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ノート:タイポグラフィ

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嵯峨版の記述があいまいだとか関係ないというのや、いきなり本木昌造に飛ぶのは納得がいきかねますが、それはあまり問題ではなくて、タイポグラフィの定義の書き換えで、別のものを指してしまっているように見えるのは私の誤読でしょうか。2005年9月10日に、

タイポグラフィ (: Typography) とは、印刷において、素材、殊に文章の、書体文字や語彙・行間の間隔を選択し、それらを配置する技芸である。タイポグラフィにおける二つの基本的な機能は、読みやすいだけでなく、文章を視覚的にも満足させる様式で表現することである。後者は色や強弱、文字の交錯などの全体的な雰囲気、あるいは印刷素材の質感などによる、多くの方法で実現される。

と書き、218.231.249.23さんは、それを

タイポグラフィ (: Typography) とは、活字(あるいは同様の文字の形状を複製して反復使用して印刷するための媒体)を用いて、文字を印刷媒体上に配列し、定着させるための技術と、それに付随する審美的様式および真美観。

とお改めなさいました。新しい文章を読むと、私には、これはタイポグラフィの説明ではなくて、なにか別のものを指しているように思われてなりません。例えば、活字を用いる、というのは正しいと思うのですが、「文字を印刷媒体上に配列し、定着させる」といふのは何か欠けがあるように思われ、さらに、それが「技術」か、となるとさらに疑問です。なぜ「技芸」ではいけないのでしょうか? 文字(ここは文章などの内容ではありませんか?)を配列(=按排に限定するとしても一般的語義では単に「並べる」であろうかと思い、それだと「(読みやすいように)適切に配置する」という意味が損なわれ、適切な書き換えではないように思われるのですが)するときに、ただそこにある活字を拾うだけでは、とても「審美」には結びつきませんから、書体の選択、レター・スペーシング、ライン・スペーシングも問われるのですし、自明というには重要すぎる事柄を、ほかで説明することなく消すだけ、というのはあんまりであると考えます。

結局、「タイポグラフィ概念を定義する上で論証が難しい曖昧な記述」という判断の妥当性は、低いと私は疑っているということです。 Kzhr 2005年9月24日 (土) 13:05 (UTC)[返信]

アカウントを作っていただけると少し助かります。Wikipedia:ログインの仕方を参考に、おつくり願えませんか。 Kzhr 2005年9月24日 (土) 17:24 (UTC)[返信]

オリジナルは、 「印刷において、素材、殊に文章の、書体、文字や語彙・行間の間隔を選択し、それらを配置する技芸である。」

とありましたが、これでは、活字を用いなくてもタイポグラフィが成立することになります。たしかに、周辺的な要素として必ずしも活字を用いない場合もタイポグラフィと認めてよい場合があるかもしれませんが、タイポグラフィの中心概念は、鋳造活字による文字の複製を印刷に用いることにあるわけで、直接「書体」や「文字」や「語彙」を操作するものではありません。

だから、「活字」に言及しないタイポグラフィの定義は不適切であると考えます。

いかなる審美的表現も、タイポグラフィにあっては、複製技術としてのタイポグラフィを前提としているわけで、タイポグラフィという技術によって生み出される文化的成果の総体を見て、そこに技芸としての「タイポグラフィ」を再認識することは、たしかに妥当だと思います。ですから、「技芸」が悪いとは考えません。スペーシングやレイアウトなどがそれに関係することは、もちろんご指摘のとおりです。

また、同一字形をある程度正確に複製できる鋳造活字などの技術がタイポグラフィの前提である以上、整版や木活字などと混同されないように配慮する必要があると考えます。(Posted by 218.231.221.63, 9/25/2000 01:27(GMT), Kzhr誌)

不満や疑問が一切合財解消された、とは思えないのですが、解消する端緒は開かれたと感じます。修正ありがとうございました。 Kzhr 2005年9月25日 (日) 09:54 (UTC)[返信]

追加修正

[編集]

指摘に従って、タイポグラフィの周縁領域との連関を記述。 さらに、目的を修正(特に、文字と活字の区別のあいまいを取り除きました)。 これに問題があれば、指摘していただいて、適宜修正してください。

ところで、木活字などをタイポグラフィの領域の周辺的な(境界的?)なものとして位置づけたのは、近代的な活字製造とタイポグラフィの技術の発展というもの(実はそれもまた、やはりタイポグラフィ自体が強化し推し進めてきた近代なるもののひとつの所産なのです)が、鋳造などの複製技術によらない文字図形の印刷への利用を積極的に拡大するのではなく、むしろ抑制してきたように思えるからです。例えば見出し用の大型の木活字のような、当初有用であったものでさえ、最後には軽量化と金属の節約を図って活字ボディの内側を空洞化した大型活字をライノタイプで実現することで置き換えてしまいました。たしかに、欧文のスクリプト体活字用の精密な鋳型を考案するなど、書写や彫刻文字と鋳造活字による複製との間には、避けられない深い関係、また葛藤(愛憎?)があることは否定できません。ただ、そのような周縁的な、あるいはより高度で繊細な意識によって理解すべき事柄を、基礎的で中心的なタイポグラフィの概念と等価に扱ってしまうと、不必要な曖昧さを生むことにつながり、誤解を生みやすいのでは、と危惧した次第。もちろん、もっと妥当なやり方もあると思いますので、問題があれば適宜修正してください。