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ノート:ドイツ・メルヘン街道

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グリム兄弟がゲッチンゲンの教授になって、わずか七年で国外退去になったというくだりですが、確か野に事実と大差ないのですが、今のわれわれからすると、「ドイツ国外退去」に思えるので、なんとか手直ししないといけないと思います。ゲッチンゲンを去って、その後はベルリンで生活しています。ひれは2人ともです。どうしましょ。ハノーファー公の大学介入に反対して、彼の領地から追い出されたというわけなのですが。領地、それとも封土、政治史に強くないので、どうしましょう。ゲッチンゲンのガチョウ娘の記載もなかったようですが。Mishika 2005年7月3日 (日) 08:31 (UTC)[返信]

参考図書に上げた本によると、「ハノーファ王国」となっています。ただ同じ本に「王位を継ぎ、エルンスト・アウグスト公と名乗ります。」とあり、じゃあ「公国」じゃないの?とも思って訳がわからないのですが・・・。一応「王国」の記述に基づいて手直ししてみましたがどうでしょうか。ガチョウ番の娘についても加筆しました。--汲平 2005年7月3日 (日) 14:47 (UTC)[返信]

おすすめ記事からきたのですが、わかりやすくまとまっていて、おもしろく読みました。おすすめで取り上げてくださってありがとうございます。 ドイツ観光街道のひとつということですが、制定の経緯や、観光産業への影響がどれほどあるのか(この一帯の観光産業の依存度など)も知りたいと思いました。--Aphaia 2005年8月9日 (火) 23:47 (UTC)[返信]

ドイツ観光街道」と一口に言ってもその実態はマチマチです。ドイツ観光局のもの、各州や自治体ごとのものがあり、その目的もそれぞれです。観光街道と訳されていますが、ドイツ語の「Ferienstraße」は直訳すると「休暇街道」といった意味で、例えばドイツ観光局の観光街道第1号のドイツ・アルプス街道は、もともとドイツ国民の余暇活用、健康増進や文化教育の目的で作られました。その後、第二次大戦があり、進駐していた米兵達が休暇を利用して観光するようになりました。この辺りから休暇街道が観光目的になったようです。1970年代にロマンティック街道が日本にも紹介され、海外渡航が自由にできるようになり注目されます。この後の経緯は「ドイツの観光街道」というサイトに詳しく論じられています。地域の観光依存度はマチマチで、メルヘン街道で言えば、ブレーメンではさほどではないけれど、シュタイナウなどではかなり大きく観光に依存していると言えるでしょう。ロマンティック街道のローテンブルクやシュヴァンガウではその依存度はさらに大きくなると思います。既述のサイトでも論じられていますが、観光街道の観光への訴求力はそれほどでもありません。観光街道を目指して旅行する観光客の多くはアメリカ人と日本人なのですが、彼らの旅行日程は過密で、ロマンティック街道を最初から最後まで田舎道をバスで移動するなんてことはせず、ローテンブルクからノイシュヴァンシュタイン城を1日で見るためにその間はアウトバーンを突っ走るというような感じです。これでは観光街道の良さを実感しろという方が無理な話で、テーマに沿った観光を街道沿いに体験してゆくという使い方はできません。実際には、ドイツの国民が休暇ごとにキャンピングカーを使って、アルプス街道の東半分を楽しもうとか、あるいは近所の「玩具街道」をゆっくりと玩具の工房でも見ながらのんびりしようとか、「休暇街道」として利用されていると思って良いと思います。そういう意味では特にテーマを持たない「ファンタスティック街道」や「エリカ街道」は、観光の振興には役立たないし、テーマもないので休暇に家族でということもない中途半端なものとして忘れられてゆくのではないでしょうか。実際に、ドイツの道路地図のサイトを見てもファンタスティック街道やエリカ街道は載っていません。(他の日本ではもっとマイナーな街道は載っているのですが・・・)主要な5つの観光街道を記事にして、次はどうしようと悩んでいるのですが、日本での知名度というかガイドブックに登場する頻度で言えば、その2つの街道と言うことになるのでしょうが、正直言えば、あまり食指は動かなくて、もっと地域密着型のテーマのはっきりした観光街道(たとえば、ニーベルンゲン=ジークフリート街道や木組み建築街道)を書きたいなと思っているところです。長々と失礼しました --汲平 2005年8月13日 (土) 04:21 (UTC)[返信]