ノート:サイパンの戦い
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話題
[編集]ガタム島とは何でしょうか? —以上の署名の無いコメントは、211.9.166.89(会話/whois)さんが[2006年8月23日 (水) 08:54 (UTC)]に投稿したものです。
田中徳祐の目撃について
[編集]以下の田中徳祐の目撃証言はどの書籍に掲載されていたものでしょうか?出典を明記してください。
- サイパンの戦いに従軍した田中徳祐(陸軍大尉・独立混成第47旅団)は以下のような米軍による残虐行為を目撃したという主張している。
- ①「米軍は虐待しません」の呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子全員が素っ裸にされ、数台 のトラックに積み込まれた。「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。 滑走路に集った老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した 滑走路。我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続ける。
- ③火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で 突き飛ばして火の中へ投げ入れる。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を 持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂き にされた日本の赤ん坊とそれを見て笑ふ鬼畜の米兵士。
- ④こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
- ⑤マッピ岬にHり付いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串さしにされた婦人を見た。 更に自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れてゐるのを眼前に見た。 米軍の残忍非道から名誉と身を守るために「天皇陛下万歳」を奉唱してマッピ岬から太平洋に見を 躍らせた老人、婦女子や、左腕に注射針を刺し、君が代と従軍歌「砲筒の響遠ざかる・・・」を斉唱 しつつ自らの命を断った十余名の従軍看護婦達の最期を田中は見てゐる。
--阿吽の呼吸と涅槃の混沌 2009年3月13日 (金) 19:26 (UTC)
- 記事本文の編集をしたのは私ではありませんが、①と③は『今日の話題』に書かれています。私自身が転写して某サイトに載せたくらいですから断言できます。
- ④も今、同書を読み返していたら確認できました。
- 当該箇所を以下に抜粋します。
- と力づけ合つていたが、陸からも、海からも、空からも有効な攻撃が不可能と知った敵は、七月十二日、遂に毒ガス弾を使用した。
- これは全く予期しないことでもあり、また司書に敵の上陸を迎撃した時、身軽くするため、防毒面を捨て、或は焼却し、携帯している者は一人もいなかつた。
- 赤筒弾は、咽頭部をむしり取るような苦しさだつた。
- 「伏せろ! 砂に顔をあてて呼吸せよ! 手拭を濡らして口をおおえ!」
- 素早く瓦斯弾の処置をとつたが、次々と釣瓶打ちに浴せてくる。洞窟内に白煙が立ちこめ、老人や子供が、血を吐きながら死んで行く。このまま長引けば、全員空しく死あるのみとなつた。
- 「よし、突撃! 岩壁をよじ登つて突撃だ」
- 誰かが命令した。幾人かが飛び出して行つた。けれど、五十米の岩壁を、果して無事によじ登り得たであろうか。激しい銃声がきこえていた。
- 私は既に目まいを感じ、苦しさに洞窟を這い出した。どこまで這い出したのか、砂に顔をうずめたまま意識を失つた。
- 以上抜粋。
- ⑤については、青竹串刺しだけは該当箇所を見つけていません。--Tpc0p1ctaeaeacaeae(会話) 2024年1月28日 (日) 11:50 (UTC)
記事本文の編集をしたのは私ではありませんが 『我ら降服せずサイパン玉砕戦の狂気と真実』(立風書房1983年)というご本人の自著らしいですね。 --通りすがりのゲスト1 2009年5月26日 (火) 21:58 (UTC) --以上の署名のないコメントは、69.64.74.74(会話/Whois)さんが 2009年5月26日 (火) 12:57 (UTC) に投稿したものです。
田中のちょさくの米軍の残虐行為は1983年版が初で1956ねんばんにはかかれていないようです. じ実関係がおかしなところが多々あり. それに関する留意注意を促す注釈 がいつのまにかけされていましたが 1983年版はしりょうてきかちがないとかんがえます ちゅういをうながす註釈いがいにも実際に本を呼んだ疑問点として 1983田中の体験談の一部はその十年ほど前に出版されたペリリューの戦いの生還兵の体験談ときわめてにており また サイパン島に竹はない わざわざ竹で串刺しにする手間のかかる殺し方をするか 女性が裸で拉致為れるのを目撃した田中史は大尉であるのになぜみていただけなのか そしてなにより多くの民間人がアメリカに救助されてるという事実です--59.139.180.29 2010年2月13日 (土) 19:39 (UTC)
- すみません、なにをおっしゃりたいのか全く理解できないのですが、もう少し分かりやすくお願いします。--青木(おおぎ)高校生 2010年2月13日 (土) 19:42 (UTC)
- 「かかれていないようです.」
- 等と堂々と嘘をつかないで下さい。
- 昭和31年5月1日発行の土曜通信社『今日の話題』第32集に、ちゃんと米兵の残虐行為についての記述があります。--Tpc0p1ctaeaeacaeae(会話) 2024年1月28日 (日) 10:48 (UTC)
- どうも、米兵の残虐行為について記述されると不都合と考える、日本語が不自由な者が居るようですね。
- まるで根拠に値しないイチャモンに近いことを書いて「信ぴょう性に疑問を持たれている」といったり。しかも「持たれている」ですよ、「●●氏が疑問を呈している」ではなく。いったいどこのどなたに疑問を持たれているというのか、是非お伺いしたい。
- 太宰治なら「それは貴方の事でしょう?」というところでしょう。--Tpc0p1ctaeaeacaeae(会話) 2024年1月28日 (日) 11:11 (UTC)
小室直樹の見解について
[編集]サイパンの戦いやテニアンの戦いなどでは、東条英機参謀総長によって未だ水際作戦がとられていたために、日本軍は早々と玉砕することとなってしまった。この点について、ペリリューの戦いや硫黄島の戦いのように地下壕陣地をつくり、地下飛行場を築き中国から20個師団を転用し抗戦をしていれば、サイパンの土壌は強固な珊瑚などで構成されていることから艦砲射撃に堪えられ、硫黄島同様両軍共に熾烈な戦いとなり、戦争自体も膠着した可能性が指摘されている。[9]
こういう夢物語を描いて「可能性」と書くのはいかがなものか。地下飛行場?20個師団? 兵站とかはどういするんでしょう? こういう無責任な(出展の著者にも問題あり)ことを書くことは、危険だと思われる。0null0 2011年6月28日 (火) 10:52 (UTC) 再度表記しますが、当時日本のシーレーン状態を考えれば、20個師団の維持はありえないし、もしそれが可能であったとしても、猛烈な空襲のあとで制圧不可能となれば、沖縄攻略を進め飛行場を作るだけで、戦争がこう着状態なったなんてのは、手前勝手もはなはだしい妄想です。0null0 2011年11月23日 (水) 16:33 (UTC)
The imperial order encouraging the civilians of Saipan to commit suicide.
[編集]Why isn't there any word about the imperial order that was encouraging the civilians of Saipan to commit suicide from Emperor Hirohito? --以上の署名のないコメントは、202.180.219.23(会話/Whois)さんが 2012年2月6日 (月) 16:23 (UTC) に投稿したものです。
田中徳祐氏の言の信ぴょう性を疑っている点について
[編集]> 田中徳祐の証言は自身の階級を大尉としているものがある一方、『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6)玉砕の島々 中部太平洋戦記』では自身の階級を中尉としており、証言に変遷が見られる[1]。
とあるが、戦後10年経過時点では氏もまだ若く記憶が鮮明であろうと推測される。
それに対し、80年代ともなればとくに細かな数字や階級職位といった類の記憶はさすがに不鮮明になっていて度忘れや勘違いが生じても全くおかしくない。 同じ『記憶』と一言で言っても、「腸が煮えくり返る思いをした」残虐行為とそれらとでは、全く性質が異なる。 自分が卒業した年度や場合によっては学校名までをも度忘れ・勘違いすることはあっても、学校で厭な奴に虐められたり大喧嘩したことを忘れるような者は居ない、それと同じことである。
書かれた時の氏の年齢に著しい差があるのに、重箱の隅をつつくが如き真似をして「信ぴょう性に疑問が持たれている」という方こそ、その言の信ぴょう性に疑問が持たれる。
また、「疑問が持たれる」などという口吻で記しているが、それは誰にそう「持たれて」いるのか? 指摘した者が居るというのなら、具体的に根拠を明示しなければならない。
以上、該当部分はその記述が根拠に欠けており、単なる個人の印象以上のものとは思われず、客観性に著しく欠けるので、削除させて頂きます。
--Tpc0p1ctaeaeacaeae(会話) 2024年1月28日 (日) 10:59 (UTC)
- 脚注