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ノート:プラハの春

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チェコスロヴァキアという表記が使われていますが、確か当時の日本語表記はチェコスロバキアだったと思います。日本語版Wikipediaでも、チェコスロバキアで項目が立ってます。また、チェコスロバキアから分離した2つの国は、チェコスロバキアで項目が立ってます。本記事内のスロヴァキアもそれらに合わせて書き換えたほうがよいのではないのでしょうか。Modeha 07:40 2004年5月10日 (UTC)

合意のない編集を止めてください

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いわゆる山手線方式を変更しようとしているユーザーが存在しますが、ノート等で合意を得ていないために現状復帰します。これを変更する場合、なぜ山手線方式ではダメなのかを語り、合意を得てからにしてください。なお、合意が得られていない編集をされた場合、荒らしと判断してリバートすることを先に宣言します。向日葵三十郎 2006年8月6日 (日) 12:26 (UTC)[返信]

この記事も分割先が2つしかないので曖昧さ回避記事でも山手線方式でもなく、{{anotheruses}}を使えばよい。異議のある人は、曖昧さ回避記事でなければならない理由または山手線方式でなければならない理由を1週間以内に添えてください。私が{{anotheruses}}にしたい理由は、ノート:元和に書いていますので、そちらを読んでください。--Goki 2006年8月7日 (月) 06:09 (UTC)[返信]

  1. プラハで毎年行われる音楽祭。プラハの春 (音楽祭)を参照のこと。
  2. 春江一也の小説。プラハの春 (文学)を参照。

とあるが、「プラハで毎年行われる」はプラハの春 (音楽祭)を見れば分かること。「春江一也の」は プラハの春 (文学)を見れば分かること。このプラハの春の項目で説明することではない。そして、そうなると山手線形式を使用する理由はない。{{otheruses}}を使用したものに書き換えたい。2006年8月から特に{{otheruses}}を使用することに対する異論がこの項目では出てないようなので、しばらくたったら保護解除を申請した上で書き換えさせていただきます。Stream47 2007年6月25日 (月) 00:23 (UTC)[返信]

と思いましたが、10か月間経過ということを考え、今保護解除を申請しました。--Stream47 2007年6月25日 (月) 00:37 (UTC)[返信]

保護が解除されました。しばらく様子を見て、山手線形式を廃止させていただきます。--Stream47 2007年6月26日 (火) 02:10 (UTC)[返信]

{{otheruses}}に変更しました--Stream47 2007年7月1日 (日) 03:31 (UTC)[返信]

関連する作品などへの追加

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 関連する作品に「存在の耐えられない軽さ」、また新たに関連人物として、この作品の作者ミラン・クンデラと、プラハの春を撮影した写真家ジョセフ・クーデルカを追加したいと思ったのですが…。--以上の署名のないコメントは、25012501会話投稿記録)さんが 2006年11月2日 (木) 17:01(UTC) に投稿したものです。

存在の耐えられない軽さを追加してみました--Stream47 2007年6月26日 (火) 02:30 (UTC)[返信]

虐殺の有無

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何人の犠牲者が出れば虐殺とみなすことができるかは別として、参考まで軍事侵攻による犠牲者数を挙げておきます。1968年8月21日から9月3日までの犠牲者数は、死者72名、重傷者266名、軽傷者436名(Kieran Williams, The Prague Spring and its Aftermath: Czechoslovak Politics, 1968-1970, Cambridge University Press, 1997, p.158)。--133.19.126.5 2008年5月21日 (水) 11:58 (UTC)[返信]

本文中に軍事介入による死者に関する記述が一切ない状態で、冒頭の定義部分にのみ「虐殺」という文言をはさむのは賛成しかねますね。--Juqipedia 2008年6月30日 (月) 10:05 (UTC)[返信]

全共闘や新左翼学生運動がソ連による軍事介入に批判的だった、の真偽について

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「日本への影響」という節に、「当時大きな盛り上がりを見せていた全共闘や新左翼諸派による学生運動においてはソ連は批判の対象であり、ソ連による軍事介入に対しても批判的な反応が示された」とあります。

出典が示されていませんが、これは事実でしょうか。全共闘も新左翼(中核派など)も一枚岩だったわけではなく、ソビエト共産主義にシンパシーを持つ人はいたはずです。日本社会党はプラハの春弾圧を支持しましたが、全共闘と社会党は政治的に近い立場にもありました。よってこの記述は事実ではなく、不適切であると思います。

「日本社会党では、左派の長老である向坂逸郎に代表されるように、公然とソ連による軍事介入と市民の殺害に加担する声が上がり、その後の党勢の衰退に拍車をかけた」にも疑問があります。党勢の衰退に拍車をかけたのは、この事がどこまで影響しているのか検証されていません。主観的な記述であり、これも不適切だと思います。編集する人は、出典を添えて記述すべきだと思います。--120.74.68.231 2017年4月24日 (月) 21:36 (UTC)[返信]

関連項目および資料の削除について

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@ラッツさんは「関連項目」を無理に設置する必要はありません。下手にこれを設置すると、関連性の薄い記事名が次々に追加されていく傾向にあるため。どこがどう関連するのか、の出典も無い。「~の春」と付くものをいちいち追加していたらキリが無い。「関連項目」をわざわざ作らなければならない理由がありません。」として、関連項目を全て削除し、かつ日本語文献も削除しています。

しかし、Wikipedia:関連項目で説明されているように、関連項目という内部リンク集は、記事を理解する上での補足として役立つものとして設置が推奨されています。例えば、Wikipedia:秀逸な記事はいずれも関連項目が設置されています。従って、ラッツさんの「関連項目を無理に設置する必要はない」という主張は、ガイドラインに反しています。また、「無理な設置」という主張にしても、既存の関連項目は、まったく「無理な設置」ではありません。仮に関連項目が非常に多い記事であれば、改善されるべきしょう。しかし、プラハの春記事の関連項目の数は大したことないどろこか、適度です。また、関連項目としてリンクする場合に出典は特に求められていません。また、「~の春」と付く記事もキリはありますし、5つ以外にあるでしょうか。いずれにしても「無理に設置」したものではありません。

日本語文献『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』の削除については、本文で脚注を用いて利用していないという理由であれば、別節を設置することも可能でしょうが、資料集なので、「資料」節にあることは適切です。

以上をもちまして、関連項目、および日本語資料集の削除には反対します。--資生論会話2023年12月14日 (木) 14:40 (UTC)[返信]

2023年8月18日にこの記事を翻訳作業で加筆したラッツと申します。
資生論さんが紹介されているWikipedia:関連項目には「関連項目は、語彙が類似しているだけの項目や、多少の関連性が有るに留まる項目を紹介する一覧表ではありません。本来、内部リンクは本文記事内の文中に包括されるのが理想的であり、「関連項目」のセクションに挙げられる項目は深い関連がありながら本文に組み込むことが困難な項目に限られるべきです」と書かれてあります。私が「『~の春』と付くものをいちいち追加していたらキリが無い。『関連項目』をわざわざ作らなければならない理由がありません」と申し上げたのがお分かりになりませんか?
以前、「ボディビル」の記事を翻訳した際、「関連項目」の節に「サラダチキン」なる記事名がありました。しかしながら、「ボディビル」の記事内には「サラダチキン」については何も言及されていないし、「サラダチキン」と「ボディビル」がどう関係するのか、も何も書かれていない。読者の理解に役立つとも思えませんので、私はこの「サラダチキン」を削除致しました。「ストレッチ」の記事でも、「ストレッチマン」なる記事名が追加されているのを見て、私はこれを削除致しました。「ストレッチ」というものについての詳しい理解が深まる、とは思えないゆえに。 「屍姦」や「快楽殺人」の記事でも同じ現象が起こっていました。これらの記事の「関連項目」の節には、関連性が薄かったり、ほぼ無関係の記事名が、これでもかと羅列されていました。私が要約欄で「『関連項目』を無理に設置する必要はありません。下手にこれを設置すると、関連性の薄い記事名が次々に追加されていく傾向にあるため」と書いたのは、このような背景があるからです。
それと、資生論さんは勘違いされておられます。私は『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』の単語は削除しておりません。これは、ソ連によるチェコスロヴァキアへの侵攻に関係する文献の一種なのであり、それならば、と「関連作品」節の「著書」に組み込みました。資生論さんは私の編集の何を見ていたのでしょうか?
資生論さんは2023年12月14日・23時44分の編集で、「~の春」の項目名に「民主化運動」と追記されておられますが、「プラハの春」のどこが民主化運動なのでしょうか?これは、記事にもあるように、アレクサンデル・ドゥプチェクが「人間の顔をした社会主義」と題した、「国民にある種の自由を提供しよう」という政策です。検閲の廃止や報道の自由、集会の自由、宗教礼拝の自由、といったものです。1968年8月20日以前のチェコスロヴァキアの国民が、ドゥプチェク政権に対して、何か自由化を求めて示威運動を起こしたのでしょうか?資生論さんが追加された「~の春」なる項目名は、その多くが、国民が民主化を求めて動いた政治運動を指すものであり、「プラハの春」とは何の関係もありません。
疑問なのは、資生論さんはどうしてそこまで関連項目を作りたがるのでしょうか?「Wikipedia:秀逸な記事はいずれも関連項目が設置されています」と書いておられますが、こんなのは理由になりません。「あっちに書いてあるから、こっちにも…」そんな理屈が通るのでしょうか?第一、「秀逸な記事」とは何の話をされているのでしょうか?現時点で、この記事「プラハの春」は、「秀逸な記事」ではありません。「秀逸な記事」に認定された記事は、いずれも例外なく、「関連項目」が用意されているのでしょうか?それとも、「『秀逸な記事』に認定された記事には、『関連項目』の節を作らねばならない」というルールでもあるのでしょうか?「関連項目としてリンクする場合に出典は特に求められていません」と書いておられますが、この姿勢は、ウィキペディアの基本的なルールである「すべての記述に出典を付けること」に違反していませんか?Wikipedia:関連項目には、「関連項目を付ける際には、出典は必要ない」なんて趣旨はどこにも書かれていません。「どこがどう関係するのか」、その出典を示す義務すら怠るとは、どういうつもりでしょうか?
私の一連の行動のどこがどう指針に違反しているのか、を教えてくださいませんか。
Wikipedia:関連項目には「関連項目の数は上限が決められていませんが、必要最小限に留めるべきです。関連項目が多すぎる場合、{{関連項目過剰}}のテンプレートを使うことができます」とあります。わざわざこんなことが書かれるということは、「関連項目」の節に、次々に記事名を追加しようとする人が出てくるのだ、ということを示唆しているのではありませんか?「屍姦」や「快楽殺人」の記事のように。
資生論さんは、「なぜ関連項目を追加したのか」については何も語っていません。一連の関連項目を追加することで「理解が深まる」というのであれば、資生論さんが追加された一連の項目名が、「『プラハの春』とどう関係するのか」ぐらいは説明すべきではありませんか?
「秀逸な記事」がどうとか、という話ではなく、「なぜ資生論さんは関連項目を作りたいのか」を教えていただきたい。--ラッツ会話2023年12月14日 (木) 19:48 (UTC)[返信]

@ラッツさんは「プラハの春」と民主化運動が関係のないことと主張されていますが、これについては、以下のように多数の専門家による文献および新聞が、「プラハの春」を民主化運動として説明しています。

  • 鹿島正裕「「民主化の波」の成功と失敗──東欧諸国とアラブ諸国の比較試論 」放送大学研究年報 第33(2015)125-139頁でプラハの春を共産党独裁下の民主化運動とする。
  • 宮崎英隆「チェコ事件の考察」東海大学教養学部紀要第6輯、1975年、p93-120.で「1968年におけるチェコスロバキア民主化の政治過程」「チェコスロバキアにおける政治的民主化」。
  • 芦川智、金子友美、高木亜紀子 「チェコ共和国における民主化と都市空間の変化」學苑・環境デザイン学科紀要 No. 861,p 2-14, 2012-07-01,昭和女子大學で「チェコの民主化の発端は1968年「プラハの春」と呼ばれる改革運動である。」(p.3)
  • 清水聡「「ソ連・東欧圏」における経済改革と政治危機 1960 年代のドイツ政治外交と「プラハの春」」開智国際大学紀要 第 20 号(2021),p.5.では「プラハの春」を「チェコスロヴァキアにおける民主化を要求した運動」とある。
  • 「プラハの春」弾圧から50年、犠牲者を追悼 反ロシアデモも チェコ、AFP,2018年8月21日 17:46で「社会主義体制下にあったチェコスロバキアで巻き起こった民主化運動」
  • ドプチェクとともに改革を推進した副首相オタ・シクもプラハの春を「つまりチェコスロバキアの民主化、自由化」と述べている(オタ・シク『チェコ経済の真実』林三郎訳、毎日新聞社、1970,p108.赤川元章「体制転換と金融システムの構造変化1 :チェコスロバキアの場合」三田商学研究vol.58. no.5.2015,12.p.15-33.より)
  • 東京新聞2018年4月9日夕刊3面で、プラハの春を民主化運動として、人間の顔をした社会主義を目指した改革の夢は、自由化の行き過ぎを恐れた旧ソ連などの侵攻でいったん挫折したが、20年後に民主化を達成したと説明。元首相ペトル・ピトハルトは当時記者として、共産党の民主化路線を先を行く改革案を提示したし、歴史学者オルドジフ・トゥーマも、プラハの春の遺産は、市民運動の高まりにあったとして、その後の民主化で党内改革よりも市民発の革命が世の中を変えたという。
  • 小倉英敬「ラテンアメリカ 1968 年論序説」人文学研究所報 (47), 1-23, 2012-03-25,神奈川大学人文学研究所.でプラハの春で要求されたものは「社会主義体制の枠内での民主化であった」
  • Sylvia Poggioli, Prague Spring: An Exercise in DemocracyAUGUST 21, 200812:58 AM ET,NPRでは、With the election of the mild-mannered Slovak Alexander Dubcek as the new leader, it was the Communist Party that spearheaded the democratization process. It was called "socialism with a human face," and its goal was to blend socialism and democracy. (ドゥプチェクが新指導者に選出され、共産党が民主化プロセスの先頭に立った。それは「人間の顔をした社会主義」と呼ばれ、その目標は社会主義と民主主義の融合だった。)
  • TFJ Editorial Crew, AN ATTEMPT TO DEMOCRATIZATION: THE PRAGUE SPRING,9 November 2021, The FEAS Journal.で「Dubcek has tried to move along a democratic, liberal and reformist line. (ドゥプチェクは民主主義、自由主義、改革主義の路線に沿って進もうと努めてきた。 )
  • Stoneman, Anna J. “Socialism With a Human Face: The Leadership and Legacy of the Prague Spring.” The History Teacher 49, no. 1 (2015): 103–25. http://www.jstor.org/stable/24810503.では「Dubcek 's leadership gave rise to an explosion of artistic expression, free discussion, and alignment with democratic ideology known as the Prague Spring. (…) the Prague Spring left as a legacy the renewal of active citizenship and democratic ideals, paving the way to the fall of Communism in Czechoslovakia in 1989.(ドゥブチェクの指導は、プラハの春として知られる、爆発的な芸術表現、自由な議論、民主主義イデオロギーとの一致を引き起こした。 (…) プラハの春は、積極的な市民権と民主主義の理想の刷新を遺産として残し、1989年のチェコスロバキアにおける共産主義崩壊への道を切り開いた)
  • Socialism with a Slovak Face: Federalization, Democratization, and the Prague Spring,Scott Brown,Volume 22, Issue 3,https://doi.org/10.1177/0888325408315824 では、プラハの春の文脈で起こった「連邦化論争」、1968年の連邦化と民主化の議論に関するスロバキアの政治エリートの意見の研究。当時のスロバキア人で、連邦化と民主化は相互に依存しており、連邦化が民主主義に必要な前提条件だと考えていた。
  • The Prague Spring: Dubček, the Media, and Mass Demoralisation, By Jan Culik on August 23, 2018,https://www.wilsoncenter.org/blog-post/the-prague-spring-dubcek-the-media-and-mass-demoralisationで「It was extremely difficult for the invading armies to quench the Czechoslovak democratisation process.(侵略軍にとって、チェコスロバキアの民主化プロセスの鎮圧は極めて困難であった。)」


* CEELI Institute, o.p.s., https://ceeliinstitute.org/commemorating-the-50th-anniversary-of-the-prague-spring-2/ Commemorating the 50th ANNIVERSARY of the PRAGUE SPRING]では、「a brief period of liberalism, economic and social reform and democratization of Czechoslovakia, known as the Prague Spring. 」で「チェコスロバキアにおける短期間の自由主義、経済的、社会的改革、民主化 」

  • Jan Pauer,The Dispute about the Legacy of the “Prague Spring”, 20 August 2011, European Network
Remembrance and Solidarity, https://enrs.eu/article/the-dispute-about-the-legacy-of-the-prague-springで the “Prague Spring” is viewed by the majority as an attempt to renew democracy and as a matter which concerns the majority of the nation.(「プラハの春」は民主主義を回復する試みとしてみなされており)、「the democratic awakening which swept through all levels of society(社会のあらゆるレベルを席巻した民主主義の目覚め)と記載。

これ以外にも多数情報源がありますが、いずれもプラハの春を民主化として言及し、論じています。従って、ラッツさんによる「プラハの春」と民主化運動が関係ないという主張は成立しません。

また、「「―の春」と称される歴史的事件」については、春 (政治用語)を翻訳加筆しました。すべての 「―の春」がついた事件がプラハの春と直接関係しているわけではないですが、政治用語としての「春」を用いた表現という意味では、関係があることになります。この件については、関連項目で並べるのでなく、春 (政治用語)へのリンクということで妥協できます。

この他の二千語宣言、ハンガリー動乱、等との「関連性」を示せというのは果たして本気の主張なのでしょうか。もしそうであれば、プラハの春の基礎文献を何も読んでおられないのではないかと思います。これらの項目については、いずれ加筆していきます。--資生論会話2023年12月24日 (日) 16:05 (UTC)[返信]

ルドヴィーク・ヴァツリークの発表した「二千語宣言」のように、記事本文で言及済みの事例については、関連項目に並べる必要があるんでしょうか。本文にも書いたように、ルドルフ・スラーンスキーの裁判や、ドゥプチェクがモスクワで直接体験した、フルシチョフによる「スターリン批判」は、ドゥプチェクによる改革運動「人間の顔をした社会主義」の契機となったものであり、とても重要な出来事ではありますが、記事本文にてすでに言及済みのものも関連項目に並べるのでしょうか。
「関連項目」にある、1956年10月のハンガリー動乱が「ドゥプチェクの行動改革案に影響を与えた」ことを示す歴史資料があるのでしょうか?この動乱について「『人間の顔をした社会主義』に関係する」と明言している研究者がいるのでしょうか?
1989年11月に始まった「ヴェルベット革命」を関連項目に追加するのなら、「ヴァーツラフ・ハヴェル」と「アレクサンデル・ドゥプチェク」の記事名も追加せねばならなくなります。
歴史の流れと個々の事例について、それら一つ一つは確かにつながってはいますが、それを追究するとなると、少しでも関連のあるものをどんどん追加していく羽目になるでしょう。
資生論さんの追加された関連項目には「スターリン批判」がありませんが、これを追究していくなら、「スターリン批判」「人間の顔をした社会主義」の項目も追加する必要があるのではありませんか?これでいくと、ほんのわずかでも関連する場合、「じゃあこれも関係があるから」と、次々に追加していかないといけません。となれば、「え?これがこの記事とどう関係するの?」と思われる項目名が追加されてしまうでしょう。私が述べたように、「関連性の薄い記事名が次々に追加されていく傾向にある」のです。 「屍姦」や「快楽殺人」の記事のように。「プラハの春」ということで、四季の一つである「春」が追加されたらどうするのですか。宝塚歌劇団が「プラハの春」と題した歌劇を上映しているから、との理由で「宝塚歌劇団」の項目が追加されたらどうするのですか。キリが無くなるでしょう?
「語彙が類似しているだけの項目や、多少の関連性が有るに留まる項目を紹介する一覧表ではありません」「関連項目が多すぎる場合、{{関連項目過剰}}のテンプレートを使うことができます」と、わざわざ注意喚起が書かれるということは、そういう編集を行う人がいるのだ、ということを示唆しているのではありませんか?
こんなふうに、関連項目を巡って編集合戦を誘発してしまう恐れがある。「そんなことは起こらない」と断言できますか?編集合戦を未然に防ぐ、という意味においても、関連項目は最初から作るべきではない、ということになります。それとも、「『関連項目』を設けなければ、記事は成り立たない」のでしょうか?
「プラハの春」を「『民主化運動』の一種」として紹介されたいのでしたら、関連項目として羅列するのではなく、記事にて新たに節を作り、その中で記述をまとめるほうが良いように思われます。「歴史家の〇〇は、プラハの春について『民主化運動』とみている」「政治学者の〇〇は、プラハの春について『民主化運動』とみなしている」といった具合に。--ラッツ会話2023年12月24日 (日) 21:08 (UTC)[返信]
@ラッツさんがご指摘されたように、記事本文で言及済みの事例の全てについては、関連項目に並べる必要はないでしょう。しかし、リンク先の記事の方が内容が充実している場合、そこへのリンクはウィキペディア上ではごく当然で自然なことです。本文での二千語宣言(なお、『二千の言葉』とラッツさんは訳されましたが、これまでにそのような訳例はありません[1])での説明に比して、二千語宣言記事の方がその内容の詳細を紹介してありますので、そこへのリンクはなんら問題ないどころか、むしろ必要でしょう。したがって、それを削除する理由は成立しません。なお、スラーンスキー裁判については、私が関連項目を復旧させた時点では加筆されていませんでした(その後、ラッツさんによって加筆されました)。また、非スターリン化については、中身がほとんどない記事ですので、リンクする必要性がないというのもありえますが、将来的に成長させていけばいいのではないでしょうか。スターリン批判人間の顔をした社会主義も関連項目に追加することになんら問題はないでしょう。二千語宣言と同様に、それらの記事の方が本記事よりも詳しいからです。繰り返しとなりますが、「Wikipedia:関連項目で説明されているように、関連項目という内部リンク集は、記事を理解する上での補足として役立つものとして設置が推奨されています。」。関連項目が多くなりすぎる懸念またはその可能性があるがゆえに、「関連項目は最初から作るべきではない」ということにはなりません。
二月事件、ビロード革命、ハンガリー動乱などとプラハの春との関連については、前掲「「民主化の波」の成功と失敗──東欧諸国とアラブ諸国の比較試論 」、「「ソ連・東欧圏」における経済改革と政治危機 1960 年代のドイツ政治外交と「プラハの春」論文」などでも言及がありますし、ソ連の衛星国への対応として、これらの出来事との関連は、基礎的な文献で言及されるのが通例です。それをご存知ないということであれば、基本知識が欠如されているのではないかと言わざるをえません。
また、ラッツさんのチェコ語版、ロシア語版などからの一気呵成の翻訳は、翻訳元記事の版を指定されていないので、Wikipedia:翻訳のガイドラインでの履歴継承の操作を行なっていないので、違反しています。
さらに、翻訳元記事のチェコ語版pražské jaroでのSouvisející články(関連項目)でも、

が設置されています。同じく チェコ語版 cs:Invaze vojsk Varšavské smlouvy do Československaの関連項目でも

  • 制限主権論
  • プラハの春
  • ヤン・パラフ
  • Střední skupina vojsk
  • Boj o rozhlas (1968)
  • Demonstrace na Rudém náměstí v roce 1968
  • Ryszard Siwiec
  • Protiokupační demonstrace v roce 1969
  • Odsun sovětských vojsk z Československa

が設置されています。同じく、スロバキア語版で関連項目(Pozri aj)でも、

が設置されています。

これらの翻訳元記事のうち、関連項目を翻訳されなかったのはどういう理由からでしょうか。すでにラッツさんが説明されたように「キリがないから設置されるべきでない」という主張は、これらの翻訳元記事とも矛盾します。
また、編集合戦を誘発するおそれがあるとも主張されていますが、Wikipedia:編集合戦では「ノートでの話し合いによらず、他者の編集について互いに取り消しや差し戻しを繰り返し、自分の編集を押し通そうとすること」と定義されています。翻訳される以前に存在していた関連項目を不当に削除されたのはあなたですし、関連項目を復帰させた私の編集を不当に削除し、「自分の編集を押し通」されたのもあなたです。関連項目の削除に賛同できないと私が主張しており、削除反対を表明しているのですから、合意形成していません。上記理由より、関連項目を復帰させますが、削除しないでください。もし、削除されるのであれば、荒らしとしてウィキペディアのコミュニティに相談せざるをえません。--資生論会話2024年1月4日 (木) 13:35 (UTC)[返信]


すみませんが、いつ合意形成が成立したんでしょうか?いまのところ、合意なんてまだできていないように見えるのですが。 『ノートでの話し合いによらず、他者の編集について互いに取り消しや差し戻しを繰り返し、自分の編集を押し通そうとすること』と定義されています」と書いておられますが、まだ合意形成できていない状態で関連項目を復活させたのは、ほかならぬ資生論さん自身ではないんでしょうか?「自分の編集を押し通そうとすること」に抵触しているように見えますが?
不当に除去した? そんな覚えはありません。私はすでに理由を述べたはず。・・・が、資生論さんにはそれらが伝わっていないんでしょうか?
「『―の春』がついた事件がプラハの春と直接関係しているわけではない」「ラッツさんがご指摘されたように、記事本文で言及済みの事例の全てについては、関連項目に並べる必要はないでしょう」と、私の話の一部については認めているように見えて、「それでも関連項目は作る。反対するならば、荒らし行為とみなす」、資生論さんの言っていることは、つまりはこういうことなのでしょう?
ハンガリー動乱が、「人間の顔をした社会主義」やドゥプチェクに影響を与えた趣旨を明言している研究者を紹介できないのでしたら、やはり関連項目に追加すべきではないでしょう。資生論さんは、「ソ連の衛星国への対応として、これらの出来事との関連は、基礎的な文献で言及されるのが通例です」と言っているだけであり、ハンガリー動乱とプラハの春には直接の関係がある、と証明したことにはなりません。アレクサンデル・ドゥプチェク本人が、ハンガリー動乱について、自身の政策に間違いなく影響を与えた趣旨を述べていることが確認できる歴史資料があるんでしょうか? それとも、ハンガリー動乱については「国民が民主化を求めて行動に移した→それをソ連によって潰された」という、似たような性質があるゆえに、関連項目に追加しているんでしょうか?
もしも違うのでしたらごめんなさいね。ただ、そうではなかったとしても、ハンガリー動乱が、「人間の顔をした社会主義」やドゥプチェクに影響を与えた趣旨を明言している研究者を紹介できない限り、関連項目に追加しなければならない理由がありませんよね?
>これらの翻訳元記事のうち、関連項目を翻訳されなかったのはどういう理由からでしょうか。すでにラッツさんが説明されたように「キリがないから設置されるべきでない」という主張は、これらの翻訳元記事とも矛盾します。
え!? なぜ私がそれらの関連記事を翻訳しなければならない、なんて話になっているのでしょうか? たとえ私が翻訳するにしても(興味があるので、まだ日本語版に存在しない記事については、時間があればいずれ翻訳したい、とは考えていますが)、それを関連項目として設置しなければならない、なんて話にどうして繋がるんでしょうか? なぜ関連する記事を「ラッツが翻訳しろ」なんて話になるんでしょうか? 翻訳作業は「義務」なのでしょうか?
「他の言語版には関連項目がある」(もちろん、関連項目に追加したのは機械ではなく、その言語版の編集者さんでしょうが)、というだけであり、日本語版の「プラハの春」の記事でもそうしよう、なんて論理になりますか? 資生論さんが上記に書かれた「秀逸な記事にはいずれも関連項目が用意されている」で展開された論理と変わらないように思えますが?
>関連項目を復帰させた私の編集を不当に削除し、「自分の編集を押し通」されたのもあなたです。関連項目の削除に賛同できないと私が主張しており、削除反対を表明しているのですから、合意形成していません。
そう。だから、私は「そこまでして関連項目を設置する必要があるの?」と尋ねているじゃありませんか。関連項目を作りたいとする資生論さんのお気持ち、あるいは熱意については分からなくもないが、資生論さんのおっしゃっていることには得心ができない点が残っており、それらが上記に申し上げている事柄なのであり、私はお尋ねしているのですが、伝わりませんか?
もう一度強調しておきますが、「不当に」削除した覚えはありません。
そして、「合意形成していません」と、資生論さんも認識されているように、合意形成なんてできていないじゃありませんか。
申し訳ございませんが、資生論さんの論理が理解できません。一言でいうならば、資生論さんの言い分は筋が通りません。「秀逸な記事には、いずれも関連項目が設置されているから」と言い出したり、それを否定されると、今度は別の論理で私を攻撃しようとする。『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』についても、私は削除ではなく、関連する著書の節に組み込んだのに、「削除された」などと言い出す。私の編集をろくに見ていなかったで証拠でしょう? なぜちゃんと確認しなかったのでしょうか?
「何が何でも関連項目を作りたい」とするゆえに、「関連項目を無理に作る必要があるのか?」「そもそも、関連項目を作らなければ、記事は成り立たないのか?」との私の疑問を全否定し、私の言い分について一部は認めているように見えて、まだ合意が形成されていない状態で関連項目を強引に復活させた挙句、「関連項目を除去するのは荒らし行為だ」などと牽制している。資生論さんも「合意形成はまだできていない」ことを認識されたうえで、関連項目を復活させた。なぜこんなことをするのでしょうか? なぜ、「まだ合意は取れていない」と分かったうえで、関連項目を復活させたのでしょうか?
今は、「関連項目を設置するか否か、について合意を図ろうとしている」のですよね(私はそのように認識しているのですが)? 「納得がいきました。それならば、関連項目を設置するのがいいでしょう」となって初めて合意形成、となるのではないのでしょうか? 違いますか?
資生論さんも認めておいでのように、今のところ合意は形成されていません。である以上、少なくとも、現時点では関連項目を設置すべきではないのではありませんか? 「合意は形成されていない」→「では関連項目を設置しよう」、どうしてこんな筋の通らない流れになるのでしょうか? これは「自分の編集を押し通そうとする」に抵触している可能性がありませんか?
さらには 関連する記事について「なぜ翻訳しないのか」などと言い出した。 なぜこんな意味不明なことを言い出すんでしょうか?
資生論さんの言動もまた、「ノートでの話し合いによらず、他者の編集について互いに取り消しや差し戻しを繰り返し、自分の編集を押し通そうとすること」に抵触しているだけでなく、「Wikipedia:安易に荒らしと呼ばない」にも違反しているんではないんでしょうか?--ラッツ会話2024年1月7日 (日) 13:59 (UTC)[返信]
ハンガリー事件とプラハの春との関連については、『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、第9章、p.363-368,372-383)や、ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』第5章(p225-287)、などで歴史学者によって言及されており、関連性は明らかです。このほかにも、2度目の提示ですが、鹿島正裕「「民主化の波」の成功と失敗──東欧諸国とアラブ諸国の比較試論 」放送大学研究年報 第33(2015)125-139頁、清水聡「「ソ連・東欧圏」における経済改革と政治危機 1960 年代のドイツ政治外交と「プラハの春」」開智国際大学紀要 第 20 号(2021)でも同様の言及があり,さらに、岩志津子「『プラハの春』 と軍事介入決定過程-ブレジネフ政権の対応を中 心として」『国際政治』第 107 号、1994 年 9 月、p48も関連性を論じています。
ラッツさんは、ハンガリー事件とプラハの春の関連性を、「ドプチェクに直接影響与えたか」だけに限定するべきだと主張されているようですが、プラハの春も、ハンガリー事件も、歴史的な事件であり、個人を超えた人々が関わっており、個人やスローガンに集約されるものではありません。したがって、ある個人への直接的な影響の有無は、関連項目の設置基準とはなりません(そもそも、ここは、ドプチェク記事でも人間の顔をした社会主義記事でもありません)。上記のように、ソ連と東欧の歴史における事件としての関連性があれば関連項目の設置基準を満たしています。
とはいえ、ドプチェクも自伝で、1956年のハンガリー事件に言及したうえで、事件後のカーダールの動向を注意深く観察し、敬意を抱いていたと言及しています(自伝「希望は死なず」講談社、p.176,p234)。
私はこれまでに関連項目を設置する理由とその理由としての出典や他言語版の記事状況なども提示してきました。ラッツさんは、私が関連項目を削除するのでなく、設置しておくべきだという意見に対して、「何が何でも関連項目を作りたい」だの「関連項目を無理に作る」だのといっておられます。しかし、私には、ラッツさんは、「何が何でも関連項目を設置すべきでない」と主張されているようにしか見えませんし、事実、節ごと削除されています。私が「不当な削除」と申しあげたのは、削除すべき正当な理由をラッツさんが提示していないからですし、また、そのような正当な理由のないまま、削除を一方的に繰り返すからです。すなわち、各関連項目とプラハの春の関連性を証明する出典を私が提示しているにもかかわらず、ラッツさんは各関連項目とプラハの春とが関連性がないことを証明する出典を提示されていません。要するに、ラッツさんの主張は、外部の情報源を持たない、「独自の考え」「独自研究」であるということです。もし、関連項目は削除すべきというご自身の考えに正当性があると主張されたいのならば、ご自身の気持ちや主観以外の客観的な文献を提示すべきです。つまり、「プラハの春とハンガリー事件は無関係である」と書いてあるという文献が存在するかということですが、しかし、仮にそのような文献があったとしても、すでに私がいくつもの文献を提示していますので、やはり、「削除すべき」という主張の理由は成り立ちません。
もう一度、Wikipedia:関連項目から引用します。「関連項目は、語彙が類似しているだけの項目や、多少の関連性が有るに留まる項目を紹介する一覧表ではありません。本来、内部リンクは本文記事内の文中に包括されるのが理想的であり、「関連項目」のセクションに挙げられる項目は深い関連がありながら本文に組み込むことが困難な項目に限られるべきです。」 ラッツさんはこれを理由にしていますが、そのすぐあとに「例外として、すでに本文に内部リンクが存在していてもその記事を理解する上で特に重要な項目は許容されます。」とあります。すでに文献を提示しましたように、ハンガリー事件は、「多少の関連性が有るに留まる項目」ではなく、「特に重要な項目」の一つです。
関連項目を設置するだけでは終わりではなく、やはり本文において説明がなされるべきというのは確かなことです。ですので、ハンガリー事件など、そのほかの関連項目も、今後、加筆していきたいと思っています。
また、 『戦車と自由 チェコスロバキア事件資料集』(全2巻)みすず書房、1968年は、オタ・シクの論文、 ミラン・クンデラ 、アレクサンデル・ドプチェクの演説、「チェコスロバキア共産党行動綱領」、「二千語宣言」 、「ワルシャワ五ヵ国共同書簡」「チェコ共産党の五ヵ国共同書簡への回答、ソビエト政府、国連安全保障理事会におけるチェコ事件討議、フランス共産党、イタリア共産党、チトー、チャウシェスク、陳毅、周恩来、ドゴールら、各国の新聞・雑誌社説などを収録したものであり、タイトル通り「事件資料集」です。したがって、「関連作品」よりも「資料」ないし「参考文献」にあるべきでしょう(見直してみると、「資料」は外部リンクとするのが適切です。したがって、「参考文献」を設置し、「資料」を「外部リンク」へと変更します。)--資生論会話2024年1月17日 (水) 15:20 (UTC)[返信]

カナ転写「イェリツィン」および原語表記などについて

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エリツィンを「イェリツィン」とカナ転写されていますが、CiNiiでは、エリツィン表記が593件イェリツィン表記が3件ヒットしますが、これは「エリツィン」の前の動詞、形容詞などの平仮名「い」による検索ミスですので、0件です。したがって、日本語文献においてイェリツィン表記が存在しません、または、そのように推認できるので、エリツィンに修正します。もし、イェリツィン表記の文献がありましたら、ご提示願います。

また、原語表記ですが、プラハの春事件において特に重要なもの、たとえば二千語宣言などや、日本語版ウィキペディアに記事がないものについては、原語表記は必要でしょう。しかし、日本語版ウィキペディアに記事があるものについては、必要ありませんし、とくに、エリツィンやプーチン、フルシチョフ、スターリンなどの著名な歴史的な人物の原語表記は、この記事において不要です。また、原語表記をするにしても、一度表記すれば十分であり、その後、原語表記を繰り返したり、またフルネームを繰り返すと、著しく読みにくいです。これにより、修正してまいります。--資生論会話2024年1月18日 (木) 14:54 (UTC)[返信]

この件については、血の日曜日事件 (リトアニア)記事におけるラッツさんのイェリツィン表記に対して、H-JAMさんという方が、2023年9月28日 (木) 08:47の編集で「ロシア語で「е」を「イェ」と発音するのはその通りなのですが、日本語に転写する際は伝統的に「エ」とすることとされており、Wikipediaのマニュアルでもそのように規定されています(Wikipedia:外来語表記法/ロシア語)のでそれに従います(一般にはイェリツィンよりもエリツィンと表記されることが圧倒的に多いですし、エジンストヴォについても、リトアニア史関連の文献ではやはり「エ」と表記されています)。また、人名などの固有名詞に原語表記を記載するのは不要と考えます(論文などの媒体ではそのように表記するのが一般的ですが、Wikipediaの場合は、原語表記を知る必要があれば当該記事に飛んで確認すればいいだけですので、可読性の観点から併記は避けた方が良いでしょう」との見解を提示しておられます。これは私とほぼ同じ見解です。
また、Wikipedia:外来語表記法/ロシア語では「当該の人物や関係する当事者団体などが用いている公式な表記がある場合はそれに従って下さい。また日本語の表記として定着したものがある場合はそれを尊重して下さい。」とも書かれています。--資生論会話2024年1月22日 (月) 14:51 (UTC)[返信]