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ノート:フリー聖餐

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オープン聖餐

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IPさんによるこの加筆に対し、要出典範囲タグを付与しました。日本語での術語運用に私は全く暗いのですが、英語のOpen Communionというのは「違う教派の人にも聖餐を開放する」という意味であって、「非受洗者にも聖餐を開放する」というフリー聖餐とは概念が異なる(つまりフリー聖餐≠Open Communion)、と私は理解していたのですが、違うのでしょうか?即削除しようかとも思ったのですが、もしかすると日本語では「オープン聖餐」という術語が英語Open Communionとは異なる意味合いで使われている例が日本の教会にはあるのかとも思い、一旦「要出典タグ」にとどめました次第です。2週間返答が無ければ、一旦削除させて頂こうと考えております。--Kinno Angel 2012年2月7日 (火) 19:09 (UTC)[返信]

どうも誤用(というのが言い過ぎであれば、英語の「オープン・コミュニオン」とは異なる用法)としての「オープン聖餐」という用語が「フリー聖餐」と同義で使われている現状があるようですね[1]。しかし「誤用と言い得る蓋然性が高い術語の混同」を冒頭文に明記する必要は薄いというのが私の考えです。上記期間内に異論が無ければ、やはり削除させて頂こうと思います。--Kinno Angel 2012年2月11日 (土) 05:09 (UTC)[返信]
調査の上で、記事「オープン・コミュニオン」を作成し、フリー聖餐冒頭にも若干の修正を加えました。かつてはフリー聖餐とオープン・コミュニオンは全く別概念だったのが、最近になってコミュニオンが未受洗者にも開放される局面にもオープン・コミュニオンという用語が使われるようになった、こういうことのようです(ただし左記の「かつては~ようになった、こういうことのよう」については出典が確保出来ない憶測に過ぎませんので、本文には記載しませんでした)。--Kinno Angel 2012年2月28日 (火) 14:46 (UTC)[返信]

出典の精度確認

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2016年2月3日に利用者:Yamakita taroさんがつけられた出典『ローマ書新解-万人救済の福音として読む』という書誌が確認できませんので精度タグをつけました。googleで検索すると、こちらのサイトのみが出てきますが、そこで版元であると言及されているキリスト新聞社のWEBサイト等で確認しても、該当書誌が見つかりません。改善なき場合は出典の削除を行いたいと思います。--Tonbi ko会話2016年2月5日 (金) 06:55 (UTC)[返信]

  2008年6月6日初版、キリスト社出版の現存する本です。削除しないでください。--Yamakita taro会話2016年2月7日 (日) 10:39 (UTC)[返信]

Wikipedia:検証可能性をご熟読いただき、再度ご回答ねがいます。ISBNがありましたら、ご提示ください。--Tonbi ko会話2016年2月7日 (日) 15:49 (UTC)[返信]

出典の明記タグを「根拠」節に加えました

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まず申し上げたいのですが、「聖書にこうある」というのは、教会出版物でならOKなのですが(というかキリスト教会である以上それは当たり前ですが)、ウィキペディアでは使えません。何故なら聖書というのは解釈が教派・思想潮流によって分かれることこそが前提だからです。

極端な話、「血を飲んではならない」という聖書の規定を「根拠」として、記事「キリスト教」において「キリスト教は輸血を禁止している」と、中立的観点を要求されるウィキペディアで書いたら、それは正しいですか?と言う事です。ここまで申せば、Tonbi koさんなら「あ、そうか」とお分りになるのではないでしょうか。

ですから、例えばこう書くべきです。

  • フリー聖餐に賛成する派は、コリントの手紙一11章の該当箇所について、かくかくしかじかと解釈する<ref>出典をここに書く</ref>」「フリー聖餐に反対する派は、コリントの手紙一11章の該当箇所について、かくかくしかじかと解釈する<ref>出典をここに書く</ref>」。

教派の代表的出版物・権威ある神学者の出版物を出典とし、さらにその出典はカトリック、プロテスタントまで網羅するのが望ましいですね。なお正教会まで出典に加えろと言う無茶は申しません。それは私が後で書き加える事になるでしょう。ただせめて、カトリック、プロテスタントくらいは網羅して頂きたいと思います。それは最低限の中立的観点確保の為の努力でしょう。

なお、「多くのキリスト教会では、『聖餐式でもこの聖句を事前に朗読する。』とありましたが、私が僅かながら見た事のあるプロテスタント、聖公会、カトリックでも、そして正教会でも、該当箇所のうち、27節から29節まで「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。」を事前に朗読する教会を存じません。私が気付かなかっただけかもしれませんが。26節までは、多くの教会で何らかの形で唱えられますが…

まさにこの「フリー聖餐問題」の肝は27節から29節なのですから、ここが朗読されるかされないかが事実と異なる事が書かれているとしたら問題でしょう。もし27節から29節までを聖餐式で朗読している教会があるのでしたら、具体的に「~教団」といった形で書くべきでしょう。そこで「誰」タグを「多くの」に加えました。

以上です。どうぞ宜しくお願いします。--Kinno Angel会話2016年2月5日 (金) 13:41 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。勢いで書いたものの出典もなく、参考文献(富田牧師)から読み取れるからいいかなあ、でも改善しないとなぁとは思っていたのですが、具体的にご指摘頂けないと、具体的にどこが致命的におかしいのか気づけないということがやはりあるのですね。明らかにWikipedia:大言壮語をしないに反していました。お恥ずかしい限りです。27節から29節に関しては日基の教会で聞いており、またそれは典礼文章の朗読のように見えました。その教会からは離れてしまったのですが、近々資料確認したいと思います。--Tonbi ko会話2016年2月6日 (土) 02:48 (UTC)[返信]
例として、横浜指路教会では、聖餐制定の御言葉の朗読は29節までなされています(「パンを食べ、杯を飲む群れ」)。《フリー聖餐派の教会では、この「コリント人への手紙一」を朗読することはなく、(後略)》については存じません。「コリントの信徒への手紙一11章23節-29節」は「そう読まれる」のであって「根拠」はもっと「伝統」や神学上の議論を踏まえたものです。《ルター派では、パンとぶどう酒にキリストの体が客観的に遍在(一度に多く存在)しており(共在説)、キリストを「口で食する」ために、「不敬虔な者によって食されること」もありえる。改革派(『チューリヒ一致信条』)では聖餐であずかるのはパンとぶどう酒であり、その中にキリストはいないが、聖霊の働きによって「キリストの体と血とに真実にあずかる」。「神性と人性を兼ね備えた」キリストはあくまで天に着座しているのであって、「遍在」を認めることはキリストの人性の否定であるし、信仰と無関係にキリストを「口で食する」ことはキリストの神性を損ね、冒涜するものである(注:引用ではなく要約です)》(藤掛順一『信徒のための改革教会の教理』全国連合長老会 pp=16-17、ISBNなし。W.ニーゼル『福音と諸教会―信条学教本』教文館 ISBN 978-4764272767 を平易に解いたということなので、こちらをあたる必要あり。)、という「土台」があります。これだけだとルター派と改革派の教義の違いということになってしまうのですが、日本で起きている現象としては、「ルター派だからフリー聖餐」ということではなくて、自由主義神学(と高等批評)の立場から、1コリント11章の当該記述は《当時のコリント教会では、聖餐は貧困者に対する炊き出しを兼ねていたものであった。しかし食べ物に困ってない人が食事を独占することによって、貧困者が食事にありつけないことがあったので、パウロはこれを戒めたに過ぎない》、また、福音書に描かれているイエスの恵みの食卓は完全にフリーだった、ということを根拠しているようです(こちらの立場に無いので無責任ですが、卑近の参考として→聖餐式って、信者でなくても食べていいんですか?)。「伝統はいつもみ言葉によって検証され、吟味されなければなりません。しかしそれは基本的には主から受けたものであって、人間が自分の思いで捨てたり変形してはならない」(前掲説教)との立場を取る【改革派と、「歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」自由主義神学との対立】です。自由主義神学#改革派を読めば改革派が自由主義神学を強く非難していることがわかると思います。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録) 2016年8月13日 (土) 20:19 (UTC)--(追記)--カトリックについては、「1コリント11章27節が根拠」ということでよろしいかと存じます。(神学的にはパンとぶどう酒はキリストの体に聖変化する)(カトリック中央協議会)。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録) 2016年8月13日 (土) 21:32 (UTC)--(最終更新)--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録2016年8月14日 (日) 00:53 (UTC)[返信]

本記事の中立性についての疑問

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まず、「フリー聖餐」の肯定論の要約を、反対する立場の芳賀力氏の著作から引用しているのは、肯定派の主張が歪曲されている可能性をはらんでおり、不適切ではないでしょうか。肯定する立場の人たちからの神学的主張や議論をまとめた本は、たとえば新教出版社から出ている『聖餐の豊かさを求めて』等が存在しますが、そこでは芳賀氏の言うように「だから信仰だとか洗礼だとか、とやかく言わないで、その場にいる者全員に、大人も子供も、たとえ意味が分からなくてもパンを食べぶどう酒を飲んでもらおう 」というような大雑把な主張、議論はなされておらず、芳賀氏の記述は偏見と事実誤認に基づいているように思われます。

「フリー聖餐派の教会では、この「コリント人への手紙一」を朗読することはなく」というのも根拠不明です。

そもそも、「フリー聖餐」という言葉自体、洗礼を受けていない人に対して配餐する行為に否定的な立場からの呼称であり、肯定派が自称するのは聞いたことがありません。肯定派の人たちは「開かれた聖餐」という言葉を用いている場合が多いかと思います。芳賀氏のように、バイアスがかかった見方からのレッテルではないかと疑われます。 --Kuromiso会話2018年12月26日 (水) 16:55 (UTC)[返信]