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ノート:スカトロジー

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ルイ14世の記述について

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>フランス革命により処刑されたフランスのラストエンペラーである彼は、国王でありながらも、寡黙で心優しい技術者タイプの男であった。当時の残虐な処刑制度を改めるべくギロチンを発明するも、皮肉にも自ら断首台で命を断ったが、革命前の平穏な生活では美食家であるとともに、猛烈な浣腸マニアであった。彼の日記には、料理に関する記述とともに、恥じることなく浣腸に関する記述が遺されている。特に浣腸に関する記述は充実しており、毎日必ず欠かすことは無かった。だが、当時の欧州の貴族社会では、浣腸をはじめとする今日のスカトロプレイに対して、タブー視されることは無く、むしろ遊戯の一環として、広く楽しまれていた背景事情があった。


とありましたが、フランスであるので最後の皇帝という記述は的外れで、フランス革命で処刑された王はルイ16世です。またギロチンの発明者は機器の設計者アントワヌ・ルイもしくは発案者ジョゼフ・ギヨタンのどちらかであり、フランス王は関係しません。そのため、この文章はルイ16世を指している可能性もあればまったくの誤りである可能性もありますのでいったんコメントアウトしました。詳しい方訂正、加筆をお願いします。Preacher 2007年3月3日 (土) 05:01 (UTC)[返信]

画像の掲載

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このたび、uaaさんがファイル:Bajs.jpg(注:リンク先は直接的な人糞画像)を添付したのですが、その理由付けは「(記事が)寂しい」や「実際に食べている画像があればいい」というもので、果たして説明の上で必ずしも必要であったのか問題視(→利用者‐会話:Uaa#あの画像)し、問題提起します。画像については「必ずしもスカトロジー全体を説明していない(にもかかわらず記事全体をスポイルするインパクトを持つ)」ため差し戻しましたが、説明的な画像の添付に付いては否定するところではないものの、連想的に説明的かどうか疑わしい画像は、記事にとって必要ないと考えています。--夜飛/ 2010年3月7日 (日) 07:26 (UTC)[返信]

この記事の編集方針について

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Yatobiさんと私が「取り消し」を繰り返しています。編集前のページは、いわゆる「充填された語」「出典・引用の欠如」「独自研究の可能性」など多岐にわたる点でwikipediaにまったくそぐわない文体で記述がされており、タグをはればすむという問題ではありません。そのことは元記事が次の「エッセイ」と酷似していることから明らかでしょう(元記事の執筆者である可能性がきわめて高いと思われます。もちろんそのこと自体は問題ありません)。編集前の記事がこの「エッセイ」とどういった点で異なるのか、および私の編集が「場当たり的記述」だという根拠、この2点をYatobiさんにうかがいたい。http://www.adachi.ne.jp/users/yossie/scatolo.htm--ZIPs 2010年8月16日 (月) 16:19 (UTC)

対話を持ちかけるなら、記事に手を入れないのが順当でしょう。それをさて置き自分の編集行為を強行すれば、ただの応酬にしかなりません。また、その指摘された外部リンク先テキストと何処が「酷似している」のか、まったく首をかしげざるをえない。私的な印象論として同一視しているなら話にもなりません。事物を順を追って説明した内容と、EL先の思索の過程を書き綴った内容とを同一視する発想も異質であるが、それに立って性癖や、それに基づく文化性だけ残して記述除去する発想も、また奇異といわざるを得ません。そして、そのようなSelfPOVに立つ視点で他に意見を求めるでもなくいきなり記述除去する態度は、場当たり的という表現以外に何が相応しいのかといったところです。--夜飛/ 2010年8月16日 (月) 16:36 (UTC)[返信]
一行目については同意いたします。私のページでWas a beeさんにもご指摘されたように、もう少し慎重にすべきでした。申し訳ありません。私がエッセイと元記事を同一視しているのは、「充填された語」「出典・引用の欠如」「独自研究の可能性」などの点からであり、私的な印象論による基準ではありません。また、元記事が見出し語、概要、本文、参考文献などといった構成になっていることを「事物を順を追って説明」するとはいいません。「性癖やそれに基づく文化性」という装飾的な言葉で示されているのは「著名なスカトロジスト」の項ですよね?その項を残したのは、モーツァルトのページに出典が示されているからです。さらにそういった箇所でも、私は「当時の時代背景として、中世のキリスト教会の建前であった身体的快楽否定からの表現の自由が知識人達の間で模索されていたという文化事情も考慮すべきであろう。排泄欲も、当時の時代背景からは、食欲・性欲などと同列視されていた肉欲の1つであったのである。」というその箇所につけられたこの補説は、Yatobiさんがおっしゃるとおり事物を順を追って説明されているなら本文ですでに述べられているはずの「文化事情」「文化性」であり、それが「考慮すべきであろう」「であったのである」などにみてとれるエッセイ的文体によって装飾的に記述されている点を考慮し除去しました。さらにいえば、以上の点は「場当たり的でありそういう編集をするなら他に意見を求めたり、いまのような説明が必要」な部分だとは到底思われません。Yatobiさんご自身の信頼に関わることなので、もう少し真摯にお答えになるべきです。--ZIPs 2010年8月16日 (月) 17:07 (UTC)[返信]
記事の構成をそのようにみなしているというのであれば、もはや話にもならないでしょう。貴方は自身の発言が何かの説明になっているとお考えのようですが、単に相手の文言に「それは違う」と言いながらも、何が違うのかも全く説明できておりません。--夜飛/ 2010年8月16日 (月) 17:46 (UTC)[返信]
同意します。「話にならない」「全く説明ができていない」と繰り返しても、話にも説明にもなりません。--ZIPs 2010年8月16日 (月) 18:11 (UTC)[返信]
不思議な人ですね。何を同意するというのでしょう。自身の態度が「全く説明できていない」ことを同意したのですか?あなたの態度は相手の言葉尻をとらまえて、自分に向けられた文言をそらそうとしているだけにしか見えません。いずれにせよ、思索の過程を陳述した外部リンク(EL)先文章(エッセー)と、本項の内容を同一視すること自体が無茶ですと、改めて申し上げておきます。まあ、EL先文章に「出典・引用の欠如」があると主張している態度も「何処をどう見たらそういえるのか不思議でしょうがない」という意味で、かなり無茶がありますが。--夜飛/ 2010年8月17日 (火) 02:51 (UTC)[返信]