ノート:シンガポールの歴史
秦郁彦の解説について
[編集]解説の解釈で食い違いがあるようですので、合意形成を図るべくTonbi koさんに議論を提案します。 秦郁彦の紹介している5000人というのは、日本側ではその説を唱える学者が多いということで、政府の発表ではありません。 また、シンガポールの学者のものはシンガポール側の一つの代表的な見方を示したもので、秦郁彦の説ではありません。 「現在」という記述をしたのは、日本政府発表の数字は1960年代の調査結果に基づくものであるのに対して、秦郁彦の解説は2000年代以降の日本の学説状況を示したものだからです。 対立する出典が示されていませんので、専門家の見解である以上、そのままの記述で問題ないと考えます。--115.38.49.115 2015年8月8日 (土) 22:32 (UTC)
- まず第一に、秦郁彦が第二次大戦におけるシンガポール虐殺事件の専門家であるというご意見は初耳です。また、「シンガポール側の一つの代表的な見方」とおっしゃっていますが、それが「代表的な見方」であることを秦郁彦以外に保証している人がいるのでしょうか? そしていずれにせよ、あなたの出している数字は秦郁彦の著書から出ているものですから、その文章はあくまでも「秦郁彦によれば」で始まらなければなりません。ご理解ください。 --Tonbi ko(会話) 2015年8月8日 (土) 23:17 (UTC)
お返事ありがとうございます。秦郁彦は歴史学者で第二次大戦に関する著書もありますし、事件についての資料にも当たって解説しているので一定の信頼性は担保されていると考えます。検証可能性が満たされることが条件ですので、対立する出典が示されていない以上、それ以上のことは記事の執筆者が判断することではありません。また今回の記述は秦郁彦の主張ではなく、学説を紹介しているものですので、そういう学説があるという記述でよいと考えます。「によれば」という表現は意見が対立している時に用いるべきで、実際記事中の他の出典付の記述でもいちいち誰がということは言及していません。本文には代表的との表現を用いるつもりはなく、一つの説として紹介するつもりです。--115.38.49.115 2015年8月9日 (日) 00:29 (UTC)
- その直前に4万人説、10万人説が書かれているのが見えておられないのでしょうか。--Tonbi ko(会話) 2015年8月9日 (日) 01:32 (UTC)
当然その説も記述されるべきです。ただし、秦郁彦の紹介しているシンガポールの学者の説はあくまで一つの説として記述するもので、別の説を否定するものではありません。日本の説については秦郁彦の解説では一つの説ではなく、日本の多数説という扱いですのでそのように記述すればよいと考えたわけです。--115.38.49.115 2015年8月9日 (日) 07:29 (UTC) 要は、出典における紹介のされ方を正確に反映すべきということです。単なる一つの説と多数説では扱いが異なるのは当然ではないかということです。前者の森高麿の出典では桜本富雄の説については一つの説という扱いですので。--115.38.49.115 2015年8月9日 (日) 07:37 (UTC)
- もう一度言います。その直前に4万人説、10万人説が書かれているということは、「意見が対立している」ということです。また、秦郁彦が「それを選んで紹介」している以上はチョイスという点で秦郁彦の意向が入っているわけです。「多数説」だと言っているのも秦郁彦なわけです。なお、秦郁彦の文献がほかより新しいからと言って「現在では」と書くのはミスリードを誘う行為であり、厳に慎むべき行為です。 --Tonbi ko(会話) 2015年8月9日 (日) 12:25 (UTC)
これ以上は平行線になってしまうので、Tonbi koさんの考えも取り入れながら修正案を提案します。 まず、日本の学説状況についての秦郁彦の解説については本文に秦郁彦の見方であるという記述を行います。ただし、日本政府の発表というのは誤解ですので、日本側の学説であると修正します。許雲樵の説についてはシンガポール側の説の一つとして記述します。また、現在という表記は除外します。このような形で修正しようと思いますが、いかがでしょうか?--115.38.49.115 2015年8月9日 (日) 13:41 (UTC)
- はい、ご理解いただきありがとうございます。それでしたら問題はないでしょう。115.38.49.115さんにご理解いただきたいのは、出典とされた秦郁彦の本はあくまでも史学で言えば「三次史料」であるということです。実際の体験談や当時の記録が一次史料、許雲樵の論文や日本の幾人かの専門家の論文が二次史料であり、それを論評している秦郁彦の著作は三次です。--Tonbi ko(会話) 2015年8月9日 (日) 15:07 (UTC)
修正してみましたが、問題ないでしょうか?--115.38.49.115 2015年8月9日 (日) 22:00 (UTC)
- 問題ないかと思います。お手数をお掛けしました。ありがとうございます。 --Tonbi ko(会話) 2015年8月10日 (月) 14:58 (UTC)
一定の合意に達したことを嬉しく思います。こちらこそお手数をおかけしました。--115.38.49.115 2015年8月10日 (月) 20:08 (UTC)
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[編集]英語版の「Founding of modern Singapore」「Singapore in the Straits Settlements」の翻訳に取り掛かっているのですが、シンガポール史の連続した期間についての記事である上にサイズが19kと17kであるため統合して1記事として出した方が良いか迷っています。また分割して訳す場合の前者のタイトルもいいのが思いつかなくて悩んでいます。いい案があれば教えてくださると助かります。
...という議題をWikipedia:執筆・翻訳者の広場を行ったら通史を開設したこのページのノートでの議題提起を勧められたので、こちらで聞いてみることにしました。よければ意見などいただきたいです。--Hop-step-junge(会話) 2022年8月31日 (水) 11:53 (UTC)
シンガポール(#歴史節)から分割(初版)
[編集]このページの初版は、記事「シンガポール」から分割したもので、2008-09-20T04:30:31 (UTC) 時点における 赤井彗星 さんによる版になります。 (シンガポール2008年9月19日 (金) 11:15版 歴史節よりコピペ)。--Omotecho(会話) 2022年8月31日 (水) 13:43 (UTC)