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ノート:ラオスの歴史

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脚注の文字サイズ

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脚注の項で文字サイズを小さくされています。印刷物では脚注は小さい文字が使われていますが、限られた紙面に多くの情報を載せるためにそうしなければならないのでしょう。しかし、Wikipediaでは同じサイズでも多くの記述が可能ですので、わざわざ小さくする必要はないと考えます。他の記事でも同じサイズがほとんどですし、異論がなければ同じサイズにしたいと思います。--飛龍家木偶会話2012年7月8日 (日) 18:42 (UTC)[返信]

異論が無かったのでサイズ指定を外しました。--飛龍家木偶会話2012年9月20日 (木) 15:38 (UTC)[返信]

ランサーン王国以前の記述について

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ただし、この頃のラーオ族はタイ族やシャン族といったタイ系諸族との種族的、言語的な分化は行われていない状態にあった。ラーンサーン王国建国前のラーオ族のみを切り出して歴史を述べることは非常に困難を極めるため、「ラーオ族前史」の節においてのラーオ族とはタイ系諸族を包括したものであることをあらかじめ記す

なんてもっともらしく注釈で言い訳をしていますが、これってつまり、ここに書かれていることは、ラオスの歴史ではなくタイ系諸族の歴史ですってことですよね。漢民族の発祥の地が「紀元前5000年のゴビ砂漠」だとか、南詔王国をラオス人国家のように扱っているとか、いくらなんでも滅茶苦茶だと思います。詳細は英語版の「prehistory of Laos」を参照するようにという記述もありましたが、リンク先は「フランス統治時代のラオス」になっていましたし、そちらの履歴を辿っても、先史時代のラオスの記事であった履歴がないです[1]。普通に言って、ラオス史といわれるものはランサーン王国以降でしょう。今回、とりあえず複数の節に「正確性」タグを貼りましたが、これらの節は除去されるか、「タイ系諸族の歴史」というような記事に分離すべきでしょう。--Tonbi ko会話) 2016年8月22日 (月) 16:06 (UTC)微修正--Tonbi ko会話2016年8月22日 (月) 16:07 (UTC)[返信]