ノート:チベットの旗
雪山獅子旗のデザインに対する青木文教の関与
[編集]【一説では、1910年代にチベットに滞在していた日本人学者青木文教が考案したとされている】という一節について、青木自身は、自らがデザインに関与したチベットの旗については、「軍旗」だと述べている。青木自身の記述について、青木文教『秘密の国 西蔵遊記』(中公文庫版, 1990)の記述は以下のとおり。
- (チベット軍の教練に関する記事に続けて)而してこの日初めて新定の軍旗を使用したが、その模様は下半部に富士山形の雪山を描き、唐獅子の図を配し、上半部即ち雪山の上には地色を黄いろくして日本の軍旗の半分を写し取ったような旭日を置き、その片隅に月を小さく銀色に描いてある。これらの日、月、雪山及び唐獅子は西蔵の記号で、司令官と予が戯れに図案を作ってみた紙片が図らず法王の目に止まり、当分仮にこれを軍旗に採用せられることになったのである。この新軍旗は時々風に翻る調子で日本の軍旗のように見えるので、更に改訂するはずであった。ちなみに旧軍旗は三角形の赤地に唐獅子と雪山とを大きく描き、日月を上部に小さく遠方からは見えないくらいに附加えたものである。(p.114)
以上より明らかな点は次のとおり。
- 青木がデザインに関わったと述べているのは軍旗であって、国旗についてはいかなる言及もない。
- 青木単独のデザインではなく、ツァロン(青木のいう「司令官」)との共同作業である。
- 青木によるデザインへの関与は、「日、月、雪山及び唐獅子」など、所定のシンボルと地の色の「バランスよい配置」にとどまる。
- 上引の軍事教練が行われたのは1913年10月以降のことであり、この段階でも、青木が関わった「新定軍旗」のデザインは仮採用に過ぎない。
- 「地色を黄いろくして」、「日本の軍旗の半分を写し取ったような旭日」、「時々風に翻る調子で日本の軍旗のように見える」という記述より、青木とツァロンによる配色では、黄地に赤色の太陽であったと推定される。
- 国旗たる「雪山獅子旗」には、「月」がなく、配色も青木が関わった軍旗とは相違している。
以上より、【一説には(後略)】の一節は、青木自身の記述に則しても非常に不正確であり、誤解を招くので、削除すべきである。--Dalaibaatur 2006年2月27日 (月) 07:01 (UTC)
- 削除しました。--Dalaibaatur 2006年3月12日 (日) 03:38 (UTC)
欽定蔵内善後章程二十九条にもとづくと称するYaogenki さんの記述について
[編集]「2008年4月28日 (月) 19:43時点における版でYaogenkiさんが行った編集について、出典のご呈示がないので、とりあえずノートに移動しました。Yaogenkiさんが付加した記事の文面。
- 九世紀中ごろ吐蕃王朝 (とばんおうちょう)が分裂し、滅亡した。それからの長い間はチベットに正式の軍隊がなく、軍旗も制定されていなかった。清朝の乾隆帝が1793年に発布した『欽定蔵内善後章程二十九条』には次のような記述がある。“蔵(チベット)は常備軍も持たない、戦争の時には臨時に動員しないといけなかった。これでは十分な戦力が得られないし、民が安んじて生活することもできない。これからは皇帝の承認を得て、三千名の兵士からなる常備軍を創設しよう”。これが以後の“蔵軍”(チベット軍隊)である。また、この軍隊が訓練や戦争で用いる旗を作らせた。これが雪山獅子旗の由来である『欽定蔵内善後章程二十九条』における軍隊の記述と軍旗について、信頼できる情報源への参照が求められています。[要出典]。
Yaogenkiさんにおたずねします。『欽定蔵内善後章程二十九条』の第何条に、上記のような「記述がある」のですか?とくに「軍旗」の記述がどこにあるのか教えてください。--Dalaibaatur 2009年11月6日 (金) 18:27 (UTC)
国旗では有りません。チベット亡命政府は「国家」では無い。
[編集]ガンデンポタン(中央チベット政府)は現在(2014年)、 国家・領土・軍隊・主権・法治を完全に喪失しています。 チベット亡命政府をあたかも「主権国家」のように扱うのは間違いです。 パレスチナ自治区みたいに、このチベット亡命政府を国家認証して国交・外交をしている 国連加盟国は存在しません。 亡命政府は西康省やチベット自治区において何の影響力も無く、せいぜい政治団体であります。
現在のチベットを代表する国家政府(自治体)はチベット自治区であると、 日本国政府、日本国外務省も認識しております。--119.230.122.107 2014年11月30日 (日) 11:44 (UTC)
歴史的には国旗です。ガンデンポタンはチベット国の政府でした。
[編集]チベットの政府「ガンデンポタン」は1642年に発足してから1959年のチベット動乱まで、チベットの国土の全域(または中枢部分)を統治しておりました。
- 1642年〜雍正のチベット分割(1724-32)まで:チベットの全域
- 雍正のチベット分割以降〜1860年代:チベットのうち、西蔵部分の全域。またチベットのうち、西蔵には含まれない地域(アムド地方[1]、カム地方の北部[2]、東部[3])にも寺院の管長職や化身ラマの認定権など、宗教行政上の権限を行使。
- 1860年代〜1905年:カム地方の東部のニャロン地方(現新龍県)を領有して「ニャロン・チーキャプ(ニャロン総督)」を任命、周辺の諸侯にも影響力を行使。
- 1905年~1919年:清朝・中華民国北京政府]とカム地方の統治権をめぐり軍事衝突。
- 1912年~1913年:ガンデンポタンの元首ダライ・ラマ13世、チベットの清朝からの独立を宣言。モンゴルとの間でチベット・モンゴル相互承認条約を締結。
- 1932年〜1933年:カム地方の北部・東部において中国の青海省・四川省の地方政権と軍事衝突。
- 1945年〜1949年:アムド地方・カム地方東部を支配していた中華民国の地方政権が、中国共産党に服属。中華人民共和国の成立。
- 1950年-51年:従来、ガンデンポタンが排他的実効支配を確立してきた西蔵部分に対し、中国人民解放軍による軍事制圧。
- 1959年:チベット動乱。ガンデンポタン、チベットを脱出、亡命政府となる。中国は西蔵の軍事支配に加えて行政支配も開始、1965年、西藏自治区発足。
本記事が対象としている旗は、チベットの中枢部分を排他的に実効支配し、清国からの独立を宣言していたガンデンポタンが、1910年代に国旗として制定した旗です。したがって歴史的にみれば、「かつて国旗であった旗」であることには間違いありません。--Dalaibaatur(会話) 2015年1月22日 (木) 07:17 (UTC)