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ノート:ナポレオン・ボナパルト

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記事名

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最近、記事名の付け方で悩んでます。そこで、ちょっと質問です。
ナポレオン1世は、フランス皇帝以外にいらっしゃるのでしょうか?oxhop 13:13 2004年3月19日 (UTC)

上記の件は、ノート:フィリップ2世にて解決しました。oxhop 10:54 2004年3月27日 (UTC)

見出しを「ナポレオン1世 (フランス皇帝)」から「ナポレオン・ボナパルト」に戻しました。
理由は、皇帝から失脚して私人「ボナパルト」に戻っていること、「フランス皇帝」だけではなく、イタリア国王などいろいろ兼務したこと、Wikipediaフランス語版でも「ナポレオン・ボナパルト」していることなどです。 13:23 2004年4月5日 (UTC) ポルノグラフィティ

下(統領ナポレオン)にも書きましたが、一度王位・帝位・皇位についた人物はファースト・ネームで呼ぶのが慣例であると記憶しています。なお、失脚後のナポレオンの処遇について、英国側は殊更に「ボナパルト将軍」と呼んでいたようです。無論、復讐としての意味合いが多分に含まれます。そんな屈辱のなかでナポレオンが耐えた背景にはセント・ヘレナ脱出の計画が有ったからだと、個人的には思います。さて、そういったことが、例の「墓石に刻む名」のトラブルの原因です。と、ここまで書いてきましたが、見出しについては「ナポレオン・ボナパルト」で別に構わないと思います。個人的には「ナポレオン1世 (フランス皇帝)」が正しいかも知れないという一抹の思いを抱くことを禁じ得ませんが。--前図書頭 2007年6月13日 (水) 18:19 (UTC)[返信]

感想

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関連項目にアドルフ・ヒトラーが挙がっていますが、関連性が薄くありませんか?思いつく関連性といえば、一代で権力を手にしたことと、ロシア(ソ連)に敗北したことが滅亡のきっかけになったことくらいしかないのではないでしょうか。 --くしなだ 2005年6月10日 (金) 18:30 (UTC)[返信]

もう少し軍事関係を多めにかかれませんか? 数々の軍事的発明の功労者 近代軍隊の基礎を築き要塞の設計法を革新し 戦争キチガイ、コルシカの悪魔といった当時のあだ名や 大量の人名を失う作戦を行い国家規模で人口に影響を与えたなどの 軍事専門家としての側面はもう少しかかれないのでしょうか? 古本を見てますと1920年代のアメリカではどうやら 評価が低かったのかもとかどうでもいい話もありますが。--Sinapusu 2006年3月5日 (日) 01:24 (UTC) すいません人口に影響は書いてありましたね。 見落としてました。 単なる感想なのですがナポレオンってどっちかというと中国の君主に近いイメージです。[返信]

分割提案

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ナポレオン・ボナパルト#ナポレオンの関係者たちのうち、ナポレオンの親族を除く人物を新たな記事へ分割することを提案します。他の人物記事で、ナポレオンにとってのセリム3世程度の関係者の人名まで載せている例は見当たりませんし、リストに新たに人物を増やしたくてもなかなか増やせないので。--猪山人 2006年4月1日 (土) 16:36 (UTC)[返信]

本文にお貼りになったテンプレにある「ナポレオン戦争の人物一覧」という記事への分割でしたら、スタール夫人などの文化人が含まれていたり、デジレ・クラリーやルイーゼ・シュトレーリッツ、ナクシディル・スルタンなどの王妃や母后が含まれているので反対します。また、「ナポレオン戦争の人物」というよりも「ナポレオンの関係者」としての意味合いが濃い人物も多く載っていることも反対の理由です。 ナポレオンほどヨーロッパとその周辺地域に大きな影響を与えた人物であれば、関係人物の数が多くなることはむしろ当然だと思いますし、セリム3世についてはエジプト遠征時の敵の君主というだけでなく、ナポレオンが皇帝になった後も敵国の君主であったわけですから、載せてあって良いと思います。また他に多少関係が薄めの人物まで載っている嫌いがあるとはいえ、よく整理されており、可読性を損ねているとも思えません。麾下の元帥もこの項目内では全員載せる必要があるでしょうが、「ナポレオン戦争の人物一覧」という記事ではあまり活躍しなかった元帥は載せる必要がなくなるなど掲載基準も変わってきます。 猪山人さんのおっしゃる「リストに新たに人物を増やしたくてもなかなか増やせない」というのがどういう意味合いなのか、必ずしも把握できていないのですが、もしナポレオン自身との関連は薄いが、ナポレオン戦争期においては十分に重要な人物を載せたいのに現状載せにくいという意味なのであれば、分割ではなく新規に「ナポレオン戦争の人物一覧」という記事を立てるのが良いのではと思います。リストアップされている人物が多数重なることは仕方が無いのではと私は考えます。 --くしなだ 2006年4月4日 (火) 12:40 (UTC)[返信]

外部リンク

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フランスのサイトがデッドリンクです。どなたか海外の優れたナポレオンのサイトをリンクしていただけないでしょうか?--222.146.199.234 2006年11月22日 (水) 18:23 (UTC)[返信]


統領ナポレオン

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慣例的にナポレオン・ボナパルトを生涯を通して「ナポレオン」と呼称していますが、正確には皇帝になってからが「ナポレオン」で、それ以前は「ボナパルト」又は「ナポレオン・ボナパルト」とするべきだと思いますがいかがでしょうか? 特に項目名である「統領ナポレオン」は「統領ボナパルト」もしくは「統領ナポレオン・ボナパルト」とするべきでは?西洋史は詳しくないので間違っていたらごめんなさい。--122.16.102.90 2007年6月11日 (月) 08:59 (UTC)[返信]

慣例としては、一度王位あるいは帝位・皇位についた人物は、ファースト・ネームで呼ぶことになっていると記憶します。ナポレオンの死後、セント・ヘレナ島にて埋葬のおり、ナポレオンの墓石に何と刻むかでトラブルになりました。英国のロー総督が「ナポレオン・ボナパルト」と刻むべきだと主張したのに対してナポレオンの随員たちが反発したのです。彼らは「ナポレオン」と刻むことを主張しました。つまり、ロー総督の意見は、流人をして怒らせるに足る非礼であったと言い得ると思われます。--前図書頭 2007年6月13日 (水) 18:05 (UTC)[返信]
そうでしたか、了解しました。わざわざご丁寧なご返答、ありがとうございます。--122.16.102.90 2007年6月20日 (水) 10:10 (UTC)[返信]


フランス革命(1789)の時、彼はどうしていたのでしょうか?Unagire 2008年9月3日 (水) 02:07 (UTC)[返信]

逸話の項目について

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一時期、目玉焼きを好んで食べたとか、痔だったとか、「逸話」と呼ぶにはどうでもいいようなエピソードが多いような気がします。ちょっと整理をした方が良いのではないでしょうか--ポテンシャル0 2008年11月11日 (火) 16:49 (UTC)[返信]

冬将軍

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「飢えと寒さで次々と脱落者を出した。」「冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵が失われ」とありますが、これは俗説ではありませんか。当年のロシアは暖冬だったそうです。(クレーマー&トレンクラー「常識のウソ277」文春文庫)。英語WIKIPEDIAの記事en:Russian Winterもそう述べています。1812年ロシア戦役のシャルル・ミナールによる図をご覧ください。兵力の減耗はもっぱら進軍の過程とくに前半で起こっています(茶色)。そしてモスクワから退却を始めた日の気温は高くほぼ零度であり、退却の途中で寒波が来ています。--青田ミク会話2012年11月24日 (土) 06:43 (UTC)[返信]

進軍中の兵力の減耗についてですが、日本評論社から出ている「ナポレオン年代記」(J.P.ベルトパリ第一大学教授)によると、1812年ロシア戦役に書かれている69万1500人の内訳とは異なり、左翼はプロイセン軍とジャック・マクドナル、右翼はジェローム・ボナパルト(76,000人)とオーストリア軍、中央軍としてウジェーヌ・ド・ボアルネの8万人を含む22万7000人をナポレオンが率いたとあります(p.156)。遠征すぐに兵站不足により数千匹の馬が死んだとあります(156ページ)。ヴィルニュスに6月29日から7月16日までとどまって兵の再編成を行った。とあり、落伍によるものか、脱走によるものか、までははっきりしませんが兵力が大きく損耗したのでしょう。ただし、これは決定的な敗北理由ではありません。決戦を行い、ロシア軍を破り、モスクワに入城すればアウステルリッツの戦いのように勝利すると考えていたのであり、進軍中に兵力が減耗したことは敗因ではありません。ボロディノの戦いの後、アレクサンドル1世が和平提案に応じなかった理由として、「冬将軍」が自分の最良の同盟者となることを知っていたとあります(p.163)。往路と同じ道から退却したフランス軍は食糧を確保することもきびしく、プラトフが指揮するパルチザンにより、徐々に損耗、11月9日、スモレンスクに到着した際は零下12度まで気温が下がり、倉庫に食糧はなかったとあります。11月14日、スモレンスクを出発、衣服の装備が十分でないフランス軍兵士の多くが行軍中に亡くなったこと、食糧不足から兵士たちは死んだ兵士の人肉も食したことが書かれています。この戦役で38万人以上の兵士が失われ、およそ10万人が捕虜となった。と結ばれています(168ページ)。「飢えと寒さで次々と脱落者を出した。」「冬将軍と呼ばれるロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵が失われ」について言えば、前者は飢えやパルチザンの襲撃、寒さなどで損耗していったことであり、俗説とは言えないでしょう。冬将軍については、それを強調しすぎることは適切ではないように思いますが、遠征の失敗理由の1つには十分あげられる(フランス人学者の書いたものだけでは、若干身びいきもあるかもしれないという点を割り引くとしても)でしょう。クレーマー&トレンクラーがどのような方であるかわかりませんが、大衆向けのトリビア的な書籍を根拠とするよりも、研究者、軍事評論家などによるものを根拠とするべきでしょう。ただロシア遠征の失敗をナポレオンの記事にどこまで詳しく書くべきかという問題もあります。必要以上に詳述することはないように思います。--Tiyoringo会話2012年11月24日 (土) 08:11 (UTC)[返信]
お返事ありがとうございます。私としては、寒波襲来より先に退却が始まっていることを言いたかったのです。モスクワ退却が10月19日からで初雪が11月5日だったそうです。(Chew, Allen F. (1981), "Fighting the Russians in Winter: Three Case Studies" Combat Studies Institute, U.S. Army Command and General Staff College, Fort Leavenworth, Kansas. http://www.cgsc.edu/carl/download/csipubs/chew.pdf )未読ですが日本語記事では最近こんなものがあったようです。 佐藤俊之「検証 敗因は“冬将軍”にあらず! ナポレオン戦役1812 ロシア遠征」 (『歴史群像』2011年4月号)--青田ミク会話2012年12月12日 (水) 06:19 (UTC)[返信]
追加情報をありがとうございます。大きな戦闘がある前に遠征軍の戦力が著しく減少したことが、脱走、落伍、抵抗運動などによるものか、補給が十分にできないために、精鋭を中心に進軍したものなのかはっきりわかりませんが、ボロディノの戦いの際には十分な戦力を保持していたことから、そこまでの兵力の減少は問題とする必要はないように思います。モスクワからの撤退は、戦略的には敗北と見ることができますが、歴戦の兵士の多くが無事撤退できた場合は史実と異なり大敗北とは言えなかったのではないかと思います。敗因を冬将軍とのみ結論づけるのは適切ではないと思いますが、冬将軍ではないとするのもまずいかなと思います。1812年戦役であれば様々な説を併記することも可能と思いますが、本記事ではロシア遠征でボロディノの戦いで勝利し、モスクワを占領したが、アレクサンドル1世は降服せず、撤退に際し、多くの兵力を失ったこと、パリでの企て、同盟国の離反あたりをまとめればいいかなと思いますがいかがでしょうか。--Tiyoringo会話2012年12月13日 (木) 11:53 (UTC)[返信]
わかりました。書くなら「1812年戦役」「冬将軍」の記事で(私ももう少し勉強した上で)やってみようと思います。ありがとうございました。--青田ミク会話2012年12月22日 (土) 10:05 (UTC)[返信]

「エルバ島脱出と新聞」の内容は創作?

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2014年11月4日(火)11:57‎の版から追加された「エルバ島脱出と新聞」の一節、その内容はどうも後世の創作とされるようで、私は削除する事を考えておりますが、いかがでしょうか? http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/moniteur.html --グリーンシーガル会話2017年4月25日 (火) 13:54 (UTC)[返信]