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ノート:ダライ・ラマ14世/過去ログ1

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移動提案

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他言語版でも本名での表記になっているので、この記事名を「テンジン・ギャツォ」へ移動することを提案したい。Sionnach 2006年9月24日 (日) 02:36 (UTC)

賛成Roter Stern Leipzig ’99 e.V. 2006年9月25日 (月) 08:28 (UTC)

反対。出家した仏教僧を俗名で記事にするのは不合理。दिग्नाग (Dignaaga) 2006年10月30日 (月) 18:07 (UTC)

源義経を牛若丸の名で記事にするようなもので、不自然ではないですか?--220.156.55.78 2006年11月11日 (土) 15:11 (UTC)

反対です。それならば、ローマ教皇や日本の有名な僧(例.空海など)の項目名も、皆本名にしなければならないはずです。また、このようなナンセンスな提案は、ダライ・ラマの「転生」といった信仰を軽視する中華人民共和国政府の立場におもねることにもつながり、ウィキペディアの中立性にも反します。

日本で広く浸透している表記が望ましいと考える。--経済準学士 2006年11月19日 (日) 15:34 (UTC)

ここは日本語のウィキペディアなわけですから、必ずしも他言語の表記に合わせる必要はないのでは。特にこの項目のように、日本で広く浸透している表記は、無理に移動する必要があるとは思えません。現状のように本文で本名を表記するか、移動するにしても併記の方が望ましいかと思います。--218.45.248.77

同意します。日本で広く知られている「ダライ・ラマ14世」にすべきです。理由は誰も知らない名前をタイトルにされてしまえば、検索の煩雑さが増すからです。スムーズに検索結果が出るべきです。わざわざオウルやハイドロゲンガスと表記したり、生物のページはどれもラテン語の学名で課かなければならなくなったら、象やキリンやパンダでさえ検索しにくくなる。これは人間の利用に合わない。塵肺症といえば直ぐ分かるのに、「pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis」と、書いてしまって訳が分からなくようなもの。こんな長い英単語をわざわざ検索BOXに毎度書かなくちゃならなくなるのもはっきり言って御免です。--みそちる 2006年11月24日 (金) 20:32 (UTC)

「テンジン・ギャツォ」から検索をするほどの人は、すでに彼が「ダライ・ラマ14世」であることを知っているだろう。 大半の人は、「ダライラマ14世」がどのような人物であるかを調べるところから始めるだろう。 よって、検索の表記としては「ダライ・ラマ14世」とすることが合理的である。

既にSionnach氏が提議してから2ヶ月が経過しました。記事名改名に賛同する意見はないようですから、現状保持の結論でどうでしょうか? 月末まで待って、記事のテンプレートを外したいと思います。 異論等がある方は動議をどうぞ。दिग्नाग (Dignaaga) 2006年11月26日 (日) 16:32 (UTC)

上記現状保持に同意します。異論のある方は、根拠を示して下さい。218.45.248.77

反対意見が多かったため、現状維持として終了します。--経済準学士 2006年12月19日 (火) 06:57 (UTC)

>出家した仏教僧を俗名で記事にするのは不合理。
それは変ではないか?ジェツン・ジャンペル・ガワン・ロサン・イシ・テンジン・ギャツォは2歳の時にダライラマになったことによって付いた名であり俗名ではなく法名である(執筆者の無理解が痛ましい)。ダライラマはあくまでも称号にすぎない。その上ダライラマ14世という言い方の他に14世ダライラマということもあり揺れがある。チベット語版でもやはりབསྟན་འཛིན་རྒྱ་མཚོ་(テンジン・ギャツォ)である。
また歴代ダライラマをダライラマ1世~14世といった風に記事名をつけていくと、歴史上の問題が生ずることになる。それはダライラマ1世および2世は実際にはダライラマの称号を得ていないからである。ゲンドゥン・ドゥプおよびゲンドゥン・ギャツォは法名の方がよく知れている。更にいうと法名そのものが尊い意味を持っているのでダライラマ14世と呼ばないことで不遜になったりすることもない。Sionnach 2007年4月2日 (月) 17:58 (UTC)
日本語圏で浸透している名称を記事名にすることが望ましいと考える。日本語版は日本語版。外国語版に無理にあわせる必要はない。--経済準学士 2007年4月2日 (月) 18:21 (UTC)
無理にではない。現にチベット亡命政府でも[1]
ダライ・ラマ法王十四世テンジン・ギャツォは、チベット民族の国家的、精神的指導者の地位に就かれています。
と本名が書かれている。それどころか「ダライ・ラマ法王14世」と言っており、「ダライ・ラマ14世」で固定されてはいない。当事者のサイトに合わせるのが筋であろう。Sionnach 2007年4月2日 (月) 18:42 (UTC)

ああそれからサラディンもサラーフッディーンとなっており、日本語版ウィキペディアの慣習は必ずしも知られている方の項目名にしなくてはならないということにはなっていない。Sionnach 2007年4月9日 (月) 05:26 (UTC)

反対します。移動によって、利用する人にとってわかりやすく利益があるのならば、移動するべきです。しかし、この項目の場合は、移動によって、利用する人にとっては、逆にわかりにくくなってしまいます。したがい、移動には反対です。 「テンジン・ギャツォ」は記事内に説明をすればことたりるでしょう。 私にはSionnachさんが移動に固執する理由が理解しかねています。--दिग्नाग (Dignaaga) 2007年4月10日 (火) 15:02 (UTC)

わかっていないなあ。記事内に記述があればそれで事足りるだろうに。まぁ、現在のところポーランド語版はダライラマ14世の記事名で行っているので別に構わんが。全世界的な流行になればそれには合わせるべきだろう。島国根性は捨ててユビキタスな精神をもって編集を重ねよう。Sionnach 2007年4月17日 (火) 19:56 (UTC)

「島国根性?」「ユビキタス?」ダライ・ラマ14世とは無関係な話にずれてきましたので、この移動の話は終了にしませんか?マスコミなどメディアの表記の主流がテンジン・ギャツォと変わるような状況がくるならばそのときに対処すればよいでしょう。दिग्नाग (Dignaaga) 2007年4月21日 (土) 00:21 (UTC)

もう5日以上議論が行われておらず、反対意見が多いようなので改名テンプレートはとりあえず外しておきます。125.175.242.125 2007年4月26日 (木) 14:42 (UTC)

公開プロクシによる投稿

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公開プロクシの方、そもそも編集する権利がないのですが、いい加減にして下さい。接続方法を改めた上で出典付きで中国側の主張は中国側の主張と分かるように記述するようにお願いします。この記事に直接関係しない主張まで書込まないで下さい。johncapistrano 2007年11月23日 (金) 17:03 (UTC)

またハンドルと正反対の主張の書込みをされる方が現れています。少なくとも出典のある部分まで消したりするのは止めませんか。johncapistrano 2008年3月6日 (木) 03:39 (UTC)

TibetFreedom氏の編集内容について

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内容が中国共産党政府の意図する方向に偏りすぎており、公正な記述とは言えません。また、記述の出典元を一宗教のHPに求めることには問題があるでしょう。 更にその宗教(具体的には阿含宗)をカルトと決め付けるには現状ではソースが不足しています。 TibetFreedom氏がダライ・ラマ14世に対して否定的な考え方を持っているのはよく理解できました。そして、その立場は尊重しますが、百科事典の内容としては相応しくありません。 TibetFreedom氏の編集が入る前、2008年2月12日 (火) 21:36版の方がより相応しいでしょう。 また、連続投稿は避けるべき行動です。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすをご覧ください。銅粉の湯 2008年3月18日 (火) 04:17 (UTC)

内容への評価について

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同じ判断基準を共有していない場合では、「肯定」や「否定」、そして公正であるかどうかはあくまでも人それぞれの考えに過ぎないことに注意をしなければなりません。政治形態や性質によって同一標準を持っていない人たちの評価は感情で各自に色付けられることが避けられない限り、誰でも客観的な記述ができません。「肯定」と「否定」は、主観的な判断に過ぎないので、(社会主義国家であっても資本主義国家であっても、)そもそも自分たちの国の政治形態を基にした考えは「百科事典」という客観的に物事を記録し解釈するところに載せるべきでもありませんね。--k.c 2008年3月20日 (木) 10:46 (UTC)

でたらめばかり

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CIAとかオウム真理教との関係など、中国側の主張を書き込む場合はきちんと明記して下さい。他国語のwikipediaには載ってません!--以上の署名のないコメントは、81.57.102.145会話/Whois)さんが 2008年3月20日 (木) 16:12 (UTC) に投稿したものです。

アメリカの支援を受けた武装闘争の指揮について

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――は記述が必要だと思いますね。こんな写真があります。(誰か詳細な資料をお持ちの方、保護が解けたらお願いします)

のちにニクソン訪中・キッシンジャーの反対で援助は止められましたが、対中武装闘争を戦っていた“テロリズムゲリラ組織(レジスタンス運動ともいいますが)の首魁”でもあるのです。--122.249.99.133 2008年3月21日 (金) 09:26 (UTC)

ひげもじゃのコーカソイド顔の「チベット人部隊」なんてありますか。ターバンかぶってるのもいるし。ジープの坊さんの骨柄も、ダライラマっぽくないですなw--210.150.101.185 2009年10月14日 (水) 09:52 (UTC)
>対中武装闘争を戦っていた“テロリズムゲリラ組織(レジスタンス運動ともいいますが)の首魁”
南アフリカのネルソン・マンデラも反アパルトヘイト運動において、民族の槍という軍事組織を作って初代司令官になっていた武闘派でしたねえ。--経済準学士 2008年3月21日 (金) 15:01 (UTC)
カム地方の人々が故郷で蜂起→敗北し、ガンデンポタン管轄下の西蔵に逃げ込んだあとで結成した抗中ゲリラの統一組織チュシ・ガンドゥクの指導者は、グンポタシ、ついでバーパ=イェシェで、その次がグンポタシの甥です。ダライラマ14世がこの組織の「首魁」になったことはありません。ダライラマ14世は、いずれの抗中ゲリラ組織のリーダーにもなっておりません。「なっている」と主張したいのであれば、いつ・どこで結成された、いかなる名称のゲリラ組織であるのか、その名称を明らかにしていただきたいものです。「 アメリカの支援を受けた武装闘争」の窓口となったのは、上述のチュシ・ガンドゥクで、この組織の存在も、米国CIAから支援をうけていたことも、別に秘密でもなんでもありません。「米国から支援」を受け、かつダライラマが「首魁」であったようなゲリラ組織が別に存在していたのであれば、大変興味深いので、ぜひ「いつ・どこで結成された、いかなる名称のゲリラ組織であるのか」をご紹介ください。--Dalaibaatur 2009年10月14日 (水) 15:04 (UTC)

事実を書き込みさえすれば良い訳ではないのでは?

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ダライ・ラマ14世は、有名・無名を問わず、また宗教を問わず広く色々な人と会っています。 そこを利用される事もままあり、オウムの一件などはまさにそれでしょう。 また、阿含宗については、単に「ダライラマに会ってもらいました」というだけであり、それを以ってして交流があったとは言いがたいものです。 また、この程度の細かな”交流”を書くのであれば、それと同列に挙げなければならない事柄も多くなり、記事の内容自体が冗長となります。 何より問題だと感じるのは、現在の内容だと「反社会的宗教とのみ交流がある」と誘導される点です。 偏った点からのみ記述すれば、それが捏造では無かったとしても全体像として偏ったものとなります。 (例えば、ある人物評を書く場合、その人物の余暇の過ごし方のみに焦点をあてれば、仕事をしない人間であるかの如き印象を読み手に与える事は可能です。) やはり、このような書き方はまずいでしょう。 個人的には、現在チベット・ラサで中国政府による弾圧が行われている関係からネガティブキャンペーンを行いに来た関係者では無いかと感じています。銅粉の湯 2008年3月21日 (金) 16:12 (UTC)

中国から流されているプロパガンダや中国側の印象操作を削除してゆきましょう

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(以下、ウィキペディアに相応しからざるNipponDesuの暴言コメントアウト)

>>そもそもウィキペディアはなんだとよく考えてください。百科事典です。政治闘争に使われるものではありません。ウィキペデアの概要をよく読んでいましたか。お話の内容はちょっとずれていませんか。以下Wikipedia:ウィキペディアについてから引用

ウィキペディアはフリーなインターネット(オンライン)百科事典です。誰もが無料で読むことができ、自由に複製や改変を認めるオープンコンテント方式を取っているので、誰もが記事の編集に参加できます。参加に特別な資格は必要ありません。ウィキペディアの基本方針を守っていただくだけでよいのです。ウィキペディアのプロジェクトは2001年1月15日に英語版を皮切りに開始されました。日本語版では現在までに 479,011 項目の記事が作成されています。既に100万以上の項目がある英語版を含め、他にも200を超える言語版で編集活動が進行中です。…」 --k.c 2008年3月23日 (日) 09:49 (UTC)

平衡感覚を失われている方も多いようですね。 パラノイア気味に事実まで隠すようではいけません。オウム関連など、事実の部分もあるのであれば揉み消すような行為は慎むべきです。 NipponDesuさんの投稿などは、これは今後の編集者への反面教師的な意味を込めて残して色んな方に見ていただきたいものです。 --Milkman 2008年4月24日 (木) 09:19 (UTC)

やはり中国大陸系の者による印象操作は削除が妥当

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(以下、ウィキペディアに相応しからざるNipponDesuの暴言コメントアウト)

阿含宗との関わりについての出典の信頼性

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阿含宗との関わりが書かれていますが、情報源が全て阿含宗のHPです。自己公表された一次情報源であり、信頼性は低いのではないでしょうか。二次情報源が無い限り、検証可能性を満たしているとは言えないと思います。記述を一旦除去し、阿含宗に関する記述には二次情報源の出典が必要であるとコメントアウトにて記載するなどの対処が妥当と思われますがいかがでしょうか。1週間以内に異議が書き込まれない場合は、前述の編集を行います。--Cathkidston 2008年4月15日 (火) 02:22 (UTC)

異議なしのため、上記編集を行いました。--Cathkidston 2008年4月24日 (木) 19:31 (UTC)

削除依頼のその後は?

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Wikipedia:削除依頼/ダライ・ラマ14世 20080418の件、どうなっているんでしょう。Wikipedia:削除依頼/ログ/長期積み残し案件に入っていないところを見ると、忘れられちゃっているんでしょうか?--Freetrashbox 2008年5月5日 (月) 23:12 (UTC)

今更ですが、解決ずみですね。担当された方、ありがとうございました。--Freetrashbox 2008年6月2日 (月) 12:38 (UTC)

井戸端での指摘を転記

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井戸端でUser:みすまるのたまさんから以下の指摘がありました[2]ので、書式などを修正してこちらに転記しておきます。

『ダライ・ラマ14世』の頁で明らかに不自然な記載があります。
パンチェン・ラマ10世との関係”の欄に パンチェン・ラマ10世が心疾患で急死した際は、ダライ・ラマ14世は追悼式には参列しなかった。
と記載されていますが、パンチェン・ラマ10世は1964年、ラサで説法をした際、1万人以上の 民衆の前で「ダライ・ラマ法王万歳!」と口にして失脚、北京の独房で10年間過ごすはめになり、 チベットに戻ってきた1989年1月、中国に批判的な演説を行なった5日後に心臓発作で亡くなりました。この年の6月4日に起こった天安門事件の重大な原因と指摘されている亡くなり方でした。こういう状況の中ですから、
ダライ・ラマ14世は、追悼式に参列できなかった。
と記載しなければ、整合性がありません。

よろしくご検討ください。--Ks aka 98 2009年5月25日 (月) 08:35 (UTC) Ks aka 98さん、転記して頂きましてありがとうございます。 パンチェン・ラマ10世は1964年、ラサで説法をした際、1万人以上の 民衆の前で「ダライ・ラマ法王万歳!」と口にして失脚。北京の独房で10年間過ごすはめになった。名誉を回復され、チベットに戻ってきた1989年、中国に批判的な演説を行なった5日後に心臓発作で亡くなった。 と『知識ゼロからのダライ・ラマ入門』(長田幸康著、幻冬舎刊)のP118に記述されています。 その最後の演説についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に、中国政府の用意した演説原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、寝室で「心筋梗塞」で倒れ、約15時間後に死去したとされる。 と記述されています。死亡日の1月28日から天安門事件の6月4日までの騒乱の最中に、ダライ・ラマ14世が追悼式に参列できる筈がありません。 ですから、“追悼式に参列できなかった”と改めてください。よろしくお願いいたします。--みすまるのたま 2009年5月27日 (水) 02:25 (UTC)

「パンチェンラマ10世との関係」と題する節だけで、なぜいまこの件だけ記述されているのかわかりませんし、先代のパンチェンとダライラマ14世の関係を記述するうえで、この件を取り上げる意味があるのかも理解できません。個人的にはもっと重要な事項をとりあげて、この件はなくしてしまってもいいほどに思っています。とりあえず、引用が不正確であったので典拠にある文面そのままを引っぱり、かつどこのだれが何で語ったことばであるのかを明示する修正を加えました。--Dalaibaatur 2009年12月5日 (土) 15:28 (UTC)

いんどねしあ氏による「農奴」関係の投稿の出典について

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いんどねしあ氏により、

投稿された以下の一節の出典を追求してみました。

=== 奴隷・農奴所有者として ===
(ダライ・ラマ14世は、)1959年に反乱を起こしてインドに亡命した時点で、荘園37、牧場30、農奴6170人、奴隷102人を直接所有していた。そのほかの財産は、黄金160328両、銀9500万両、宝石2万点以上、それらは金額にして当時の日本円で147億円であった。[要出典]

「荘園37、牧場30、農奴6170人、奴隷102人を直接所有」という語句で検索をかけると以下の二つの文章がひっかかりました。

以上2点のうち、(1)の森永和彦氏は、自身の記述にいかなる典拠も示していません。(2)については、「元記事」なるものが紹介されていました。
Kalovski, The True Face Of The Dalai Lama

ここには「In practice, his family directly controlled 27 manors, 36 pastures, 6,170 field serfs and 102 house slaves.」という一節があり、(1)の森永氏、(2)の記述とも、これを参考にしたようです。

問題は、この記述の信憑性と検証可能性であります。この元記事の筆者ですが、「革命的労働者」をなのる特殊な立場の人です。そして元記事をごらんいただくとあきらかなように、典拠がしめされていません。

Kalovski, The True Face Of The Dalai Lamaにはさらに元記事がありました。The Greanville JournalというブログのThe Dalai Lama—what Richard Gere won’t tell you, May 23, 2006というエントリー。ただしここでも典拠はしめされていません。--Dalaibaatur 2009年11月18日 (水) 04:57 (UTC)追加

以上より、いんどねしあ氏がチベットダライ・ラマ14世に投稿した「奴隷/農奴」の記述は「検証可能性」をそなえておらず、百科事典の記述にふさわしくないと考えます。そこでいったん記事からは削除することを提案します。

「ダライラマの荘園、牧場、農奴、奴隷そのほかの財産」については、「元記事」の創作でなければ、フィールドワーク公文書にもとづく中国の学者による研究、中国の報道があるはずですから、記事にするならそのような典拠にもとづくべきかと。--Dalaibaatur 2009年11月17日 (火) 16:02 (UTC)--Dalaibaatur 2009年11月18日 (水) 04:57 (UTC)修正

典拠は

The Anguish of Tibet, ed. Petra Kelly, Gert Bastian and Pat Aeillo, Parallax Press, Berkeley, 1991. A collection of pro-lamaist essays. Avedon, John F. "In Exile from the Land of Snows," in The Anguish of Tibet. Avedon, an author and Newsweekjournalist, is a prominent apologist for lamaism. Dalai Lama, Freedom in Exile--The Autobiography of the Dalai Lama, Harper Collins, N.Y., 1990. Grunfeld, A. Tom, The Making of Modern Tibet, Zed Books, 1987. Grunfeld, A. Tom, "Tibet: Myths and Realities," New China, Fall 1975. Gyaltag, Gyaltsen, "An Historical Overview," an essay published in The Anguish of Tibet. Gyaltsen Gyaltag is a representative of the Dalai Lama in Europe. Han Suyin; Lhasa, the Open City--A Journey to Tibet, Putnam, 1977. Hicks, Roger, Hidden Tibet--The Land and Its People, Element Books, Dorset, 1988. China Reconstructs, "Tibet--From Serfdom to Socialism," March 1976. Peking Review, "Tibet's Big Leap--No Return to the Old System," July 4, 1975.

です。211.129.181.115 2009年11月18日 (水) 06:10 (UTC)

本の名前がいっぱいでてきましたが、「荘園37、牧場30、(中略)当時の日本円で147億円であった」という記述がはたしてこれらの本のすべて?一部?に実在するのでしょうか?それぞれの本の何ページに、どんな文面で登場するのか教えてください。--58.188.96.51 2009年11月18日 (水) 11:05 (UTC)

典拠の2番目「Avedon, John F. "In Exile from the Land of Snows," in The Anguish of Tibet. Avedon, an author and Newsweekjournalist, is a prominent apologist for lamaism.」、3番目「Dalai Lama, Freedom in Exile--The Autobiography of the Dalai Lama, Harper Collins, N.Y., 1990.」が手元にあるので確認したいと思います。この二つの本について、「(ダライ・ラマ14世は、)1959年に反乱を起こしてインドに亡命した時点で、荘園37、牧場30、農奴6170人、奴隷102人を直接所有していた。そのほかの財産は、黄金160328両、銀9500万両、宝石2万点以上、それらは金額にして当時の日本円で147億円であった」という記述がある章のタイトルと収録ベージをお示しください。--Dalaibaatur 2009年11月18日 (水) 14:04 (UTC)

211.129.181.115氏が典拠と称してあげている文献リストを、丸ごと検索にかけてみたところ、こんな文章がひっかっかて来ました。タイトル「When the Dalai Lamas Ruled:Hell on Earth」、『Revolutionary Worker』誌944号(1998年2月15日刊)収録。IP氏が提出した文献リストは、この文章全体の参考文献として提示されているもの。とうぜんこの文筆者が「荘園37、牧場30、農奴6170人、奴隷102人を直接所有」云々の典拠として提示したものではない。このIP氏がいんどねしあ氏や森永和彦氏と同一人物であるのかどうかはわかりませんが、典拠をもとめられている場でこのような応答しかしないようでは、まじめに自分の文面の信憑性や検証可能性を担保しようとしているようにはみえません。--Dalaibaatur 2009年11月18日 (水) 16:51 (UTC)

[3] [4]ここにさんこうになる文が載っています。いんどねしあ 2009年11月18日 (水) 17:18 (UTC)

ここで問題になっているのは、「典拠の有無」です。そのふたつの「さんこうになる文」とも、「The True Face OfThe Dalai Lama」の和訳ですが、もとの英文を載せているサイト(上記を参照)は自身の「In practice, his family directly controlled 27 manors, 36 pastures, 6,170 field serfs and 102 house slaves.」云々の典拠を示していない、という点はすでに指摘済み。
中国西藏社会科学院(あるいは中国藏学研究中心etc.)の○○○教授は「1959年に反乱を起こしてインドに亡命した時点で、荘園37、牧場30、農奴6170人、奴隷102人を直接所有していた。そのほかの財産は、黄金160328両、銀9500万両、宝石2万点以上、それらは金額にして当時の日本円で147億円であった」と指摘している(以下記述の書誌情報.)。
なら記事としてなんとかカッコがつきますが、「中国西藏社会科学院の○○○教授」の部分が正体不明の「森永和彦」、Kalovski等の名義では、お話にならない、ということです。--Dalaibaatur 2009年11月18日 (水) 18:02 (UTC)

いんどねしあさん、もう止めておかれた方がよいと思いますよ。チベット問題について示される「典拠」が、中華人民共和国側のソースとか、それをもとにしたネット情報だけというのではどうしようもない。--220.147.184.113 2009年11月20日 (金) 13:11 (UTC)Sie

いんどねしあさんから典拠のご提示がなかったので、問題の一節は削除しました。典拠は、学術的な研究、調査とか、プロパガンダっぽいものでも発信したのが当事者(この記事の場合なら、チベット亡命政府や中国政府あたり)のものであるならば、記事にしたり典拠として利用する意義・価値があると思いますが、正体不明のシンパによる出典不明の数値は、どっちの側のものであれ、とりあげる意味や意義、価値はないかと。--Dalaibaatur 2009年12月4日 (金) 20:58 (UTC)

シーシェパードとの関係

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>>シーシェパードの創設者であるポール・ワトソンは、ディスカバリーチャンネルにてダライ・ラマ14世からシーシェパードを支援するとした手紙を受け取ったと述べているが[81]、ダライ・ラマ14世自身は日本を訪問したとき、シーシェパードに対して暴力行為の停止を求める書簡を送ったことを会見で明らかにした>>
とありますが、ダライ・ラマ14世からシーシェパードを支援するとした手紙が、実は暴力行為の停止を求める書簡だったということでしょうか。それならばそれらを客観的に裏付ける資料の付加をお願いいたします。--219.35.22.28 2015年10月30日 (金) 07:03 (UTC)