され、強制収容所監督庁は廃されて親衛隊経済管理本部D局に再編成されたとのことです。

しかし同書によるとヴェステルボルクは親衛隊経済管理本部の管轄には入らず親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウターが管轄したとのことです(通過収容所は保安警察及びSD司令官の管轄下とする上記サイトと反しているようだが、保安警察及びSD司令官は原則として親衛隊及び警察指導者より下位者で国家保安本部からも親衛隊及び警察指導者からも指令を受けたので矛盾はないと思われる)。一方オランダ南部フュフトのヘルツォーゲンブッシュ強制収容所de:KZ Herzogenbusch)はヴェステルボルクへ移送するための拠点だったそうですが、こちらは親衛隊経済管理本部の管轄だったそうです。ドイツ語版はヴェステルボルクは通過収容所(Durchgangslager)にしていますが、ヘルツォーゲンブッシュについては強制収容所(KZ=Konzentrationslager)でタイトルを付けています。親衛隊経済管理本部が誕生した後(1942年6月以降)は親衛隊経済管理本部の管轄にあることが強制収容所(Konzentrationslager)であることの条件になっていたのかな、という私見がどうにも捨てきれません。もしそうだとすると通過収容所は親衛隊基準では厳密には強制収容所の一種ではなかったことになりますし。

ただそもそもSS運営であるのは確定だからどっちでも同じと言われてしまえば確かに同じですし、実際、英語版やオランダ語版はヴェステルボルクもヘルツォーゲンブッシュ(フュフト)を区別をつけずに「concentration camp」、「Kamp」と表現していますし、日本語版も「強制収容所」で統一すればいいような気もします。別に絶対に「通過収容所」にこだわるつもりはないのですが、ただナチス・ドイツでは秩序警察(一般警察)さえも親衛隊の一部局です(親衛隊秩序警察本部)。親衛隊の管理下にある抑留施設のような物を全部「強制収容所」としていくと、しまいには一般の警察拘置施設や刑務所さえ「強制収容所」になってしまわないかなと。まあ親衛隊は刑事犯も強制収容所に入れることがあったようですが。あと少し思ったのですが、「ヴェステルボルク収容所」でもいいかもしれません。ヴェステルボルクはオランダの収容所としても使われていたようですのでそのこともこの項目で一緒に扱うとなれば「ヴェステルボルク通過収容所」というドイツ占領時代限定の収容所名では問題があると思いますし。--Omaemona1982 2010年4月1日 (木) 05:03 (UTC)[返信]

親衛隊及び警察高級指導者ハンス・ラウター等の記事を読んでみました(それでヒムラーに辿り着いた)。ラウターはオランダの親衛隊及び警察の最高責任者だったが、ヴェステルボルク収容所とアメルスフォールト収容所を直接指揮し、運営責任があったのは同じデンハーグにあった彼の配下の国家保安本部に属するBdS(Sipo+SD。なおSiPo=Klipo+Gestapo)だというのが私の結論です。
Kamp Vught(ヘルツォーゲンブッシュ強制収容所)に関してはオランダ語の記事に「ドイツ国外でSSが直接管理した唯一の強制収容所」との説明があることからも、親衛隊経済管理本部の管轄であった事は明らかですが、「ヴェステルボルクへ移送するための拠点」ではありませんでした。ヘルツォーゲンブッシュ強制収容所はナチスが「モデルキャンプ」として設立したもので、1943年には31000人が収容されており、735人(オランダ語版記事より)が終戦までに命を落としたそうです。43年にアメルスフォールト収容所の収容者はKamp Vuchtに移動しました。ナチスは連合軍が迫った時にKamp Vuchtから収容者をさらに別の所に移動したため(この時点でヴェステルボルクに移動された可能性はある)、解放されたときはほぼ誰もいなかったと英語版には書いてあります。
ヴェステルボルク通過収容所の記事の一番最初の文に「ナチス・ドイツがオランダ北東部にあるホーフハーレン(nl:Hooghalen)に置いていた強制収容所。」と書かれていますので、記事名も強制収容所にした方が良いのかなとも思いますが、オランダ語の記事にならってただ単に「収容所」とするのも一つのアイディアかと。でも自主的に収容所に入った人は居ないと思うので、「強制」されたのは事実ではないでしょうか。秩序警察に収容所を運営したとの記述はありませんし、一般の警察拘置施設や刑務所さえ「強制収容所」になってしまわないかというのは杞憂だと思いますよ。
参照:"BdS Den Haag",ヴェステルボルクの司令官、Gemmekerについてのオランダ語の記事。(彼は1940年8月、Den HaagのBdSにPersonalreferent(人事責任者)として着任したとの記述がある)ナチス収容所についての詳しい記事(オランダ語)ここにもBdS Den Haagとある。オランダ国内には7ヶ所の収容所があったとしている。--Aratoda 2010年4月1日 (木) 15:05 (UTC)[返信]

ヘルツォーゲンブッシュ(フュフト)はヴェステルボルクへ移送するための拠点だったわけではないというご指摘を受けましたが、ここにはちょっと疑問があります。先にあげましたラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』447ページには「オランダ南部のフュフトと北部のヴェステルボルクの二つの収容所が、移送機構の正規の施設になった。フュフトは帝国弁務官により建てられていたが、1943年1月、親衛隊経済管理本部に引き継がれ、クミュレフスキSS大尉の司令下に置かれた。彼は、以前にグーセンのマウトハウゼン複合収容所で経験を積んでいた。すでにドイツの侵攻前にオランダ政府が難民収容所として建てていたヴェステルボルクは、上級親衛隊・警察指導者ラウターの管轄に入った。この収容所の司令官は、1942年9月まではデップナーSS少佐で、その後、ディシュナーSS中尉によって短期間、管理され、最後は1942年末から1944年までゲメッカーSS中尉が引き継いだ。警官不足のために、収容所の監視を担当したのは、オランダ親衛隊保安大隊北西部(オランダ国内の勤務に同意していた志願者の集団)の人員であった。(略)ヴェステルボルクは、ポーランド占領地域に向けて列車が送りだされる第一の収容所であった。その結果、フュフトの移送者(直接アウシュヴィッツへ向かった二度の輸送を除いては)は、ヴェステルボルクを通って東部に向かった。」とあります。やはりフュフトの収容者は基本ヴェステルボルクへ送られ、さらにそこから東部の収容所行きだったのではないでしょうか。--Omaemona1982 2010年4月2日 (金) 00:32 (UTC)[返信]

また色々調べてみました。Kamp Vught(「フフト」の方が近い)は、英語版の記事にも書いてある通り、アメルスフォールトとヴェステルボルクが手狭になったため建設されたそうです。Kamp Vughtのおよそ31000人の収容者の内、ユダヤ人は12000人で、残りは政治犯、レジスタンス、エホバの証人、浮浪者、同性愛者、ジプシー、犯罪者等でした。
ユダヤ人(と多分ジプシー)は、仰る通り大部分がヴェステルボルク経由で絶滅収容所送りにされたそうです。ですので私の「ヴェステルボルクへ移送するための拠点ではなかった」という文は誤りです。しかし、「フュフトの収容者は基本ヴェステルボルクへ送られ、さらにそこから東部の収容所行きだった」というのも正しくありません。ユダヤ人以外の収容者達は、解放直前までフフトにいて、直接ザクセンハウゼン強制収容所(男性)とラーフェンスブリュック強制収容所(女性)に移動されたそうです。
実は今晩フフトで友達の誕生日パーティーがあるんですが、Nationaal Monument Kamp Vughtはあと一時間で閉まっちゃうので行けません。以前一度訪問したんですが、また近い内に行ってみようかと思います。--Aratoda 2010年4月2日 (金) 14:11 (UTC)[返信]