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ノート:ヘンペルのカラス

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本文を全文改稿しました。 元の版は、言いにくいですが、「百科事典的でない」記述が散見されたのと、「?」な記述が多かったので。 ただ気になっているのは、元の版は科学哲学的見解を反映しようと試みていたようですが、 私は科学哲学の方は全く分からないので、こうした部分が消えてしまいました。

ヘンペルはヒルベルトの弟子で数学を専攻してはいたものの、 科学哲学的意図を(も?)込めてカラスの件を発表したようなので、 ここを消してしまったのがとても気になってます。

どなたか詳しい方、加筆をお願いいたします。219.35.138.30 2006年10月23日 (月) 15:43 (UTC)[返信]

少々文章がくどすぎるため、簡潔明瞭に推敲する必要があるかと。李白 2006年11月16日 (木) 07:21 (UTC)[返信]

ならば推敲をお願いします。219.35.138.30 2006年11月16日 (木) 18:23 (UTC)[返信]

下記の文章をいったん削除しました。

  • 他の理由としては「○○は△△」という文が、「○○は一般的に△△」という意味にとれるのに対して、「△△でなければ○○」という文は「例外なく」という意味にとれてしまうことが考えられる。数学の命題では「○○は△△」といった場合も例外なく成り立つという意味である。


日常語で、「○○は△△」=「○○は一般的に△△」、「△△でなければ○○」=「△△でなければ例外なく○○」なのは本当ですが、 これはヘンペルのパラドックスとは無関係な気がします。

いや、この解釈により、

  • 「○○は(一般的に)△△」⇒ 「△△でなければ(例外なく)○○」

が偽にはなるのですが、

  • 「△△でなければ(例外なく)○○」⇒「○○は(一般的に)△△」

のほうは依然として真である気がします。

ヘンペルのパラドックスで利用しているのは、後者な分けで。

勘違いだったらすみません。ただ、この短い解説からはこのように理解してしまったので、 もし復活するならより詳しく解説していただけると幸いです。

219.35.139.100 2008年1月25日 (金) 19:38 (UTC)[返信]

この記事の組み立て方

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こういう内容の記事については、次のような組み立て方をすると良い。

まず最初に、一節を立て、ヘンペル自身がこの問題を扱った出典(書名、論文名)をはっきりと明記し、この問題をどのような形、どのような言い回し(表現)で提起したのか、紹介する。できるだけ素直に、この段階では他の論者の論評や評価を一切交えず記述すべき(ましてや出典不明のウィキペディアン個人の評価などは絶対NG)。この節の段階ではヘンペルの言明内容を肯定したり否定したりする論評をゴチャゴチャ書き加えない、ということ。なおかつ、ヘンペルの言明とは距離を置き、あくまで中立的に記述すべき。

その次の節以下で、その後、ヘンペルの提示に対してさまざまな論者(哲学者、科学哲学者、論理学者等々)がこの問題に関して指摘したり論評したり、肯定したり否定したことを、論者名とその発言の時期を必ず明記しつつ中立的に紹介してゆく。このテーマで一般的に知られる論者や特に有名な論評から優先的に紹介してゆくのがひとつの方法。少しは整理して配列してよいかもしれない。なお、これを紹介する段階で論者の言明内容を肯定したり否定したりする論評はできるだけ書き加えない。それをやると中立性が損なわれる。あくまで中立的に書く。論評に対する論評を許すと、ウィキペディアンの中には自分の思いこみや好き嫌いで判断し、特定の方向に向けて恣意的にコメントを取捨選択するウィキペディアンがいる。そういう行為は一種の独自の研究なので要注意。仮に論評に対する論評を記述するとしても、少し小さいフォントにしたり、一段下げくらいにすると、一次的論評と二次的論評の区別がついて、中立性が保てるかも知れない。

どの段階でも論者がはっきりしない、ウィキペディアン個人による推論・判定・評価(=独自の研究)を混入させないことが大切。--222.146.189.80 2011年8月20日 (土) 05:55 (UTC)[返信]

コメント もちろん独自研究を混入させないことは大前提です。ですが222.146.189.80さんが提示する書き方は、この問題を扱った百科事典の記事としてどうなのでしょうか? 本人の発言を丸ごと引用するならウィキクォートで行うべきですし、そもそもカール・ヘンペルは1997年没であるため著作権の問題も生じます。それと、理論そのものが議論の対象になっている場合や、文学や芸術などを扱った記事では、様々な論者の評論を列挙することは有益に違いませんが、この記事の場合にそれが有効かというと少々疑問も感じます。そもそも議論の主題になっているものなのでしょうか。
そもそも出典を示す責任は掲載を希望する側にありますので、222.146.189.80さんが本記事にそのような情報(カール・ヘンペルがこの問題どのように扱い、他の論者がそれに対してどのような論評したか)を書き加えたいのであれば、222.146.189.80さんがその出典を提示して下さい。
この記事の主題の場合、記事の内容が正しいか否かについては、児童書などに書いてある内容でも十分に検証可能だと思いますので、Googleブックスで拾って出てきた書籍などを参考文献として追加しておけば宜しいかと思います。--Kanohara 2011年8月20日 (土) 14:28 (UTC)[返信]

直感に反する理由

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直感に反する理由は、現実には、すべてのカラスを調べないで黒くないものをすべて調べることは不可能だからではないでしょうか? 数十羽(数羽でも1羽でも)のカラスを除いてあらゆるものをすべて調べたとしても、残ったカラスをすべて調べない内は「まだ調べてないものの中に黒くないカラスはいない」とは言えないでしょう。
「カラスが黒い檻にいることを証明する」例でも、4つめの檻を見なければ、「カラスがいる」ことも「檻が(3つではなく)4つある」ことも「4つめの檻が黒い」こともわからないでしょう。

コメント「すべてのカラスは黒い」にせよ「すべての黒くないものはカラスではない」にせよ、論理的に証明不可能。なぜなら、「すべてのカラスを調べた」ことも「すべての黒くないものを調べた」ことも証明する手段がない。したがって、「すべてのカラスを調べる」ことや「すべての黒くないものを調べる」ことは不可能。動物園の例にしても、すべての檻を見ることができ、ほかに檻がある場所は存在しないことが自明である程狭くてほかに何もないのでない限り、「檻が4つしかない」ことを証明することは不可能だし、「檻の外にカラスがいない」ことも証明不可能。証明できないことを証明できるかのように語っているヘンペルの説は論理的に誤っており、パラドックスではない
コメント「すべての○○を調べる」ことは不可能である。なぜなら、「すべての○○を調べた」ことを証明するためには、「調べていない○○が存在しない」ことを証明しなければならないからだ。これは「神が存在しない」ことを証明できないように、証明不可能な命題だ。「すべての○○を調べる」ことは、現実的に不可能なだけでなく、論理的にも不可能である。ヘンペルは偽である命題を真であると仮定して議論を展開しているので、「ソクラテスが人間でなければソクラテスは死なない」という命題と同様、論理的には真であるが、何の意味も持たない--240B:10:8480:5400:B092:1441:31E9:3D89 2023年11月10日 (金) 08:17 (UTC)[返信]