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ノート:チベットの領域に関する認識と主張

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記事の出典は、国務院新聞弁公室の発言については出典を明示、その他の情報についてもプーと大プー雍正のチベット分割西蔵などで明示。「独自の主張」な記述はない。--Dalaibaatur 2006年5月30日 (火) 22:50 (UTC)[返信]


文献に根拠のない独自の主張

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現在、この記事は、

  1. チベット人が伝統的にチベットと考えてきた領域。
  2. 中国人が伝統的に「吐蕃」と呼称してきた領域
  3. 中国人が康煕末年ごろから「西蔵」と呼んだ領域
  4. 中国政府によるチベットの領域の主張
  5. チベット亡命政府によるチベットの領域の主張

などの項目からなっており、文面のすべてに、当事者自身による同時代の文献的根拠があります。現在の記事の文面で「文献に根拠のない独自の主張」だと感じられるような記述がありましたら、以下に【 】でくくった上でご指摘ください。そのような部分に対し、すべて出典を提示します。--Dalaibaatur 2006年6月3日 (土) 10:58 (UTC)[返信]


Chichiiiさんの編集した文面の問題について

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2010年11月21日 (日) 19:21の文章

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この領域の全域は、チベットに本拠地をおく単一の政権によって統合されてきており、吐蕃によるチベットの建国以来、この地域の住人たちの間では、文化的、経済的な一体性を背景として、一国としての観念が共有されてきた。モンゴル人による元朝時代には冊封関係はあったが緩やかなものであった[1]。続く支那人明朝時代にはチベットは完全に独立していた[1]満州人清王朝時代には元朝時代のように緩やかな冊封関係であった[1]。たとえばカム地方の東半部とアムド地方東部の諸侯たちは十八世紀の雍正のチベット分割以降、満州人清王朝の政府である「兵部」から土司として冊封され、彼らの所領は四川省青海地方などに分属して「内地」に帰属するとされていた。彼ら自身が編纂させた史書をみると、文殊皇帝(=清朝の君主)との関係を誇らしげに提示する一方、自分たちの所領がチベット(bod yul)から分離され、中国(rgya nag)に移管されたなどとはまったく考えておらず、一貫してチベット三チョルカの一部を構成していると考え続けていたことがわかる。清王朝末期には事実上独立しており[1]、支那人の中華民国時代には完全に独立していた[1]。中華人民共和国が侵攻するまでは支那人に支配されたことは一度も無かった[1]

問題個所

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凡例

  • D:Dalaibaaturによる記述
  • C:Chichiii氏が書き改めた記述

問題点1
  • D:この領域の全域(もしくはほぼ全域)が、チベットに本拠地をおく単一の政権によって統合されていた期間はさほど長くないが
  • C:この領域の全域は、チベットに本拠地をおく単一の政権によって統合されてきており

「D:」にいう「この領域の全域を統合した」「チベットに本拠地をおく単一の政権」とは、吐蕃王朝および1642年の発足時から雍正のチベット分割(1724-1732)までのダライラマ政権をさす。この2政権以外でこの領域の全域を統合した」「チベットに本拠地をおく単一の政権」があるならご教示いただきたい。

問題点2

「六部」は、唐代以来の中国歴代王朝の中央機関の一つである。

問題点3
  • C:王朝末期には事実上独立しており、支那人の中華民国時代には完全に独立していた。中華人民共和国が侵攻するまでは支那人に支配されたことは一度も無かった

アムド地方は雍正のチベット分割以降、民国期をつうじて中国西北部に地盤を有する馬一族の支配を受けていた。またカム地方の東部では、これも清末以来、四川省の地方政権の支配をうけていた(西康省)を参照。

問題点4
  • C:「支那人」

漢人あるいは中国人に対して「支那人」の呼称を使用することは、現代の日本における一般的な呼称とはいえないので、この百科事典の記事の文中には使用するべきではない。--Dalaibaatur 2010年12月23日 (木) 23:06 (UTC)[返信]

とりあえず支那人は漢民族にしておきます。出典のある記述も含めてすべて削除しないでください。問題があると思われたところは訂正するなりしてください。--Chichiii 2011年1月15日 (土) 13:01 (UTC)[返信]
上記の「問題箇所」では、「支那人」の項をのぞき、いずれも削除理由(私の執筆した旧文面の復活の理由)として「事実に反する誤りであること」を提示しています。Chichiiiさんが酒井論文の記述をアレンジした結果誤りになったのか酒井論文がもともと誤っていたのかはわかりませんが、「訂正するなりしてください」とも述べておられるので、誤りの部分については除去し、旧文面を復活させていただきます。
以下の記述も「問題箇所」に追加。
問題点5
モンゴル人による元朝時代には冊封関係はあったが緩やかなものであった。続く漢人の明朝時代にはチベットは完全に独立していた。満州人の清王朝時代には元朝時代のように緩やかな冊封関係であった。
明王朝はチベット各地の諸侯・教団との間で衛所の官職や、法王号・教王号を授受する関係をもっていた。元・清との関係が「緩やか」で、明との関係が「完全に独立していた」という主観的な価値判断は百科事典の記事としては不要。研究者たちの諸説が紹介される中で、酒井氏の学説?もその一つとして紹介することなら容認できなくもないが、その場合、この種の諸説の紹介は、記事土司で行われるべき。なぜならば、この記事は、チベット亡命政府と中国政府の「チベットの領域に関する認識と主張」という記事であり、衛所制土司・土官制に対する学者たちの解釈(「緩い」とかの類)を列挙紹介する場所としてはふさわしくないため。この記事ではその種の価値判断は不要。事実関係だけを提示すべき。
問題点3(補足)
清王朝末期には事実上独立しており、漢人の中華民国時代には完全に独立していた。中華人民共和国が侵攻するまでは漢人に支配されたことは一度も無かった。
(1)カム地方の諸侯は、雍正のチベット分割以来兵部を介して清朝から所領の安堵や地位継承の認定を受けていた。さらには1905年から1910年にかけて四川省総督趙爾豊によって制圧され、そのまま滅亡したものもいくつも出た。趙爾豊はさらに西進してラサまで攻め落とし、ダライラマ十三世はヒマラヤを越えてインドに脱出した。ラストエンペラー溥義は調子に乗って、「トゥプテンギャムツォ(=ダライラマ十三世)からダライラマの地位を剥奪し、平民に落とす。十二世の生まれ変わりを改めて探し直せ」という命令まで出している。
(2)1911年、辛亥革命の勃発で清朝占領軍が混乱したのに乗じて反攻を開始したダライラマ十三世は、中央チベット+カム地方の西部を回復するのが精一杯で、アムド地方の全域とカム地方の東部地方の諸侯たちは、中華民国の青海・甘粛・川辺(西康)・雲南の地方政権に従属したり、とりつぶしを受けたりしていた。
以上の記述も、酒井論文の記述どおりなのかChichiii さんのアレンジが入っているのかわかりませんが、誤りであるので、もとの文面を復活させていただきます。--Dalaibaatur 2011年1月20日 (木) 23:52 (UTC)[返信]
wikipediaは検証できるかどうかが重要なので匿名のDalaibaaturさんの御意見よりも東京大学史料編纂所教授酒井信彦の見解が反映されるのは当然のことです。--Chichiii 2011年1月21日 (金) 14:15 (UTC)[返信]
私の指摘やご自分の文面の検証を拒否なさるというご態度では、「合意を形成」しようにも形成のしようがありません。私が指摘した問題点、ご自分が「酒井信彦の見解」と称して執筆された文面をいまいちど点検していただきたいと思います。
まず問題点1から。
吐蕃王朝の崩壊(842)からダライラマ政権の発足(1642)までの間に中央チベットを支配した主な政権には以下のようなものがあります。
  • サキャパ政権・・・サキャ派の管長はモンゴル帝国の大ハーンに随行して大都と上都を往来。→「チベットに本拠地をおく」に該当せず。(乙坂智子「サキャパの権力構造」『史峯』 第三号(1989.10))
  • パクモドゥパ政権・・・中央チベットを支配。(佐藤長「パクモドゥパ政権初期のチベット情勢」『中世チベット史研究』同朋舎,1986, 第三論文)
  • ツァンパ政権・・・中央チベットを支配。アムド地方はユンシェブ部→ハルハ=チョクト、カム地方はペリ王、ジャン王などが割拠。(山口隋鳳「顧実汗のチベット支配に至る経緯」『岩井博士古稀記念論文集』, 開明堂1963)。チベット系民族唯一の国連加盟国ブータンの建国(1616)もこの政権の時代。
以上、「wikipediaは検証できるかどうかが重要」というご指摘に応じて典拠も示しました。ご検証をよろしく。--Dalaibaatur 2011年1月21日 (金) 19:55 (UTC)[返信]
Dalaibaaturさんが根拠不明な主張を繰り返されていたので、2年間にわたる投稿ブロックを課せられた時とまったく同様の問題行動を行っていたと判断するのは早急なのが分かりましたので、議論に入れますね。これらの政権はチベット人の政権ですね。日本国内で自民党→日本新党→自民党→民主党と変わったことと同様ですね。酒井信彦はチベット人による政権という意味で使用しているので、そこのところをチベット人による政権と分かりやすく補えば問題ないでしょう。政権というものは小泉政権→安倍政権→福田政権→麻生政権→鳩山政権→菅政権のように細かく定義される場合。酒井信彦の定義は間違っているわけではなく、区切りが詳細ではないというだけですので間違いではございません。--Chichiii 2011年1月21日 (金) 22:54 (UTC)[返信]
私が問題にしているのは、酒井信彦氏の「見解」や「定義」そのものではなく、Chichiiiさんの文面です。
問題点1で示したあなたの文面についていうと、
  • サキャパ政権はチベットではなく、モンゴル帝国の首都の大都・上都を本拠地としている政権である。
  • パクモドゥパ政権・ツァンパ政権は中央チベットを掌握するのが精一杯な政権で、チベット全土を統合してはいない

という点で史実に反し、誤りです。

問題点2 「兵部」は唐王朝以来、中国の中央政府の一部であり、明の衛所制、清朝の土司制とも、兵部を介した制度です。したがってこれもChichiiiさんの文面は誤りです。
問題点3 (1)清末は「独立状態」どころか、首都ラサまで制圧され、ダライラマ十三世はインドに脱出していた。(2)チベットのうちアムド地方の全域とカム地方の東部・南部は雍正のチベット分割以来、ダライラマ政権の支配下からはなれ、民国期にいたるも青海・甘粛・川辺(西康)・雲南に四分割されて支配を受け続ける状態はかわらなかった。
問題点5について 【明朝とチベットの諸侯・教団との間で衛所の官職や法王・教王の称号が授受されていた】という指摘の根拠として、佐藤長「パクモドゥパ政権初期のチベット情勢」「明朝冊立の八大供教王」(『中世チベット史研究』同朋舎,1986, 第三、第四論文)を挙げておきます。この関係は、中国を支配する王朝がチベットの教団や領主の所領を安堵したり地位の継承を認定するという点で、元朝期の万戸制や清朝雍正期以降の土司制度と同様の制度です。酒井論文がもとからあやまっているのか、Chichiiiさんによるアレンジが加えられた結果誤りとなったかのかは知りませんが、いずれにせよ誤りであり、花蝶風月雪月花警部 さんが「酒井信彦説」として切り分けてくださった文面は、そのままならば削除すべきと考えます。
: :問題点6

2011年1月22日 (土) 07:57の変更で定義部に「加えて青海省が含まれる」という一句を付加なさいましたが、「チベット三チョルカ」、「プーと大プー」、「中華人民共和国が…総和」、「チベットの項の付図…領域」等の記述に青海省にあたる地域はふくまれており、それとは別個に青海省があるかのような記述は誤りであるので、削除いたします。

※「検証可能性」をおっしゃったので、チベット史の専門家の論文を示しました。それらをご覧頂かずにまた記事の文面の差し替えを実行なさったようですが、あらためて、私が指摘した問題点、ご自分が「酒井信彦の見解」と称して執筆された文面をいまいちど点検していただきたいとお願いいたします。--Dalaibaatur 2011年1月22日 (土) 03:24 (UTC)--2011年1月22日 (土) 03:44 (UTC)一部増補改訂[返信]
花蝶風月雪月花警部さんがいつものようにストークしてきて途中で書き換えておかしくなったのでいったん戻しますので、おかしいと思われるところを推敲して直して下さい。--Chichiii 2011年1月22日 (土) 11:24 (UTC)[返信]
問題点1-3,5,6で「誤り」だと指摘した記述について、反証もあげずに「正しい」(と私が考えている記述)と置き換えになられた箇所を、もとの文面に復帰させていただきました。Chichiii さんの会話ノートに、Chichiii さんとの「合意形成」に関する希望事項を書いておきましたので、ごらん下さい。「--Dalaibaatur 2011年1月22日 (土) 13:30 (UTC)[返信]
問題点1は書き方が良くなかったとのお話分かりました。
問題点2は唐の時代の「兵部」も関与したとのお話は分かりましたが、Dalaibaaturさんによる中国の中央政府とした記述には問題があります。唐と清を中国と書くと中国という国名を標榜しだした中華民国・中華人民共和国と混同されてしまいます。ここは改善する形で行きたいと思います。
問題点3酒井は漢民族を支那人と呼称しているので満州人の清の統治については関係ありません。
問題点5学者によってとらえ方が違うのでしょう。
問題点6については分かりやすく推敲しときましょう。--Chichiii 2011年1月22日 (土) 13:52 (UTC)[返信]
議論して合意形成をめざす方向に転じていただきありがとうございます。
問題点2 元朝期のチベットにおける「万戸制」は「宣政院」の管轄ですが、明朝期の衛所制および清朝の土司制兵部の管轄です。以上より、清朝に限定しようというChichiiiさんの書き換えは、申し訳ないですが「改善」とはみとめられません。代案を出していただくか、もとの文面の復帰のご了解をいただきたく。
問題点3 国土の半分以上(アムド全域とカムの東部・南部)に分布する諸侯に対する支配権を失った時期(1724-1905)や首都まで占領されて元首ダライラマ十三世がインドに脱出せざるを得なくなった時期(1905−1911)期が「事実上独立」で、中央チベットとカム地方西部を確保するのが精一杯で、アムド地方の全域とカム地方の東部・南部を民国の青海馬政権や川辺(西康)・雲南の地方政権にゆだねていた時期(1911-1949)を「完全に独立していた」とする「酒井氏の定義・見解」?は、酒井氏がほんとうにそのように主張していたとしても、史実には反しますので、「記事の文面」としてはまったく同意できません。
問題点6 「三チョルカ」という区分における「人のチョルカ・ドメー」、「プーと大プー」という区分における「大プー」の北部が「青海省」を包含しております。「チベット人が考えるチベットの領域」という一節の中の文章ですから、青海省だけ取り出して言及するのでなく、「チベット人が考えるチベットの領域」の上に中国が設置した自治体の一つとしてとりあげるのであれば、青海省の名を挙げることに反対しません。地図の説明の中で言及されましたが、いまひとつの工夫を希望します。--Dalaibaatur 2011年1月23日 (日) 07:58 (UTC)[返信]

飢餓に関する記述

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西方さんが2月8日に投稿した下記の記述は、「チベットの領域に関する認識と主張」には該当しない記述なので、記事からはずしました。

このような中国側の反論については、チベット亡命政府もそのつど反論している。国家民族事務委員会があげた「経済的発展が十分ではない」という指摘については、チベット亡命政府は、極秘文書で長らく行方不明であったパンチェン・ラマ10世による「七万言上書」[2][3]の記録の研究によって、大躍進政策の余波によるとしている。1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45%に当たる90万人が死亡し、四川省では900万人が死亡したといわれ、カム地方では、1965年まで飢餓が続いた[3]
大躍進政策は中国全土で5000万人の餓死者を出したといわれる悪名高い政策で、その後、毛沢東は、この政策の失敗を認め、国家主席を辞任し、はじめて自己批判を行っている。

上記記述があった場所で記述されるべきチベット亡命政府の主張としては、

  1. チベットが「歴史条統合されていた」ことを示す史実の提示
  2. チベットが統合可能なことを示す経済学的観点からの反論

などの内容のものを挙げるべきと思います。--Dalaibaatur会話2012年3月11日 (日) 08:14 (UTC)[返信]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 酒井信彦 (2004年2月24日). “中国・中華は侵略用語である ― シナ侵略主義の論理構造 ―”. 財団法人・日本学協会『日本』 平成16年(2004)2月号. 日本ナショナリズム研究所. 2010年11月21日閲覧。
  2. ^ 「パンチェン・ラマの意見書(「七万言上書」)概要」(イザベル・ヒルトン〈三浦順子訳〉『ダライ・ラマとパンチェン・ラマ』、ランダムハウス講談社、2006年)、ジャンベン・ギャツォ『パンチェン・ラマ伝』平河出版社,1991、毛里和子『周縁からの中国:民族問題と国家』(東京大学出版会, 1998)
  3. ^ a b [1]TIN News Update, 5 October, 1996 Secret Report by the Panchen Lama Criticises China(小林秀英訳「パンチェン・ラマの秘密文書、中国を非難」)

中国国民党の主張

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中国国民党や台湾政府もチベットを自国領土だとしています。 この点は書かなくても良いのでしょうか? --182.166.182.78 2012年10月6日 (土) 16:17 (UTC)[返信]