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ノート:モンゴルの高麗侵攻

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最近の編集について

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いくつか問題が見られるので差し戻しております。編集したIPユーザーの会話ページにも理由を書きましたが、IPが変化することもあるようなので、念のため同様の内容をこのノートにも記しておきます。

Wikipedia:表記ガイドHelp:特殊文字などに記述があるようにJIS X 0208に含まれない文字(当該記事でいえば竩、倎、駙など)は使用せず、文字参照形式などを用いることが推奨されていますので、そのままの字で上書きすることはお控えください。
  • 出典が明記された有意な記述について削除しています。たとえば「元宗の王政復古」などの表現は記述の元になっている杉山氏の書籍から引用したものであり、これらを無出典のまま書き換えることはご遠慮ください
なお『元史(高麗伝)』などを出典とされていますが、こういった史書は出典としてはWikipedia:信頼できる情報源#情報源の定義では一次資料にあたり、私が出典に用いている二次資料よりWikipedia的には弱いものとなります。ご注意ください。

今後同様の編集をなさる場合には、このノートに趣旨を説明し、かつWP:JPEWP:NPOVWP:VWP:OR、に基づいて、表記に留意し、二次資料の出典を明示した上で編集をしていただくようお願いします。--トホホ川 2011年9月21日 (水) 22:25 (UTC)[返信]

  • まず、史書は編纂された2次史料にあたり、当時の公文書などが1次史料にあたります、『元史(高麗伝)』などと杉山氏の書籍などは同等の扱いとなります、誤解なきようご承知下さい。
  • 「元宗の王政復古」に注釈はついていませんでしたが、これは杉山氏の書籍からの引用と解釈してよろしいですか?「元宗の王政復古」については『集史』の忠烈王評「王ではあるが、彼の地(高麗)の王ではない」や、『征東行省新論』の1283年の征東行省常設を境として高麗朝廷上層部の人事を征東行省が行った、例えば忠烈王の息子が官制を高麗式に改めて征東行省のダルガチなどから不興を買い廃された、から引用したものですが、年代がズレるので問題無さそうですね。
  • あなたは、二次資料の出典及び出典に基づく記述を削除されていますが、このような行為はお止め下さい。
--203.140.33.206 2011年9月22日 (木) 09:43 (UTC)[返信]
「2次史料」と「二次資料」という語を無意識にか意図的にか混用しておられるようですが、Wikipediaにおける「二次資料」は、史学の世界で用いる「二次料」とは意味が異なります。『元史』や『集史』はWikipediaの世界においては一次資料にあたります。二次資料というのは「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したもので、学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された」書籍・論文を指します。私が編集の元にしているのは村井氏・杉山氏などこの時代の専門家ともいうべき学者の手になる書籍で、これが二次資料にあたります。二次資料を典拠とした記述を削り、一次資料に基づく解釈を記述することは推奨されません。誤解なきようご承知ください。今後編集する際にはWikipedia:信頼できる情報源#情報源をよく読んでから、そこに定義された信頼できる情報源を元に加筆・修正してください。--トホホ川 2011年9月22日 (木) 13:10 (UTC)[返信]
俺様解釈はお止めください、というより二次史料が二次資料に当たるのは常識でしょう。後代に一次史料を用いて編纂される書物なんですから --112.138.166.212 2011年9月22日 (木) 20:16 (UTC)[返信]
俺様解釈とは何のことでしょうか? 私は単にWikipediaの基本方針文書であるWP:Vから参照されているWP:RS#情報源に明記されている文章を引用しただけですが。あなたの主張する「当時の公文書などが1次史料にあたります」「二次史料が二次資料に当たる」というのは、いったいWikipediaのどの方針文書・ガイドラインもしくはヘルプ・草案文書に記載されたものでしょうか? 「常識」なる言葉で逃げて、Wikipediaの方針を無視する編集を繰り返すあなたの方が「俺様解釈」なのではありませんか? そしてJIS X 0208に含まれない字の文字参照をわざわざ外すのはなぜでしょうか? Wikipedia:表記ガイドHelp:特殊文字はきちんと読んだのでしょうか?
いずれにしろ、当該IPユーザーは私の意見に耳を傾ける気が全く無いようですので、編集合戦化を避けるためにも、本記事に半保護依頼およびコメント依頼を提出いたしました。他の方の意見を伺います。--トホホ川 2011年9月22日 (木) 23:15 (UTC)[返信]
そのまま言葉をお返しします。「二次史料が一次資料に当たる」というのは、いったいWikipediaのどの方針文書・ガイドラインもしくはヘルプ・草案文書に記載されたものでしょうか? もちろん記載などされてはいません、一般的に二次資料に当たる物を歴史学の分野では二次史料と呼ぶだけですから。
JIS X 0208に含まれない字の文字参照をわざわざ外す、とは何のことでしょうか? 文字参照が外されていない事など、本文を見れば確認可能なことです、それすらせず取消を行うのはどの様な理由があるのでしょう。--ラッ頃ス灰汁塩668 2011年9月23日 (金) 10:36 (UTC)[返信]
IPユーザーの新規アカウントと思われるラッ頃ス灰汁塩668氏が、性懲りもなく、半保護に至った経緯を無視して編集を強行したため、WP:ILLEGIT違反で無期限ブロックされたようです。もはや説明しても無駄かもしれませんが、あなたは上記の私の助言があった後も、幾度に渡って「倎」の字を文字参照を外してわざわざ素の漢字に差し戻しています。この字はいわゆるJIS第三水準に含まれる字で、JIS X 0213で包含されたものであり、JIS X 0208には入っていません。同様に何度も差し戻している「愖」に至ってはJIS X 0213にも含まれていません。自分の手で行った改変に対して省みることなく私に質問返しをするというのは、もはや私への攻撃が優先され、自ら行った編集すら把握できぬほどに冷静さを失っているとしか思えません。--トホホ川 2011年9月23日 (金) 23:23 (UTC)[返信]
ラッ頃ス灰汁塩668=千葉t-com IPですね。ブロック破りで未だ出てきています。--218.226.121.140 2011年9月24日 (土) 07:03 (UTC)[返信]
さて、沈黙しているという事は、Marine-Blueは一般的に二次資料に当たる物を歴史学の分野では二次史料と呼ぶと理解したのかな?
トホホ川は、IPユーザーの新規アカウント~半保護に至った経緯を無視して編集を強行した。と言い張るが、自分で矛盾した事を書いていると理解できていないのだろうか
更に、Marine-Blueは出典付の記述を多数削除しているが、これは明らかにヰキペヂアのルールに抵触している。--Musket 2011年9月25日 (日) 11:49 (UTC)[返信]

モンケ時代のイェグの派遣について

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第4次・5次侵攻の節で、「モンケは傍流で小身のイェグ(也古、ジョチ・カサルの孫)に、高麗の軍を統治するよう命じ」たと書かれていますが、この「モンケによって高麗へ派遣されたジョチ・カサル家のイェグ」について詳しい情報をお願います。

『元史』憲宗本紀の憲宗2年冬十月条に「命諸王也古征高麗」とあり、モンケによって高麗に派遣されたイェグなる人物が(ただの将軍ではなく)モンゴル王族であったことは確かなようです。しかし、これが「ジョチ・カサル家のイェグ」であった場合、上記の書き方には問題が有ると思われるのです。というのも、『元史』憲宗元年(1251年)の条にある、モンケ推戴のため催されたオノン川でのクリルタイの場面で、「憲宗元年辛亥夏六月、西方諸王別兒哥脱哈帖木兒、東方諸王也古脱忽亦孫哥按只帯塔察兒」とあり、同様に『集史モンケ・カアン紀の同じ場面でも「左翼の王族たちのうち、ジョチ・カサルの息子たちではイェグ( يكو yikū)、イェスンゲ、カチウンの息子イルチダイ、オッチ・ノヤン(テムゲ・オッチギン)の息子タアチャル…」(Rawshan校訂本第2巻828頁)とあり、いずれでもモンケの推戴に参画した王族たちのなかでいわゆる東方三王家の王族たちの筆頭に名が挙がっている人物がジョチ・カサル家のイェグ(也古)になります。

また、『元史』宗室世系表や『集史』イェスゲイ・バアトル紀・諸子表によれば、ジョチ・カサルの息子たちは、イェグ(淄川王 也苦)、トク(脱忽 大王)、イェスンゲ(移相哥 大王)の3人いたことで一致しています。『集史』イェスゲイ・バアトル紀・諸子表のジョチ・カサルの条(Rawshan校訂本第1巻275-276頁)によれば、「ジョチ・カサルが亡くなったとき、その年長の息子(pisar-i mihtar-ish)イェグ( ييكو yīkū)が彼の地位に即き、イェグが亡くなったとき、その息子ハルカスン( هرقاسون harqāsūn)が彼の地位に即いた。彼のあと、その叔父のイェスンゲが(ジョチ・カサル家当主の地位に)即いた。モンケ・カンとクビライ・カアンの時代、ジョチ・カサルの後継者(qā'im maqām)はイェスンゲ( ييسونككه yīsūnkka)であり、彼の名声は有名であった」とあって、ジョチ・カサルの息子のひとりイェグは、ジョチ・カサルの長男であり、父の死後ジョチ・カサル家の当主になったことが分かります。また、モンケ推戴の事情から、当時の東方三王家でも中心的な人物であったことが予想出来ます。

これらのことから、モンケによって高麗へ派遣された「諸王也古」が当時ジョチ・カサル家の当主であったと思われるジョチ・カサルの長男イェグと同一人物であった場合、「傍流で小身のイェグ」という部分は当時のモンケ政権でのイェグの地位からすると甚だ誤解を招く表現であり、「ジョチ・カサルの孫」という表現は誤りになります。自分は存じませんが、『高麗史』など高麗側での記録か韓国での研究などで、この時派遣されたイェグについて「ジョチ・カサルの長男の方ではない、ジョチ・カサルの孫のイェグであった」とする研究があるのでしょうか? もしそうならば、脚注で一言触れるべき問題だと思われます。モンゴル時代の高麗王国について研究されている森平雅彦氏が今年出版された『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』でも、第4次・5次侵攻が「モンケの即位ととともに開始されたフレグの西アジア遠征、クビライの雲南遠征と並行している」と書かれていますが「指揮官イェグゥ」の来歴については述べられていません。なので、これらの情報について詳しい方のフォローをお願いします。--Haydar 2011年9月25日 (日) 21:47 (UTC)[返信]

初版執筆者です。該当部分については、元々の表記では「モンケは親族のイェグ(也古、ジョチ・カサルの孫)に」と書いておりました。これは翻訳元の英語版に「Mongke ordered the prince Yeku to command …」とあったものを訳したものにジョチ・カサル云々を補筆したものです(孫は子の間違いです)。princeとあることから、モンケの身内にある王族であり、小身ではないでしょう。「傍流で小身」という文言は、上の節で問題となっているIPユーザーによる偏った観点からの編集[1]により附け加えられたものです。Haydarさんの仰る通り、問題があると思うので、表現を元に戻しておきます。--トホホ川 2011年9月26日 (月) 12:53 (UTC)[返信]
也古、ジョチ・カサルの孫なら傍流で小身ですけどw 中枢から遠ざけられていたらしい孫の方が征東軍の指揮を取る筈は無いので、気にも留めずに傍流で小身と書いた私も某トホホ川よりマシとはいえ論外だけども。--亜科云徒 2011年9月26日 (月) 15:10 (UTC)[返信]
アナタは完全に荒らしと化しています。いい加減にしなさい。--218.226.121.140 2011年9月27日 (火) 02:14 (UTC)[返信]
Haydarです。
トホホ川さん
早速のレスポンス、ありがとうございます。上記の『元史』の「諸王だれそれ」や『集史』の「Shāh-zāda だれだれ」「だれだれ Ūghūl(oγul) 」といった具合に、モンゴル帝国時代にはチンギス・カン家やその諸弟の家系である東方三王家の王族たち(いわゆるアルタン・ウルクの成員たち)の場合、「王族」であることを表す「諸王」「Shāh-zāda」「Ūghūl」といった呼称を個人名と併用することで、他のモンゴル諸候などとは明確に区別していたようです。(日本における「なになにの皇子」に似た感じと言いますか) 英語版での the prince Yeku も恐らく『元史』での「諸王也古」か『集史』あたりの Shāh-zāda Yīkū をそのまま訳したものだろうかと思われます。(「諸王」「Shāh-zāda」という呼称がジョチカサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家といった東方3王家出身の王族たちにも用いられたことは上記の『元史』や『集史』での記述の通りですので、必ずしもモンケの身内というかトルイ家の出身者とか縁戚でなくとも、アルタン・ウルクの出身者であれば通常であれば誰でも「諸王」という呼称がつきます)
上記のように『元史』憲宗本紀では憲宗元年のクリルタイでの部分と、同本紀 憲宗2年冬十月条では各々「東方諸王也古」「命諸王也古征高麗」と人名表記が同一であるため、前者のジョチ・カサル家の当主「諸王也古」と後者の高麗へ派遣された「諸王也古」も同一人物である可能性が極めて濃いことが、憲宗本紀をざっと見ただけでも何となく感じられます。しかし、モンゴル帝国時代のモンゴル王族たちは同名異人や似たような名前の人物が多いため、特に漢文史料では出身王家が省かれて記録されている場合もままあり、人物の特定が面倒である部分があります。(今の所自分が調べた範囲ではモンケ時代の初期にジョチ・カサル家で「イェグ」と名乗っていたのは、ジョチカサルの長男のイェグ以外は見付けられませんでしたが) 憲宗本紀の憲宗2年冬十月条の記述は記録として動かないと思いますので、問題はこの時派遣されたイェグが憲宗本紀には表れない「ジョチ・カサル家出身者」であることを本文の記事に触れるのであれば、そのことを言及している史料や研究文献などの典拠情報を付加した方が良いように思います。もしその辺を明言してある典拠が不明だったり不明瞭である場合は、少なくとも「当時ジョチ・カサル家の当主であったと思われる王族イェグが高麗へ派遣され…」あるいは「ジョチ・カサルの長男であると思われる王族イェグが…」という風に書いた方が良いと思われるのですが、いかがでしょうか。
亜科云徒さん
仰りたいことが今ひとつ飲み込めないのですが、「ジョチ・カサルの孫」であれば「傍流」や「小身」という表現が許容されるかと言えば、現在のモンゴル帝国史についての研究からすればあり得ない表現だと言わざるを得ません。
モンゴル帝国全体から言って、ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家といった東方三王家は、勿論、モンゴル帝国の皇位継承から遠い位置にはありましたが、チンギス・カンの諸子ジョチ、チャガタイ、オゴデイ家の王族たちなどの右翼の諸ウルスと対となる重要な存在であったことが分かっています。上記の『元史』のモンケのクリルタイの記述に、ジョチ家のベルケ、トカテムルを「西方諸王」、ジョチ・カサル家のイェグ、トク、イェスンゲ、カチウン家のイルチダイ、テムゲ・オッチギン家のタガチャルが「東方諸王」として両者が併記されていることからも伺えます。ここら辺の東方三王家のモンゴル帝国における立場については杉山正明先生の「モンゴル帝国の原像 チンギス・カンの一族の分封を巡って」(『モンゴル帝国と大元ウルス』収録)などの論文がモンゴル帝国の左右両翼体制から検証を行っています。もし、モンケ時代に高麗に派遣された「イェグ」が東方三王家の当主位から大分離れた出自の王族であれば「傍系」や「小身」という言葉もあり得るでしょうけども(クビライ治世末期に発生したナヤン・カダアンの乱で、反乱を起したカチウン家のカダアンはカチウン家の当主位からも大分遠かったため「傍流」であったと言えますが)、モンケ時代に、モンゴル帝国全体の東方の支えでもあった東方三王家の一翼であるジョチ・カサル家の当主であったろうイェグを指して「傍系」や「小身」と表現するのは、はっきり言えば「失当」と言わざるを得ません。よしんば「ジョチ・カサルの孫」であったとしても、彼の父親や当時のジョチ・カサル家の当主継承の動向から判断してどういった立場であったかを考えないと「傍系」という表現は軽々しく使えないと思います。高麗へ派遣された他のモンゴルの将軍たちはどういった出自なのか、あまり明記しない傾向が有る漢文史料だけではなかなか分かりにくいですが、諸王イェグの派遣がモンケによるフレグの西方遠征やクビライの南宋遠征と対になるものだったという森平先生の指摘にもある通り、モンケ政権の対外政策にとって派遣するだけの意味や重みのあるものだったと考える必要が有ります。少なくとも、現在のモンゴル帝国史関係の研究者からそのように見られている以上は、一定程度、『元史』などの史料上の表現や現今の研究動向に配慮した記事作成を心がけるべきだと思います。--Haydar 2011年9月27日 (火) 14:45 (UTC)[返信]
もし仮に指揮を執ったのがジョチ・カサルの「孫」のイェグだとすれば、Haydar氏自身が書いているように、ジョチ・カサル自身に40人を超える子女がいたとあり、その内著名として『集史』に事績を綴られているのがイェク・トゥク・イェスンクの3子であって、ジョチ・カサルの跡を継いだのが長子イェク・孫ハルカスン・子イェスンク、千戸長となったのも彼らで他の諸子は百戸長と記され、孫のイェクに至っては後継者の中に名前が見えず、事績の記録もなく、百戸長の中にも名が見えない以上、十分に「傍系」かつ「小身」と言える。 尤も、無名の傍系王族が一大事業である征東軍の指揮を取る筈はなく、ジョチ・カサルの孫という一文を見て疑いもせずに『元史』に名前の登場しない人物だと脊髄反射で判断し「傍系」かつ「小身」などと書いてしまった点に関しては反省してます。--備石 2011年9月28日 (水) 12:01 (UTC)[返信]
モンケから派遣されたイェグについての続報ですが、『高麗史』『高麗史節要』『東国通鑑』の諸王イェグの侵攻の部分を確認したところ、『高麗史』巻42・叛逆3 崔忠獻 伝に永寧公 綧が高宗三十九年(1253年)七月にもたらしたモンケからの国王高宗の出陸を求める勅書のなかに「吾於六月初吉到也窟大王處具告之…」とあり、『高麗史』巻24・高宗世家3の高宗四十年八月癸酉(二十七日)にイェグが高宗に使者をもって高宗に伝えたモンケの詔の文面に「汝輩逆命、命皇叔也窟統師往伐。」とありました。『元史』などでモンゴル王族で「大王」という称号がつく場合、おおよそはその王家の当主クラスかそれに準じる人物だったようで、『元史』宗室世系表によると例えば件のジョチカサル家ではイェスンゲが「移相哥大王」と呼ばれていますし、ジョチ家ではバトゥが「抜都 大王」、チャガタイ家でもカラフレグ、アルグらが「合剌旭烈 大王」「阿魯忽 大王」などのと書かれています。また、「皇叔也窟」とありますが、チンギス・カンと第1皇后ボルテの末子であったトルイの嫡男であったモンケにとって「皇」と呼びうる人物を探しますと、そもそもチンギス・カン家の男系子孫の家でモンケ、クビライの時代まで存続していたのはジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、そしてチンギスの第2皇后クランの子息であったコルゲン家の5家しかありません。モンケの父トルイの世代でトルイよりも年下の家系の人物(叔)となるとコルゲン家しかありませんが、コルゲン(闊列堅太子)はオゴデイの時代にバトゥの欧州遠征のおりルーシ諸侯領のひとつコルムナで戦死しており、1250年頃には既に物故しています。クラン皇后がチンギスに嫁いだのはナイマンが滅ぼされた1200年代の半ばくらいですので、年齢的もモンケやバトゥと近かったことが予想され、存命していても「叔」が使われるか怪しいかと思われます。そうなると、トルイよりも上の世代、チンギスの兄弟の世代で、モンケよりも年上で、なおかつチンギスの弟の家系と考えるのが妥当だと思われます。ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の東方三王家にチンギスの庶弟ベルクデイ家の4家が考えられますが、このなかで漢語で「大王」と呼ばれるような王家の当主クラスで、モンケよりも年上で、「イェグ」という名の人物となると、状況的にジョチ・カサル家の当主であったジョチ・カサルの長男イェグ以外資料的にいません。
上でも書いた通り、イェグはモンケの治世中に物故し、当主位を継いだその息子ハルカスンも程なく没してモンケの在位中にイェスンゲが継いだこと、クビライの時代のはじめまで存命していたイェスンゲは高齢だったそうなので、モンケから見てジョチ・カサル家の当主イェグを「皇叔」と呼んでも年齢的にも親族関係的に見ても全く妥当であったろうと推測できます。
以上は自分が史料上の情報から、モンケによって派遣された「諸王 イェグ」が「ジョチ・カサル家の当主でジョチ・カサルの長男イェグ」である可能性が濃いことが検証出来ました。しかしながら、これは飽くまで自分が史料を調べて分かったことですので、「諸王イェグ」の出自について記事本文で触れるには、やはり何らかの先行研究で「モンケによって派遣された諸王イェグはジョチ・カサルの長男イェグであった」と明言している文献を参照する必要があるかと思われます。そのため、引き続き、参考文献に載せることが出来そうな論文なり著作の情報を見付けた方がおられましたら編集等よろしくお願いします。--Haydar 2011年10月26日 (水) 15:39 (UTC)[返信]

IP:202.70.191.17

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IP:202.70.191.17は、「高麗は、元に征服された他の国々とは違い、独立国家としての地位を保った。[2]」などと主張し、「戦争の結果、その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。[3]」などの記事を削除しました。韓国の民族史観を垂れ流さないでください。

君是天也、父母也、方殷憂大戚如此、而不於天與父母、而又於何處訴之耶、伏望皇帝陛下、推天地父母之慈、諒小邦靡他之意、敕令大軍、回轅返旆、永護小國、則臣更努力竭誠、歳輸土物、用表丹悃、益祝皇帝千萬歳壽、是臣之志也。伏惟陛下、小加憐焉。

君主は天であり、父母であります。……伏して皇帝陛下にお願い申し上げたいのは、天地父母の慈しみをもって小邦に二心がないことをご理解くださり、軍隊を引き返して末永く小国を保護してくださいますならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし、毎年土産物をお送りして赤誠の心をあらわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でございます。 — 高麗史、巻第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十二月
國書曰:我國臣事蒙古大國、稟正朔有年矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其德。今欲通好於貴國而詔寡人云、日本與高麗爲隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下屢通中國、故特遣書以往、勿以風濤阻險爲辭。其旨嚴切、茲不獲已、遣某官某奉皇帝書前去。貴國之通好中國、無代無之。況今皇帝之欲通好貴國者、非利其貢獻、蓋欲以無外之名高於天下耳、若得貴國之通好、必厚待之。其遣一介之士以往觀之、何如也、貴國商酌焉。

わが国は蒙古大国に臣事することがもう何年にもわたっています。皇帝の仁徳は明らかであり、天下を一家とみなして遠近の差をつけることもなく、日月が照らす所はみんなその徳を仰いでいます。 — 高麗史、世家第二十六、元宗八(一二六六)年八月
陛下降以公主、撫以聖恩、小邦之民、方有聊生之望、然茶丘在焉、臣之爲國、不亦難哉。如茶丘者、只宜理會軍事、至於國家之事、皆欲擅斷、其置達魯花赤於南方、亦非臣所知也。上國必欲置軍於小邦、寧以韃靼漢兒軍、無論多小而遣之、如茶丘之軍、惟望召還。

陛下が皇女を降され、聖恩によって撫育してくださることによって、(わたしども)小邦の民はまさに安心して生きる望みがあります。……上国がどうしても軍隊を小邦に設置したいとお望みならば、むしろ韃靼か漢人の若者の軍隊を多少を問わず派遣されて頂くことを願っています。 — 高麗史、世家第二十八、忠烈王(一二七七)四年六月
弊邑本海外之小邦也、自歴世以來、必行事大之禮、然後能保有其國家、故頃嘗臣事于大金。及金國鼎逸、然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歳、契丹大擧兵、闌入我境、橫行肆暴。至己卯、我大國遣帥河稱、扎臘領兵來救、一掃其類。小國以蒙賜不貲、講投拜之禮、遂向天盟告、以萬世和好爲約、因請歳進貢賦所便。

弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります。 — 高麗史、世家第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十一月
夫主國山川、依人而行者、神之道也、則所寓之國、所依之人、能不哀矜而終始保護耶、本朝自昔三韓、鼎峙爭疆、萬姓塗炭、我龍祖應期而作、俯循人望、擧義一唱、四方響臻、自然歸順。

本朝は三韓の昔から、三方に向かって境界を争い、あらゆる一族が塗炭の苦しみを味わい、わが王でさえも時には味わい、伏して人民の望みにしたがって義兵を起こそうと唱えると、四方が声に応じて集まり、自然に帰順しました。 — 高麗史、世家第二十四、高宗四十一(一二五三)年冬十月
  • 黄文雄『克 中韓論』イースト・プレス、2015年3月15日、80-81頁。ISBN 4781613144。「そもそもコリア半島は漢・韓・倭語族や北方ツングース系語族流民の吹き溜まりの地として長城外の東亜では最北の農耕植生圏に属している。排他性も強いので中央集権制をとり、東亜の覇者に事大するしか道は残されていなかった。再度いうが、「1000回侵略されて、すべて撃退した」というウリジナルはほとんどがウソである。侵略されたらすぐ土地を献上した。また奴婢は放棄して侵略者を「解放者」として迎え入れたのだ。要するに、すぐに迎合して事大を誓ったのが半島史の真実である。韓国人といえばすべて裏切り者か、無責任な臆病者と評価されてきた。そんなマイナス・イメージが定着してしまったのは統一新羅以来の国風である。コリア半島はインドシナ半島とはちがう。中華歴代王朝を宗主国と奉じていても、ベトナムとは異なって面従腹背ができないのだ。その理由の多くは主にその生態学的理由に求められるだろう。コリア半島は時代とともに自然が崩壊し、原始の物々交換社会へと戻っていく。モンゴル人は人類史上で最初に紙幣(交鈔)の使用に成功したが、朝鮮はまったく逆であった。たとえばモンゴル人の大元が高麗を手に入れ、南宋まで征服したあと、高麗駐箚軍は南宋の降伏部隊「蛮子軍」を高麗の治安に当たらせた。その蛮子軍に高麗政府は全国から「強制連行」した婦女子を「従軍慰安婦」として一人絹一二匹で売り飛ばしている。…『朝鮮開化史』(博文館)によれば、明から清へ事大の相手が代わってから明の民間人を四万から五万人も殺した。清の太宗ホンタイジは臆病な韓兵がもっぱら民間人の虐殺しかしないことに頭を悩ませていたという。清にすれば、五〇ほどある朝貢国のなかで朝鮮は一番下の「下の下の国」でしかない。それでも康熙帝の時代には北方の黒竜江までロシア遠征を行い、コサック騎兵と戦わされるなど散々使い走りさせられた。朴正熙の時代になっても韓国軍はアメリカ軍の使い走りに徹している。ベトナム戦争に参戦することで海外遠征を行ったのだが、ベトナム女性への性的暴行や村民の大虐殺など数々の残虐行為を繰り広げ、アメリカ軍を困らせたほどだ。」 
  • 宮脇淳子『韓流時代劇と朝鮮史の真実』扶桑社、2013年8月8日、26頁。ISBN 459406874X。「いずれにしても、紀元前1世紀の「朱蒙」の時代の話ですら神話の域を出ないのに、何千年も前の話などとても史実と呼べるはずがありません。『三国史記』には檀君神話なんて一行も記述がなかったのに、13世紀に突然現れたのです。ちなみに、一然がなぜこんなつくり話をしなければならなかったかといえば、『三国遺事』が書かれた13世紀後半というのは、ちょうど朝鮮半島がモンゴル人の支配下に入った時期だったからです。それまで30年の間に6回もモンゴル軍に高麗全土を荒らされていた間、高麗王と政府は江華島に逃げこんでいました。しかし、実権を握っていた武人がとうとうクーデターで倒されて、高麗王は太子をモンゴルに派遣しました。高麗の太子(後の元宗)の息子は、フビライの皇女と結婚し、これ以後、代々の高麗王の息子はモンゴルの皇女と結婚して元朝皇帝の側近となり、妻方でモンゴル風の生活をしました。そして、父王が亡くなった後に高麗に戻って即位したのです。高麗王室は残されたものの、朝鮮半島の統治のために征東行省が置かれ、高麗は実質的に元の一地方に成り下がりました。こうした中、食料や毛皮、あるいは人間まで様々なものが収奪されても、文句ひとつ言えなかった。そうした惨めな状況から、朝鮮の民族主義を鼓吹する必要があったのだといわれています。フィクションをつくって国民を洗脳するというのは、今も昔も変わりません。」 
  • 宇山卓栄『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』扶桑社扶桑社新書〉、2018年11月2日、20-26頁。ISBN 4594080804。「新羅は唐の従属国でしたが、後の時代の、元王朝に支配された高麗や、明・清王朝に支配された李氏朝鮮のような中国の隷属国ではありませんでした。未だ、新羅は従属国の範囲内に止まっていたと言えます。新羅は唐軍を朝鮮から排除することができたからです。高麗や李氏朝鮮は中国に主権を全て奪われ、もはや国ですらなく、中国の属邦に成り下がっていきます。しかし、新羅も一歩間違えれば、隷属国になっていました。チベットや突厥などの異民族勢力が唐と戦っていたからこそ、新羅は唐を排除できたのであり、たまたま幸運が重なったというだけのことに過ぎません。…金春秋は唐の援助を取り付けます。しかし、これにより、新羅は唐の属国に成り下がります。唐の衣冠礼服の制度を取り入れ、官制も唐に倣い、新羅独自の年号を廃し、唐の年号を用いて、唐に服属したのです。弱小国の新羅が百済・高句麗連合に対抗し、生き残るためとはいえ、その行動は売国的でした。超大国である唐の属国になれば、新羅の民は唐の事実上の奴隷となることは明白であり、それをわかっていて、新羅の王族はこのような選択をしたのです。百済、高句麗、新羅の三国は古来、激しく対立してきました。しかし、中国こそが最大の脅威であるという暗黙の合意がこの三国にはありました。互いに敵対しながらも、その共通認識に基づいて、三国の外交が展開されてきたのです。どこか一国でも、中国の脅威に浸食されはじめれば、朝鮮全体が中国に奪われ、隷属を強いられるということを三国は理解していました。新羅はその暗黙の合意を破り、一線を越えました。百済や高句麗も、まさか新羅が自分からプライドも何もかも捨て、唐の属国に成り下がるような真似をしてまで、唐と手を組みたがるとは思っていなかったでしょう。驚天動地、全ての前提を覆す出来事でした。」 
  • 黄文雄『克 中韓論』イースト・プレス、2015年3月15日、88-89頁。ISBN 4781613144。「中国と朝鮮・韓国との領土紛争は中国とベトナムをめぐる紛争と酷似している。しかし、多くの点で対ベトナムのそれとはちがう。韓国のウリジナルでは「韓国は人類文明の根であり起源の地である」「古代の韓帝国はユーラシア全域に及び、新羅帝国の領土は一時、上海近くまで及んだ」などさまざまなことを主張する。仮に「一時的」があったとしても、あくまでも「一時的」のみでしかない。実際、コリア半島は「一時的」さえ「帝国」という盛期は歴史上なかった。ずっと中華帝国歴代王朝の「千年属国」というのはまぎれもない史実である。コリア半島の歴史上、いかなる時代でも北方夷狄のように中華世界や東亜世界に君臨したことはなかった。しかし、江南の地は東亜史上、「百越の地」として中国の「正史」にも記録され、ベトナム人のホームランドだったのは史実である。ユーラシア大陸史のなかで流民の吹き溜まりの地であるコリア半島は、中華の千年属国以外にはいかなる歴史も創出しなかった。それが歴史の真実であり、いくら悔しがっても歴史は歴史である。」 

--2001:268:C1C4:4EF4:CD47:52BD:C9A:FD14 2022年8月21日 (日) 21:31 (UTC)[返信]