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ノート:マナー

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マナーの問題について

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いきなりコメントアウトされていますが、この項目は非常に大事と思います。誰しも1度や2度体験してきていることでしょう。コメントアウトではなく、随時出典や修正をかけていく方向で良いと思いますが。--220.152.28.71 2007年8月28日 (火) 22:19 (UTC)[返信]

私もこの項目は重要と考えます。このような現象は実際に行われていますし。だからコメントアウトではなく進行しつつ修正箇所があれば修正でよいと思います。--222.228.158.33 2007年8月28日 (火) 23:59 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性」をご参照下さい。出典を示さないまま「消されて文句を言う」のはルール違反です。--Album 2007年8月29日 (水) 13:07 (UTC)[返信]

それでは、出典が明記されていないので全て削除しても良いのですか? (レディーファーストも信用できる記事かどうかの判断がありますが。)--220.152.28.71 2007年8月29日 (水) 13:19 (UTC)[返信]

出典ある追記を消せば、事務的に貴殿を投稿ブロック依頼に出すだけです。--Album 2007年8月29日 (水) 13:23 (UTC)[返信]

それでは、レディーファーストの出典が信頼できる物かどうかと他の物についての出典を明記してください。--220.152.28.71 2007年8月29日 (水) 13:27 (UTC)[返信]

それと、検証可能性を問うのであれば全体ですべきです。偏った削除などは主観でしか判断していないからです。一部分のみ偏った編集を行うのは何故ですか?--220.152.28.71 2007年8月29日 (水) 13:31 (UTC)[返信]

記事の白紙化は、さすがに「荒らし」と言われても仕方ありません。正直なところ『消されても文句は言えない』という一文を絶対的な根拠にして異論を受け付けないというのは疑問を感じるのですが、言質をとったり編集合戦に持ち込んだりするのはとても許容できないやり方です。なお私見ですが、コメントアウトされた部分は一種の評論になっていますので、出典があるとしてもこのままの文面ではWikipediaの記事としては問題がありすぎると思います。Wikipediaは編集者自身の意見を書くところはない、という点も考慮して下さい。 -- NiKe 2007年8月29日 (水) 13:38 (UTC)[返信]

白紙化はしてませんよ。出典元が明示されている物は残しています。
他の方が行っても良いのですが、時間のあるとき評論ではない形でまとめてみようと思います。
ただ、ノートでの話し合いも”消されても文句は言えない”というほぼ対話拒否の手法には疑問を感じます。--220.152.28.71 2007年8月29日 (水) 13:57 (UTC)[返信]
その場合、あなたの意見ではなく、すでに出版済の誰かの記述を出典にして記述して下さい。個人ブログは出典とはなりませんのでお気をつけ下さい。--Album 2007年8月29日 (水) 14:08 (UTC)[返信]

「マナー」とは「他者を気遣うこと」か否か?

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下記が削除されました。たとえばここを見ると、マナーとは人を思いやる気持ちとあり、下記が違っている気がしません。どうして削除したがったのか、それはわかりませんが、出典が付いていないといわれれば確かにそのとおりです。出版された本に、下記と関連する記述が見つかったら、ここに教えてください。

  • マナーmanner)とは、(その)場で、あるいは社会全体で、居合わせた者あるいは構成員がそれに従って行動すれば、不必要な競争や、無駄な不快感を引き起こさない所作・振る舞い。その精神形式。字義は行儀、作法、礼儀、態度、様子、仕方、やり方 、方法、態度、様子、挙動、風習、習慣、流儀、様式、作風、種類、手法、習癖。
  • 民族文化時代宗教のさまざまな習慣によって、マナーの形式は変化する。ある国では美徳とされている事が、他の国では不快に思われることもある(日本ではげっぷをすれば不快に思われるが、ある国では食後にげっぷをするのが礼儀とされている、など)。
  • 「他者を気遣う」という精神を所作として形式化し、わかりやすくしたものが形式としてのマナーである。それらは一般常識として、あるいは特殊な知恵の体系として世の中に存在している。
211.129.111.85 2007年9月7日 (金) 12:19 (UTC)[返信]


下記はどうでしょうか。
  • 『絵でわかる マナー事典』 現代マナー・フォーラム 西東社 1996年8月 ISBN 978-4-7916-0239-1
はじめに P1 「しきたり、礼儀作法などというと堅苦しく考えがちですが、根底にあるのは人にたいする思いやりや相手を気づかう気持ち、その気持ちを動作や態度で表したのがマナーなのです」「マナーは、国や地域、宗教、文化によっても変わってきますし、時代とともに変化もします。同じ社会に生きていても、立場やタイミングが異なれば相手への気配りも違ってきます」
  • 『恥をかかない マナー&エチケット事典』 清水勝美 新星出版社 2000年9月 ISBN 4-405-05082-1
はじめに P3 「『マナー』というと、どうやら『古い』とか『面倒な』というイメージがつきまとうようです。しかし、マナーの『基本』は、すべて『相手を思いやるこころ』を含むものなのです」「難しく考えないで、『どうしたら相手が喜ぶか』『不快に思わないか』を想像してみましょう。そうすれば、自然とマナーにかなうはずです」
  • 『ポイントがわかるマナー手帳』 外山晴彦 榎島景子 西東社 2002年9月 ISBN 4-7916-1111-X
はじめに P1 「マナーというと、堅苦しいもの、形式的なものと連想されがちです。たしかに、古いしきたりにとらわれたマナーも、なかにはあります。それは、時代の変化に取り残されたもので、現代に生きるマナーではありません。マナーは、国により、宗教により、文化により、それぞれ異なります。さらに、時代とともに変化するものです」「マナーは、人間関係や社会生活をスムーズにしようとする心の持ち方から生まれます。マナーの師匠が独創的につくり出すものではありません。相手を気づかうひとり一人の気持ちのなかから、社会的に成熟するものです」
Uryah 2007年9月12日 (水) 16:22 (UTC)[返信]
それだけ手を尽くして調べられたのでしたら、どうぞ、相談などせず大胆に編集して下さい。--Album 2007年9月12日 (水) 21:47 (UTC)[返信]
では、編集します(戻します)。Uryah 2007年9月13日 (木) 15:31 (UTC)[返信]
ただ戻すのではなく、出典を明記の上戻して下さい。--220.152.28.71 2007年9月16日 (日) 12:26 (UTC)[返信]
  • この問いへです。「精神」は、上に挙げた本から、気持ちの持ち方・ハート・魂・ソウル・心の持ち方という部分が、意識がマナーの核心なのだ、形式はそこから自然に醸成されるものだ、と読んだ(読めた)つもりで書きました。つまり上に挙げた本が典拠です。
  • 下記の記述も削除されましたが、どう思いますでしょうか?上に挙げた本では典拠になっていませんか?
    • (その)場で、あるいは社会全体で、居合わせた者あるいは構成員がそれに従って行動すれば、不必要な競争や、無駄な不快感を引き起こさない所作・振る舞い。
Uryah 2007年9月21日 (金) 23:48 (UTC)[返信]
  • 私にはマナーは気持ちである、と取れました。気持ちは精神とは(必ずしも)同じように思えませんでした。また上記部分も出典と出来るかどうかは、少し結びつきが弱い気がします。もし、出典がない、他の人に広く意見を求めたいと言うことであれば検証可能性の手順に沿うことで記事に対して出典を求めることと記事のさらなる向上をもとめられます。Albumさんは「消されても文句は言えない」として強制削除を行おうとしますが、検証可能性の手順を踏むことで記事を削除せずに進めることが可能です。--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 12:35 (UTC)[返信]
>気持ちは精神とは(必ずしも)同じように思えませんでした
なるほど、私は、たとえばこれなどから、「気持ち」と「精神」は同じものを指す表現と読みましたが、「厳密には違う」と読む人が居る、ということですね。
>上記部分も出典と出来るかどうかは、少し結びつきが弱い気がします
なるほどなるほど、単に結びつきが弱い、あるいは、上記情報源と上記記述では、“情報(源)を元に表現を変えて記述した”(という)よりも、Wikipediaの投稿者による解釈が加わっているような感じがする、というのですね。
なるほどなるほど。了解しました。では何か新たな情報源が見つかるか、新たな意見が付くまで、このまま置いておきます。
Uryah 2007年9月23日 (日) 00:34 (UTC)[返信]
上記の意見は個人的な物です。Uryahさんが上記を出典とし異議が出ればその都度ノートで議論すればよいのではないでしょうか。掲載自体はかまわないと思います。--220.152.28.71 2007年9月23日 (日) 01:12 (UTC)[返信]

ご参照。

Uryah 2007年9月30日 (日) 07:25 (UTC) 2007年9月30日 (日) 07:28 (UTC)[返信]

◆参考情報プラス。

  • 朝日新聞2011年2月5日 be on Saturday 電車やバスの座席、譲ってますか?

Uryah 2011年2月13日 (日) 06:04 (UTC)[返信]

検証可能性の手順に基づき、出典の明記のない記事でも掲載しつつ明記や情報を求める

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もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートに移動するとよいでしょう。または {{要出典}}、{{出典の明記}} テンプレート…”に基づき、記事掲載のまま出典や情報を集めていきます。また、Albumさんは”すでに出版済の誰かの記述を出典にして記述して下さい”と上で誤りを書かれていますが公式的なHPなど出版されていないような物でも出典と認められます。--220.152.28.71 2007年9月21日 (金) 22:36 (UTC)[返信]

すれ違いの基本的な原因が、ようやく分かりました。出典の明記は後でもかまわないのですが、記述するにはまず信頼おける情報源が必要なのです。ですから『出典のない記事でも掲載しつつ情報を集める』という記述は、明確な誤りなのですよ。
この項目のタイトルからして間違いなので、項目名をあらためて、下に検証可能性の「方針」を示します。
で、出典のない富士山の写真を貼り付けたんですか?そして出典を求められても出さなかったり、皆が集まってからとか言って速やかな出典の明記に応じなかったのですか?何度も言いますが矛盾してますね。その矛盾を何度となく質問していますが、一切回答がないですね。自分は出典を明記せず相手には明記させ応じなければ強制除去する。そういった自己中なあなたの姿勢に皆疲弊しているのです。相変わらず質問には答えないですしね。--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 22:16 (UTC)タイトルは修正しておきます--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 22:19 (UTC)[返信]
お早うございます。富士山についてはとっくに「静岡新聞」の本文を出典として示しています。ところがmiya氏はそれを出典とは認めず、コメント依頼をかけました。もちろん、このような「これは出典として認めない」という意見はあって良いものです。ところが、まるで「Albumは出典を示す行為をとらなかった」かのような訴えは心外です。そして「これは認める・認めない」の世界は非常に感情的になり易いものです。したがって、関連当事者である貴殿やmiya氏以外の編集者の同項目への参加をもって出典を示そうと準備をしているのです。また「疲弊」については、個々の質問に対して受身で質問に答える労をとっているのは私です。質問が無ければ、私も書く必要が無いのです。ここは「マナー」の項ですから、ここまでで終わりにして下さい。「疲弊」を招かないように。--Album 2007年9月22日 (土) 22:29 (UTC)[返信]
世界遺産と安部内閣のべる美しい国には関係がない。全く関係のない記事を持ってきて出典をだした、と言うのが通るのであれば何でも出典になってしまいますけどね。 --220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 23:44 (UTC)[返信]

検証可能性の手順として、まず「出典ある記述を必ずする」こと。ただし出典の明記は求められた後でも可。

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Wikipedia:検証可能性」の方針はこのようなものです。

  1. 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです
  2. 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  3. 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

このように、「まず出典があること」が記述のスタートです。ただしかならずしも「明記」を求められてはおらず、明記が無ければ出典を求めましょう、出せなければ除去されても文句は言えません、ということです。今一度、公式な方針「Wikipedia:検証可能性」を読み直していただけないでしょうか?編集者の合意や、他のガイドラインによっても覆せない公式な方針です。--Album 2007年9月22日 (土) 13:07 (UTC)[返信]

出せなければ除去されても文句は言えません」とありますが、Albumさんの場合、瞬時に強制削除を行っています。出したり議論する暇さえ与えずにね(そこが批判されてあのような状況になっているのです)。ルール手順”もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると、異議を唱える人がいるかもしれません。情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートに移動するとよいでしょう。または {{要出典}}、{{出典の明記}} テンプレート…”として進める事が可能です。「消されても文句は言えない」とし瞬時に強制削除を行わず、記事を掲載しつつ出典の明記を求めることが可能です。あなたのように暇さえ与えず瞬時削除ではありません。そのための手順とテンプレです。もしあなたの個人的な主観で有無を言わせず瞬時に強制削除が正しいのであれば、ルールの手順もテンプレも必要が無く、用意されること自体が矛盾しています。そしてその瞬時削除も個人的な主観での削除で、他の同じく出典のない物は放っておいています。この基準も「どこかで読んだことがある」が基準であると言われましたが、その方法はあなた自身が否定的見解を述べた方法であり、矛盾しています。また個人の主観での話になり公平ではありません。これについての回答も残念ながらいただけておりません。
しかし、相手には明記が無ければ瞬時に削除して、自分は消されればキレて富士の写真の拡大バージョンを張り、出典は速やかではなく皆がそろってからとかのたまう。激しく矛盾してますよね。そしてその質問に答えない。
それと上では出典は出版物でなければ行けないような口ぶりでしたがその誤りについても何も言わない。そんなあなたに皆疲弊しているのですよ。--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 22:41 (UTC)[返信]
あなたのご指摘どおり、確かに見つけ次第に除去を試みるものもあります。出典の明記の無い、存命人物に関する否定的な記述については特にそうです。しかし、この「マナー」の項目では、8月11日に出典を求め[1]、その10日以上経ってから[2]除去を行っています。ですから、事実として、あなたのおっしゃる「瞬時に強制除去」を私が常に行っているわけでは無いのです。・・・理由が何であれ、自分の記述を消されることは不愉快なことです。やり方によっては論争の原因ともなります。それは私の反省すべき点でしょう。しかし、一番ウィキペディアを疲弊させるのは「信頼できる情報源が提示されない記述」です。それが論争の潜在的な「タネ」となってしまうのです。公式な方針どおり、「信頼できる情報源」としての出典ある記述をしていただければ、問題は起きにくいのです。公式な方針を尊重せず、出典なしで記述することが、そもそもの疲弊の原因です。出典をもって記述することで一緒に「マナー」の項に寄与しましょう。
しかし、非常に「マナー本」を参考に記述するのは私にとって難しいです。範囲が広範にわたるからです。まとめるのが難しい。ぜひとも一緒に、記事を良いものにしましょう。--Album 2007年9月22日 (土) 23:05 (UTC)[返信]
あなたは利用者‐会話:Albumにて、個々の編集者の裁量にて判断すると述べています。であれば、あなたの示した”10日”という期間に対し、私が10日は不十分と判断→期間延長を求め、ルールの手順に乗っ取りノートで議論を行おうとすることは、全く問題ないではないですか!
あなたの述べる”個々の編集者の裁量”であり、ルールに乗っ取って行われていますからね。しかしAlbumさんは「消されても文句はいえない」としこれを瞬時削除しました。これでは個々の裁量ではなく”Albumさんの裁量”であり、あなたの意見・裁量・主観以外一切認められていないではないですか!!言っていることとやっていることが違っており、相手の意見を一切聞かない→でも自分の我は押し通すというやり方ではありませんか!!それが大きな問題となっているのですよ。
あなたは矛盾したことをお多く述べ、それについて質問しましたが回答が得られておりません。また出典は出版物のみといい出版物以外は認めないような誤った情報を上で記述してますがこれについてもなんら回答がありません。”信頼できる情報源が提示されない記述”としながらご自身でそうではない記事・写真を張っていることも大いなる矛盾です。--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 23:37 (UTC)[返信]
私の行為については、私のノートにお願いします。「マナー」に関する情報は、ここにお願いいたします。--Album 2007年9月22日 (土) 23:40 (UTC)[返信]
マナーにおけるあなたの行為です。今後この項でも上記のような逸脱した行動を抑制したく記載しました。--220.152.28.71 2007年9月22日 (土) 23:48 (UTC)[返信]
「マナー」の項目における逸脱した行為とは、「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです」に反した編集です。このような編集を抑制する必要があるのです。少なくとも現行の公式な方針の上では。--Album 2007年9月22日 (土) 23:53 (UTC)[返信]

上記にある、ルール手順に沿って出典を求めることに何ら問題はありません。それを自分が気にくわないという理由だけで”ルールに沿った手順”を削除する方が問題と思います。--220.152.28.71 2007年9月23日 (日) 00:13 (UTC)[返信]

エスカレーターのマナーに関する情報

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エスカレーターのマナーに関しては、調べたところ『マナーと常識事典』(92p)がベストです。「片側をあける」ことを定着したマナーと表現しつつ、「エスカレーターの立ち位置の疑問」としてコラムをもうけ、「正しくはステップの中央に乗って動かないこと」が良いことだとしています。片側に乗ることが機械を痛めるのだそうです。しかし実際に中央に乗って動かなかったら、実社会では怒られますよね?・・・より良い出典がありましたらご教示ください。--Album 2007年9月23日 (日) 00:00 (UTC)[返信]


出典不明のまま長期掲示記事の移動

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また、マナーとはその集団の成員が快適に生活していくための一手段に過ぎない。しかし、時にマナーは絶対視され、その行為が好ましくないから不快に感じるのではなく、マナーを守らないからという理由でその行為が不快に感じられることがある。また時に、文化などによるマナーの違いを理解せず、自身のマナーを他者に押しつける行為や、マナーを守らないからといってその人間の全人格を否定するような言動が見られるが、これらは「他者を気遣う」というマナーの本質から外れた行為である。

たとえば、よく書籍などで示されるマナーは「エスカレーターは歩く人のために片側をあける(関東では右側・関西では左側)」「電車の中で物を食べてはいけない」「道端に座り込んではいけない」などである。

また「電車の中で物を食べてはいけない」であるが、新橋-横浜間に鉄道が開通されたのと同じような時期に、すでに弁当が売り出された(おにぎりとたくあん)。もともと電車の中というのは食事をしていい場所であったが、近年の都市化により「混雑した車内では食事は控える」というのが一般的なマナーとなっている。しかしこれは「電車内で食事をしてはいけない」ということではない。現に地方田舎では、電車の中で物を食べるのは一般的に見られる光景である。「道端に座り込んではいけない」というのも、欧米諸国や日本特有のマナーであるといえる。そもそも日本でも、戦前戦後すぐ人々が道端に座り込むという光景が日常的に見られた。日本も都市化し生活が欧米化したため「道端に座り込むのは美しくない」というのが一般的な認識としてひろまったが、農村社会では道端に座り込むというのは日常的に見られた風景である。

ただし、もともとマナーには「無用なトラブルを回避する」役割がありマナー違反を注意すること自体がマナー違反であるという前提に立てばそもそも罪状を認定するという刑法の価値観を否定することになる。道端に座りこむという行為ひとつとってもそれは単に見た目が悪いというだけではなく場合によっては往来妨害に相当し治安の悪化や重大な事故を招く可能性がある。そもそも互いの意思や権利を尊重するという理念は「相互認証」が前提であり「一方が一方の人格を否定する行為」をマナー肯定者とマナー否定者の主張の正しさを判定する基準とするならば「マナー違反をした時点で他人の意思を踏みにじった」とも解釈できる為、マナー違反をする者は全人格を否定されても仕方がないという立場もある。

マナーとはそもそも「理念」ではなく「生活の知恵」に相当するもので現実に随伴するものであり、田舎の電車と都会の混雑した電車では同じ食事をするという行為においても結果の現れに相違がある。食べこぼしによる汚染や周囲の人間に押されて食器をひっくり返す危険や場合によっては食べ物の悪臭が問題を起こす度合いの相違である。 行為が及ぼす結果は状況によって左右されるのであり同じ座り込みという行為ひとつとっても「行為が同一であれば環境を無視してよい」という立場において田舎の電車と都会の電車のどちらにすわりこんでもよいという理論は 道路に座りこんでも線路にすわりこんでもよい という結論を同一の公式によって導くことになる。現実に線路上の座り込みを許容する社会は存在しない。 以上の理由によりマナー条項の正当性に対して異議を申し立てる際に時間軸や環境条件を無視して行為の正当性を主張することは論理的ではない。

マナー議論の場において論ずるべきは「状況において適切か否か」であり行為の起源や昔やってよかったことなら今やってもいい、他所でやっていいことならここでもやっていいということではないし本人の価値観と行動の因果関係はまったく関係ないのだがマナーの影響下にある当事者達にとっては「行為の正当性」に論点を絞ることは都合がいいようである。 出典不明のまま長期掲示されている記事は、記入者の個人的主観であると思われます。本文ではなく、ノートで吟味すべきだと思います。--220.210.182.114 2007年11月13日 (火) 06:57 (UTC)[返信]

マナーとエチケット

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ここに書くべきことでなければ申し訳ございません。 「エチケット」という項目にアクセスしたら、ここ「マナー」の項目に転送されました。 しかしながら、「マナー」の本文にエチケットについての言及がありません。 マナーとエチケットは注釈なしに同義語なのでしょうか。 わたしはマナーとエチケットはどう違うのかを知りたくて、Wikipediaを参照したものですので、どなたかおわかりになる方のご教示を仰ぎたいと思います。 --122.216.241.178 2008年8月30日 (土) 14:20 (UTC)[返信]

それぞれ英語とフランス語であり、原義としては「注釈無しに同義」です。が、日本で長く使われた外来語によくある意味の変遷が見られます。そもそも「マナー」も「エチケット」も「作法」と同義なわけですが、茶道のような「完全にマニュアル化され継承されている作法」の存在が一般に普及していた日本に於いては、「作法」と「マナー」は「完全にマニュアル化され継承されているか否か」のニュアンスの違いとして用語の棲み分けがされました。つまり「作法」と言うほど仰々しくない場合に「マナー」を使うといった風に。そしてさらに、「粗方マニュアル化されているマナー」に対し「マニュアル化とは無関係な気遣い」を表現する為に、本来は同じ意味であるはずの「エチケット」が使用され普及したものです。
なのでマナーとエチケットは同義です。作法もマナーもエチケットも、相互の気遣いを効率化する為にマニュアル化された、同じ概念を指しています。単に「マナーと言われると違うような気がする何か」を表現したい場合に「エチケット」を使う人が居る、というだけのことに過ぎません。例えば、「自分が行なう気遣いは特別で素晴らしい独特な価値があるもの」と思っている人とか。傾向としては「他人との相互作用の中での行動を規定する以外のもの」をエチケットと呼ぶ人が多いように思われますが、単に都合良く恣意的に使われているだけであり、何らの定義がされているわけではありません。
世界最狂の魔法使いCray-G 2010年7月7日 (水) 06:28 (UTC)[返信]

マナーとエチケットは語源からしても、日本語における用法としても違いがあります。マナーは「茶道の作法」などと同様に一連のルールを指して「フランス料理のマナー」などとして用いられますが、エチケットとは、一般に「~してはならない」「~しなくてはならない」といった個々の礼儀作法を指すものです。日本語においても「悪いマナー」という言い方は良くありますが「悪いエチケット」とはあまり言いません。--220.8.222.14 2013年6月8日 (土) 05:31 (UTC)[返信]

車内のエチケット

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「電車の中で物を食べてはいけない」 新幹線はダメなのですか?特急電車は? 新幹線は交流電車です。 電化されてない区間などの気動車ならいいのですか? 新幹線で物が食べれなくなります。 地下鉄は都会の電車なので弁当などマナー的に問題だと思いますけど。--218.222.241.47 2011年10月2日 (日) 17:46 (UTC)[返信]

公営地下鉄は禁止されているはずです?公式ホームページで確認して下さい。台湾の台北の公営鉄道は罰金、取られます。ペットボトルでもダメです。現地の女性に教えて貰って助かりました。 Bsx も削除なさるならきちんと公式ホームページを確認して下さい。

岡山電気軌道の路面電車は飲食は禁止です。 http://www.okayama-kido.co.jp/tramway/index.html 大手の鉄道会社では特にホームページで書いていませんでした。--218.222.241.47 2011年10月3日 (月) 09:33 (UTC)[返信]

コメントマナーにせよエチケットにせよ、ルールではありませんので「適用箇所の厳密な定義」は存在しません。最もルールに近い厳密さを持つ「作法」でさえ(法であるにも関わらず)ルールではありません。なので「電車」が新幹線を含むかとか蒸気機関車を含むかということを考える時点で、マナーなりエチケットなりの話題ではありません。その種の疑問は、マナーなりエチケットなりを守れる頭の良い人が少なくなり、馬鹿でもわかる「ルール」になった以後(台北の公営鉄道ではそうなっているのだそうですね、路上喫煙も一部の地方自治体では条令としてルール化されていますし)であれば、ふさわしい話題になることでしょう。ですがそれはルールの話であって、マナーなりエチケットなりの話ではありません。失礼ですが218.222.241.47氏は、マナーなりエチケットなりをルールと混同して認識しているように思えます。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月6日 (木) 02:20 (UTC)[返信]