ノート:ルイ=ガブリエル・スーシェ
百日天下の際、ネイがナポレオンにつくようにスーシェを誘ったという事実は、国立公文書館の資料、もしくはネイ裁判の記録からは確認できないようです。<カーネリアン>
戦術指揮能力について
[編集]スーシェは確かに優れた戦術家ですが、ダヴー・マッセナと比べると一段劣ると評されています。彼らと同等の扱いをするのは誇張し過ぎではないでしょうか? ラサール(会話) 2020年3月3日 (火) 02:16 (UTC)
組織の管理、統率について
[編集]これらに関しては、彼と同等、もしくはそれ以上の手腕を発揮した同僚が他にも複数いると思います。 ラサール(会話) 2020年3月3日 (火) 02:52 (UTC)
誇張の疑いのある記述について
[編集]ピエール・デュポン (軍人)の出典に用いた『ナポレオン年代記』 日本評論社 J・P・ベルト ISBN 4-535-58273-4 を持っているのでどのような記述がなされているか確認したいと思います。
アウステルリッツの戦い#戦闘序列によれば第5軍団の第3師団を指揮しておりますが、優秀な師団長であったとして、フランス屈指の師団長として十分な名声を得ていたのかは出典が求められるように思います。出世が遅れ始めるとありますが、誰と比べて遅れたと判断したのか、戦功をあげる機会が乏しかったのかがわかりにくいこと、イタリア戦役以降いつの時代のことを記したのかわかりにくいものとなっています。
ランヌに信頼され副将格として名を馳せたのであれば、具体的にどの戦いでの活躍なのか、はっきりさせたいところです。半島戦争でのスーシェの活躍が記載されていないのでわかりにくいのですが、『ロシア遠征失敗後のスペイン戦線崩壊をも耐え抜き、皇帝の退位まで持ちこたえてみせた。』はスペイン戦線での最高指揮官がスーシェであるように思わせる記述ですが、実際はアラゴン地方の指揮官にあたるでしょうか。--Tiyoringo(会話) 2020年3月4日 (水) 11:01 (UTC)
ナポレオン年代記を確認しました。同書では人名、地名、新聞・雑誌名は可能なかぎり現地音に従った。しかし日本語の表記が確定しているものはそれに従った(Marat マラー、Vienna ウィーン)と記載しておりますが、アルブフェラ公ルイ・シュシェトと記載されています。
3カ所に彼についての記述があり、①1809年6月15日、サラゴサでイギリス軍を破ったこと。(116ページ) ②1812年1月9日にバレンシアを占領したこと。(150ページ)③が人名小辞典としての説明ですが(288ページ)、全文を引用します。
「1792年に共和国軍に入り、イタリア戦役に従軍した。マセナの配下として、1800年にマセナがジェノヴァで包囲されたとき、救出を試みて失敗している。彼はアウステルリッツの戦いに参加した後、スペインに赴いた。アラゴンを占領したとき、略奪防止に努力した。1811年にタラゴナを占領し、その功績で元帥に列せられた。ビトリアの敗戦の結果、ピレネーを越えてフランスに撤退せざるをえなくなった。1814年の第1次王政復古の際、彼はルイ18世を認め、百日天下ではナポレオンの陣営に加わり、アルプス方面の国境防衛を任された。しかし、彼に与えられた弱体な戦力では、敵軍の侵入を阻止することはできなかった。ワーテルローの戦いの後、彼はルイ18世に服属したが、国王の怒りは解けず、彼は貴族の身分と軍の位階を剥奪された。」とあります。
en:Battle of Vitoria order of battleに彼の名前は出ていないため、彼が指揮する部隊が敗れた結果、フランス軍が撤退したわけではないと思いますが、スペイン戦線崩壊をも耐え抜き、皇帝の退位まで持ちこたえてみせた。ルイ=ニコラ・ダヴー#無敵伝説に書かれている「彼が開城し、降伏したのはナポレオンの退位のさらに1ヵ月後だったという。 」のような具体的な記述が出典つきで求められるように思います。
ブリタニカでの記述は[1]ですね。--Tiyoringo(会話) 2020年3月5日 (木) 13:28 (UTC)