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ノート:マルクス・アウレリウス・アントニヌス

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12/6 自省録に関する記述を追加

大秦王安敦について

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いわゆる大秦王安敦の記述は166年のものであり、マルクス・アウレリウスの即位から5年しか経っていません。しかも166年までローマとパルティアは戦争状態にあり、この間に使者を漢に派遣するのはかなり困難です。ユーラシア大陸のほとんどをモンゴルが支配していたマルコ・ポーロの時代でも、ヴェネチアから上都まで4年を要しています。使者が出立したのはマルクス・アウレリウス即位前、アントニヌス・ピウスの時代と考えるのが自然なのでは? さらに言えばローマの側では漢に使者を派遣したという記録が無く、また使者が持参した貢物も東南アジアの産物であり、いわゆる大秦王安敦の使者は詐称である可能性が疑われています。そうだとすると情報伝達の速度を考えるに、先代のアントニヌス・ピウスを騙っている可能性が高いと思われます。しかしながらネット上で検索してみるに、どうもマルクス・アウレリウス・アントニヌス説のほうが優勢なようなので、一応両論併記とさせて頂きます。利用者:PATMAN 2007年10月5日 (金) 15:20 (UTC)[返信]