ノート:マスケット (1867年生まれの競走馬)
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改名提案
[編集]先日この記事の馬と(日本語として)同名のマスケット (1906年生まれの競走馬)という記事を立てました。そこでこの記事もマスケット (1867年生まれの競走馬)に改名したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。--(あ)(会話) 2021年9月22日 (水) 01:28 (UTC)
- 改名後、もとのマスケット (競走馬)は2記事への曖昧さ回避として運用してはどうでしょう。一般的には_()つきの曖昧さ回避を作らないのが基本則ですが、(スペアミントの祖のマスケットしか知らない人などが)誤って記事やリンクを作成するのを防ぐ効果(en:WP:INCDAB)があります。--柒月例祭(会話) 2021年9月22日 (水) 03:18 (UTC)
- (賛成)平等な曖昧さ回避に賛成します。残骸については曖昧さ回避記事マスケットへのリダイレクトに変更してはどうでしょうか。削除しないことで誤ってリンク切れを発生させたり重複記事が作成されたりするのを防止できるという指摘には大いに同意しますが(特別:リンク元/アジャックス (競走馬) とかまさにリンク切れ発生してますね)、独立した括弧付き曖昧さ回避記事を作成する必要はないのでは。―霧木諒二(会話) 2021年9月25日 (土) 07:21 (UTC)
- 報告 1週間ほど待ちましたが、反対意見が特になかったので改名を実行いたしました。とりあえずリダイレクト先は霧木さんのご提案されたマスケット(曖昧さ回避)へのリンクにさせていただきました。両名ともご参加ありがとうございます。--(あ)(会話) 2021年9月28日 (火) 00:50 (UTC)
生産者について。
[編集]生産者が「グラスゴー卿(Lord Glasgow)」とのみ記載されていますが、これはジェームズ・カー=ボイル (第5代グラスゴー伯爵) で合ってるでしょうか(自殺したという話が日本語版にも英語版にもないので、ちょっと不安)。―霧木諒二(会話) 2021年9月23日 (木) 12:08 (UTC)
- マスケットが2歳の時というのが1869年で、ジェームズ・カー=ボイル卿との死亡時期と合致しますが、現状ではそれ以上の詳しい情報源に突き当たれないので確定できません。自殺したというのはThoroughbred Heritageの「Lord Glasgow died himself」という記述を参照したもので、それ以上の詳しい情報はありませんでした。--(あ)(会話) 2021年9月23日 (木) 12:34 (UTC)
- 私なりに資料を漁ってみましたが、「マスケットの生産者は『第5代グラスゴー伯爵』だ」という明瞭なものは見つけられませんでした。「マスケットの生産者は『Lord Glasgow』だ」というものは山ほどあります(例『General Stud Book vol.11』(p423) 上から3番めの「WEST AUSTRALIAN MARE」の1867年生まれのb c by Toxophilite(Toxophiliteの鹿毛の牡駒)がマスケットで、生産者は「Ld Glasgow」=Lord Glasgow)。まあ、1867年時点で「グラスゴー卿」という爵位が複数あったのでないかぎり、第5代グラスゴー伯爵で間違いないでしょう。
- 問題は「自殺」したのかどうかですが、これはわかりませんでした。「自殺」とも「自殺ではない」とも裏が取れたわけでもないです。
- 1869年11月3日の新聞記事では、グラスゴー卿の遺言について報じられています。死の2日前に遺言を追加した云々とありますが、死因については触れられていないと思います。
- Throughbred Heritageですが、「kill himself」ならば自殺でしょうけども、「die himself」で自殺したという意味になるのかなあ?自分の英語力には自信がありません。ここは「(マスケットではなく)誰あろう、伯爵自身が亡くなってしまったので」的な強調なのかもしれません。
- マスケットの記事としては、グラスゴー卿の死因がなんであろうと文脈上はあんまり関係なく、「そうこうしているうちにグラスゴー卿が亡くなってしまったのでマスケットは殺されずに済んだ」という話なので、「自殺」という表現を避けて「死」とかで誤魔化してもいいような気もします。--柒月例祭(会話) 2021年9月23日 (木) 17:03 (UTC)
- なるほど、では本文でも「自殺」の部分を書き換えておきますね。--(あ)(会話) 2021年9月23日 (木) 17:25 (UTC)
- 調査ありがとうございます。Thoroughbred Heritage を見たところ初出時“the Earl of Glasgow”と言及されており、en:Earl of Glasgow に同名の別の爵位なども挙げられていないようです。没年の整合も取れていますので、マスケットとカーバインの本文の「グラスゴー卿」を第5代グラスゴー伯爵へリンクしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。―霧木諒二(会話) 2021年9月24日 (金) 12:55 (UTC)
- グラスゴー卿についてはOKと思います。グラスゴー卿については『Biographical Encyclopaedia of British Flat Racing』ISBN ISBN 0354085360 に「GLASSGOW, James Carr-Boyle, 5th Earl of (1792-1869)」という単独記事があり、彼が気に入らない馬を撃ち殺していたことなどが書かれています。(マスケットは出てきませんけどね)
- ほか、『The Heath & TheHorse』ISBN 978-1-78130-023-7 p.261は、まるごと1ページが5代グラスゴー卿と競馬に関する記述になっています。『競馬の世界史』p.121,p.131,p132、『Headquaters』p82にもグラスゴー卿のことが詳しく書かれていますが、マスケットに直接寄与する情報はなし。「自殺」に関する情報もありません。
- Training at Newmarket(John Ferneleyによる1849年の作品)で、画面の右側で腕組みしている2名の男性のうち、白い帽子が5代グラスゴー卿です。(間違いなく絵の著作権は切れているはずなので、その気になれば利用できるはずですが・・・)ここに描かれている通り、海軍の船乗りだったグラスゴー卿は、軍役を退いた後も、普通のズボンではなく、帆布製のズボンや(海軍風の)breech(半ズボン)にリーファー・ジャケット、それに白い帽子といういでたちを貫いており、「(海軍時代にもまして)エキセントリックな人物として有名だった」とあります。グラスゴー卿の隣の黒い帽子が競馬仲間のジョージ・ベンティンク。大金持ちだったグラスゴー卿は競馬仲間のジョージ・ベンティンクが競馬から足を洗うときに、その牧場を1万ポンドで買取りました。それが、グラスゴーの死後、ジョージ・ペインに渡ります。(この絵のシーンは競馬をやめたベンティンクが1848年4月にニューマーケットを訪れることになり、わざわざその姿を描かせるために画家のファーンリーを招聘したもの。ベンティンクは9月に急死し、この絵はその死後に発表された。)
- 「Lord Peel」ですが、これはオーランド (競走馬)のオーナーブリーダーだったen:Jonathan Peelが正解です。ロバート・ピールの弟。『Biographical Encyclopaedia of』のグラスゴー卿の記事には「On his death Glassgow left his horses to be divided between his old friends Gen Peel and Mr George Payne」とあり、「Peel, Major-General Jonathan(1799-1879)」の記事が対応しています。(記事を読んだ限りですがアーサー・ピールはGeneralと呼ばれる地位にはないですよね?)
- 上に挙げた当時のニュース記事にも次のようにあります。
He was the oldest member of the Jockey club, and has bequeathed to Mr George Payne £25,000, in addition to one half of the horses in training , leaving the other portion to General Peel. Grey River Argus紙、1869年9月23日付「MISCELLANEOUS」より
- 19世紀の大馬主のひとり、en:Jonathan Peelは1859年の時点でLieutenant-Generalだったとあります。この人はGeorge Payneともつながりがある。1844年にオーランドで第65回ダービーステークスを勝ちますが、このときのランニングレイン事件を解決してPeelを優勝馬主にしたのがベンティンク。
- Throughbred Heritageの執筆者Patricia Erigero(アメリカ人)は、General Peelを「Lord Peel」と表記していますよね。Jonathan Peelは男爵以上の爵位を受けてはいないようなので、Lordの英和辞典の第一義的な用法からすると、Jonathan Peelを「Lord Peel」と表記するのは間違いなのかも(正直私はよくわからない)。
- めんどうなことに、5代グラスゴー卿の所有馬でGeneral Peelという名競走馬(2000ギニー勝ち馬)・名種牡馬がいまして、さらにJonathan Peelの所有の二冠馬Archibaldがいて、Jonathanの後を継いだ息子がArchbald PeelでGlassgowの牝馬はArchbald Peelが受け継いでいて、これらが検索の邪魔をするんです(笑)--柒月例祭(会話) 2021年9月24日 (金) 18:57 (UTC)
- 第5代グラスゴー伯爵へのリンクの追加を行いました。
- さらなる追加情報ありがとうございます。爵位を帯びたことがない Jonathan Peel を“Lord Peel”と呼ぶのはおかしいはずですが、状況的にErigero氏が誤記したと判断するのが妥当でしょうね。初代ピール子爵の記事・ブリタニカ百科事典11版の項目・The Complete Peerage 初版第8巻の項目で Arthur Wellesley Peel が軍人になった旨や馬主をしていた旨の記載はありませんし、また彼がピール子爵になったのは1895年でありグラスゴー卿が死去した1869年当時は彼もまだ Lord Peel と呼ばれてはいなかったので比定するにはやや弱いです。なお The Complete Peerage 初版第6巻 (N-R) では PEEBLES の次は PELHAM になっており、19世紀末時点で PEEL という爵位は(8巻の補遺に収録されている1895年創設の Viscount Peel を除いて)存在しないと思われます。―霧木諒二(会話) 2021年9月25日 (土) 06:55 (UTC)