ノート:マックス・ヴェーバー
1920年に死んだヴェーバーがどうして1931年に成立したナチス政権に協力できるでしょうか。またヴェーバーは反ユダヤ主義に対して公的私的に反対の立場をとっていました。差別主義者とのことですが、ヴェーバーはスラブ系民族に対して差別的感情を持っていたとするような研究者はいるようですが、黒人に対して差別的なセリフを発したというソースは不明でした。このような記述を復活させたくばソースを明記するようにお願いします。--Oddmake 2006年5月12日 (金) 23:44 (UTC)
> 哲学者カール・ヤスパースや、社会学者タルコット・パーソンズもヴェーバーに私淑していた。
ヴェーバーと直接対話したり手紙のやりとりをしたヤスパースと、ヴェーバーの死後ヴェーバーを評価し英語圏に紹介したパーソンズを、一律に「私淑していた」というのはどうでしょうか。
関連項目から「猪口孝」を削除しました。 政治学者の方のようですが、敢えて他の優れたヴェーバー研究者や批判者を差し置いてここで真っ先に挙げるべきとは思えなかったためです。氏のHPも拝見しましたが、特にヴェーバーに関する専門的研究は発見できませんでした。これを書き込まれた方が復活を希望されるなら、上記の私の疑問に答えていただければ思います。--T-maru 2006年9月26日 (火) 10:54 (UTC)
「(現世の)呪術からの解放」を「脱呪術化」と直した人がいますが、修正する意味がないと思いましたので元に戻しました。--T-maru 2006年12月29日 (金) 10:25 (UTC)
「社会科学におけるマルクス主義との関連という文脈」→大塚久雄だけならこれもありかもしれませんが、丸山真男には当てはまらないし、ヴェーバーでマルクス主義的社会科学から脱しようという動きは間違いなくあったと当時の人から聞いています。なので「関連」ではなく「対置」に再修正しました。--T-maru 2007年5月14日 (月) 13:32 (UTC)
以下を削除させていただきました。 「また、ウェーバーは欧米と東洋の食糧難の克服方法の違いについても概観した。前者では科学技術を発展させて食糧増産に努めたのに対し、後者ではそのような事をせずに、逆に統治者が科学技術を侮って権力を濫用して住民を酷使・搾取することで食糧増産を怠ったとしており、清朝などの東洋各国が19世紀後半に進出してきた日欧米の列強各国に屈することとなる理由の一つとなった、としている。 」 理由は、ヴェーバーの主要な論点でも何でもなく、ヴェーバーの主要な業績としてわざわざ言及する意味を見いだせないからです。またどこから引用しているのか不明ですが、要約の仕方にも疑問があります。「儒教と道教」の関連ありそうな個所をざっと見てみましたが、直接的にここに書かれた内容そのものを見つけることはできませんでした。--T-maru 2008年10月2日 (木) 11:25 (UTC)
出典として注釈を入れている記事(引用文)の中にまで「要出典」タグが付けられていたので削除しました。(エアフルト大聖堂の記載)--T-maru(会話) 2018年1月14日 (日) 14:00 (UTC)
関連カテゴリの改名提案
[編集]Category:マックス・ヴェーバーとその著作をCategory:マックス・ヴェーバーへ改名し、著作については下位にCategory:マックス・ヴェーバーの著作として分離することを提案します。通常の個別人物カテゴリと著作カテゴリの構成を踏襲します。--エンタシス(会話) 2021年3月13日 (土) 13:36 (UTC)
- 改名しました。--エンタシス(会話) 2021年3月20日 (土) 14:19 (UTC)
ヴェーバーのハイデルベルク大学でのエピソードの注釈を削除しました。
[編集]「学制仲間と祝杯挙げる、浮かれ騒ぐ、そのうちに霙(みぞれ)の道に滑って足の骨を折って入院などで、結局大学の講義を大して聞かないままハイデルブルクを去りドイツ最古の法学の名門大学を放校となり、家帰ると母親ヘレーネにいきなり平手打ちを食うような状態であった」(長部日出雄『マックス・ウェーバー物語 二十世紀を見抜いた男』新潮社<新潮選書>、2008年(68-70ページ))
を削除しました。 理由 (1)前半のエピソードはマーク・トウェインが書いたアメリカ人留学生の話(あるいはトウェインの創作コント)であり、ヴェーバーの逸話ではない。 (引用書、P.68 4行目、「トウェインは入牢者{注:ハイデルベルク大学で有名な学生牢のこと}の一例として、アメリカ南部からやってきたある学生の話を書く。 {中略}マックス・ヴェーバーの場合、生来の真摯な性格から推して、むろんそんなにひどくはなかったであろうけど、学生歌と愛国歌が生涯ついてまわった。」) (2)ヴェーバーがハイデルベルク大学を放校になったという事実は引用書、またはマリアンネの伝記等にもどこにも書いていない。大体この時に放校になったとしたら、後に何故ハイデルベルク大学はヴェーバーを経済学の教授として受け入れたのか。 (3)この当時も今もドイツの大学制度では、複数の大学を渡り歩く学生は多くおり、ヴェーバーがハイデルベルク大学を去ったのは放校になったからではない。 (4)ヘレーネが家に戻ったヴェーバーに平手打ちを食わせたのは、ヴェーバーが決闘で顔に刀傷を付けて帰って来たことが主因。--122.18.242.55 2022年11月26日 (土) 12:37 (UTC)