ノート:チベット高原
「青蔵高原 を チベット高原 へ移動: 記事名の変更は、議論後に!」として記事の移動を行われたようですが、「記事名の変更」だけでなく「移動」そのものも実行前にノートにて提案なさるよう、強くおすすめします。もし議論によって元の記事名に戻すことになった場合、移動が無駄になります。だれがなんと言おうと絶対移動したい、というのなら話は別ですが。--miya 2005年8月8日 (月) 09:53 (UTC)
- 11年後の補足:(1)「元の記事名」は「チベット高原」です。(2)「議論の結果、合意が成立」して行われた「変更」は、「合意形成を踏まえての変更」ですから、いかなる変更であれ「無駄」だとは思いません。--Dalaibaatur(会話) 2016年7月9日 (土) 23:25 (UTC)
- この記事は、 2004年4月29日 (木) 14:49 に「チベット高原」の名称で記事が立てられ、翌2005年3月16日 (水) 20:39の版まで、この名称のもと、私を含む五人によって修正を受けました。 ところが、2005年3月29日 (火) 19:11の版では、いかなる提案も議論も経ず、当然なんの合意もえぬまま、「チベット高原」から「青蔵高原」への記事名の変更が勝手に行われました。私の「2005年8月8日 (月) 18:46」の移動は、この勝手な変更を「元の記事名に戻す」復元であり、単なる「移動」ではありません。「記事名の変更は、議論後に!」という私の警告は、この勝手な変更を行った人物に向けたものです。『「記事名の変更」だけでなく「移動」そのものも実行前にノートにて提案』すべきだというMiyaさんの「強いおすすめ」は、今後、このような勝手な記事名の変更に対し、強い警告となるでしょう。--Dalaibaatur 2005年8月8日 (月) 11:57 (UTC)
- 事情を知らない人があの要約を見たら唖然とするでしょうね。何故移動するかという理由にもなっていませんし。もちろん、私のコメントは履歴を見たうえでのものです。Dalaibaaturさんの要約は最初から喧嘩を売っているようなものです。編集合戦の虞がある項目に関しては(特に!)もっと穏やかに提案なさるようお願いします。相手が説明なしに変更を行ったからといって、あなたまで「復元」「記事名の復帰」、つまりリバートを説明無しに行う理由にはなりません。--miya 2005年8月8日 (月) 22:56 (UTC)
- ほんとに「私のコメントは履歴を見たうえでのもの」であるなら、最初のコメントの「もし議論によって元の記事名に戻すことになった場合、移動が無駄になります」、「だれがなんと言おうと絶対移動したい」というお言葉は、非常に奇妙ですが、それはよいとして、「何故移動するかという理由」は「もとの記事名に復帰するため」です。その他の理由はありません。「リバートを説明無しに行」ったこと、「穏やかに提案」というご注意については、以後留意いたします。「要約」の文面が後から修正できないのは残念です。--Dalaibaatur 2005年8月9日 (火) 15:35 (UTC)
項目名差し戻しの理由
[編集]こちらに項目名を「チベット高原」に差し戻した理由を分かりやすく説明していただければ幸いです。--miya 2005年8月8日 (月) 22:56 (UTC)
- 「もとの記事名に復帰する」ため。--Dalaibaatur 2005年8月21日 (日) 02:53 (UTC)
- 約11年前のお尋ねですが、補足して回答します。日本語で学術論文を執筆する日本人チベット専門家の用例に合わせるため。--Dalaibaatur(会話) 2016年7月9日 (土) 16:27 (UTC)
中国でいう「青蔵高原」を「チベット高原」と呼称する用例
[編集]以下に、「西蔵」(いま中国が「自治区」を設置している部分)と「青海」(中国がカム地方の北部とアムド地方の大部分を合わせた地域に設置)などをまとめて「チベット高原」と呼ぶ日本人による日本語の用例を紹介します。(中国の言う「西蔵」部分だけを「チベット高原」とは呼ばない用例です)--Dalaibaatur(会話) 2016年7月9日 (土) 16:13 (UTC)
マンネルヘイムは(中略:引用者)その後,ウルムチ,安西,甘州,蘭州とチベット高原の東北角を曲がった後に一転中国に向かい、開封府から北上して五台山において亡命中のダライラマ13世の謁見を受け、フフホトを経由して北京に至った。
- -----石濱裕美子「マンネルヘイムのアジア旅行関連資料とそれに基づくチベット仏教徒の動向について」(『内陸アジア史研究』第31号, 2016年3月, pp.145-163, 東京, 内陸アジア史学会(ISSN 0911-8993), p.147。
※著者石濱裕美子氏についてはこちらを参照。
中国は現在チベット東北部のアムド地方に対し、西部〜中央部を「青海」、東部を甘粛省(甘南州)、東南部を四川省(阿壩州)に分属させる行政区画を施していますが、上記論文には、この地域を一括して「チベット東北部」と呼ぶ用例も見受けられます。
マンネルヘイムがアジア旅行の際につけていた日記や帰国後提出された報告書は、20世紀の中央ユーラシアや東北チベットの現況を伝える一次資料であり、彼が持ち帰った古文書や民俗資料ともども古今中央ユーラシアに多数の情報を提供している。(前掲論文, p.146)。