ノート:ゴータマ・シッダッタ
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2003年7月1日から5日
[編集]るがこむさん。 このような大幅な名称の変更の前にちょっと連絡か議論が欲しかったです。 るがこむ方式にしたがって相談のない変更をし直そうと思ったのですが、こうしてノートを書いています。
この記事は80%以上は私が書いたものですし、変更のあった記事のほとんどは私が書いたものか、私がゴータマ・ブッダのリンクをつけています。また、この記事を書く前にゴータマ・ブッダの記事名を何にするかの議論が少しあって、英語やインドでも通っているし、中村元さんの著書などでもカタカナでゴータマ・ブッダとしていることを確認の上、ゴータマ・ブッダを選んでいます。英語版でも、ゴータマ・シッダータ、ゴータマ・ブッダ、ブッダの扱いは日本語版と同じ状況になっていました。
また、ゴータマ・ブッダと、ゴータマ・シッダータは、一般に仏教では別の人に近い感じとして扱われていると思います。ゴータマ・シッダータは悟りを開く以前の人物の名前です。また、僧侶の名前を記録するのに、出家前の名前ですることはありませんよね。それは、出家という行為を踏みにじる行為かと思います。出家・修行をして、悟りを得て新しい存在として生まれ変わり、古い名前を捨てるという段階があります。一般に出家の時に新しい名前をもらい、悟りを得た時点で更に新しい名前になるという場合が多いと思います。
聞いた話ではゴータマ・ブッダは、10回近く名前を変更していると聞きます。それが元で日本語の名前もいろいろとあるらしいです。「釈尊」は、インド名の「バグワン」に由来するらしいです。日本語の対応はともかく、バグワンと呼ばせた時期があります。バグワンの名前はインドの覚者が、光明を宣言して弟子を取り始めるときに、現在でも良く使う名前です。
最終的に、「ブッダ」または「ゴータマ・ブッダ」の名前で入滅したらしいので、ブッダまたはゴータマ・ブッダの名前で記録するのが、本人の意志を尊重していると思います。又、ゴータマ・ブッダを「覚醒した存在」と信じる仏教徒の気持も尊重すると思います。ブッダは、一般名詞でもあるので、「ゴータマ・ブッダ」が適当だと思います。
また、パーリ語でシッダッタとは知りませんでした。これは、ご指摘ようにのシッダータよりはシッダッタがふさわしいと思います。
--Setu 06:33 2003年7月1日 (UTC)
各種リダイレクトの混乱には僕は手は貸してないつもりです。混乱を見つけたら直していましたが。
- ブッダという覚者としての意味は、全てブッダへリダイレクト、または概略と共にリンクで飛ばす。ブッダから、ゴータマ・ブッダへのリンクを概略の紹介と共に書く。
- 覚醒後のゴータマ・ブッダを指す言葉は、ゴータマ・ブッダへ直接リダイレクトか、リンクを飛ばす。
- ゴータマ・シッダッタは、記事にしてゴータマ・ブッダへリンクを張るか、ゴータマ・ブッダへのリダイレクトにする。
ということで、ゴータマ・ブッダとゴータマ・シッダッタの記事を一本化したことには反対はありません。ただし、一本化は、ゴータマ・ブッダの名前でして欲しいという部分での意見の相違があるだけだと思います。
まあ、"ブッダ (ゴータマ)"でも、"仏陀 (釈迦)"でも、ブッダの呼び名が入っていればいいです。その範囲では「ゴータマ・ブッダ」は好みの範囲かと思います。
すべての僧侶の記事は、出家前の名前(誕生時の名前)で書くというのなら、議論は違ってくるかも知れませんが、そういう事にはならないでしょう? --Setu 09:12 2003年7月1日 (UTC)
最後の一文にだけお返事します。(他の点はあまり僕が口出しできることもない感じなので)
宗教関係者に限っても、麻原彰晃/松本智津夫、イエス・キリスト/ナザレのイエス、各ローマ法皇など、いろいろな人がいて、記事名をどうするかは統一されていないし、統一するべきかどうか特に議論もないのが現状だと思います。ただ、「中立性の観点」にあるような精神を記事名の件に適用するのか、するとしたらどんな風にするのか、考えどころではありそうです。宗教関連の名前は敬称、尊称の類が多く、普通の名で呼ぶことが失礼だと解されることなどもありますし。
すぐに思い付くのは、「宗教名を使っても構わないが、衝突する場合には本名を優先する」、という規則にすることですが、かりにそう決めたところで現代日本のように戸籍まわりの制度などが整っている社会でなければ「本名」の概念を適用すること自体に無理が生じそうです。
とりあえず僕はこの件については余り意見も知恵もないのでお任せしますが、Setuさんもるがこむさんも執筆量が多いので、お2人がうまく連携をとっていけるといいなと願ってます。--Tomos 09:42 2003年7月1日 (UTC)
- 競合が発生しました。最後のTomosさんの意見はまだ読んでませんが、ひとまず書き込みます。
- 誕生時の名前で記事名を統一するとなると、織田信長は織田吉法師、徳川家康は松平竹千代、武田信玄は武田太郎にしなければなりません。不便極まりない…もっと不便な例を挙げれば、真田昌幸と真田信之(昌幸の長男)が共に幼名が源三郎なので、真田源三郎に分けて書かなければなりません。
- もちろん、日本人と外国の方を一緒にするのはこの議論ではどうかとも思いますが、かといって日本人は「著名なほうに」で、外国の方は「誕生時の名前に」というのも、ダブルスタンダードな気がします。そう考えると、僧侶(武田信玄も出家してこの名前なので、出家前の名前にしろと言われれば武田晴信にしなければならないのでしょう。大友宗麟は大友義鎮に…)も同じでは?G 09:50 2003年7月1日 (UTC)
るがこむです。ノート:仏に基づいて、混乱が見られる仏教項目{仏、仏陀、ブッダ、ゴータマ・ブッダ、ゴータマ・シッダルタ、etc.}の整理に取り掛かり、仏教教祖の一本化・移動を断行しました。しかし、仏教教祖についてはリンクなどの影響が大きいので、Setuさんらに呼びかけて議論したあとでも遅くはなかったですね。すみません。
Setuさんも仏教教祖の一本化には異論がないようですので、問題は記事の題をどうするかですね。日本語的には「釈迦」「釈迦牟尼」の方が一般的かなという気もしましたが、ウィキペディアなので原語に近い表記でも良いと思いました。ちなみに崇拝の対象としての釈迦像は「釈迦如来」としました。
争点は、実在の一人の人物である釈迦を、人間としての姓名「ゴータマ・シッダッタ」にするか宗教名「ゴータマ・ブッダ」のどちらかにするかに絞られると思います。釈迦がいろいろ呼び名を変えたとしても、姓は「ゴータマ」、個人名は「シッダッタ」、「ブッダ」は宗教的尊称、というのは一生変わらないと思います。そして一般には、出家した人間を世俗名で呼ぶか宗教名で呼ぶかどうかは全く基準がない状況で、よく知られている呼称が使われているにすぎないと思います。(日本史に限っても、武将など出家した「僧侶」の多くは世俗名で呼ばれています。) が、たとえは好ましくないかもしれませんが、「松本智津夫」が宗教上「麻原彰晃」と名乗って信者には「麻原尊師」と呼ばせ、「松本智津夫という名前は捨てた」と言っても信者以外の世俗社会は認めないでしょう。「麻原尊師」とは「麻原は尊師である」という信仰的主張であり、中立的・客観的ではありません。「ゴータマ・ブッダ」は単なる僧侶の名称ではなく「ゴータマはブッダである」という信仰的主張でしょう。
仏教を信じない「中立的な観点」から見れば、釈迦は「ブッダ」とは限らず、「ゴータマ・シッダッタ」にすぎないのではないでしょうか? ウィキペディアは宗教書ではなく、それが宗教者の記事であっても、宗教・信仰の立場ではなく世俗的・中立的・客観的な観点から書かれるべきだと考えます。松本智津夫の意思を慮る必要がないように、釈迦の遺志を慮る必要もないと思います。るがこむ 20:47 2003年7月1日 (UTC)
(釈迦以外の件について) Tomosさんがおっしゃってるように「宗教関係者に限っても、記事名をどうするかは統一されていないし、統一するべきかどうか特に議論もないのが現状」で、何らかのガイドラインを設ける必要はあるでしょう。現代だと例えば「瀬戸内晴美」か「瀬戸内寂聴」かなど。
戦国武将の場合は「幼名」「元服名」「法名」がありますが、夭折した人は当然「幼名」、元服した人は「元服名」か「法名」で呼べば良いでしょう。出家した人を法名で統一することはできないでしょう。(細川忠興=細川三斎 など)るがこむ 20:47 2003年7月1日 (UTC)
- ゴータマ・ブッダは、人間としての名前だと思います。少くとも、後世の人が彼をブッダと名付けたのでないです。単なる、改名後の名前でしょう。
- また、ブッダが、覚者の意味をもつと日本で知られるようになったのは、ゴータマ・ブッダの名前が知られたからではないでしょうか?
- ゴータマ・ブッダを光明を得た人をとして認めない人で、覚者を意味するのにブッダの単語を使う人はほとんどいないでしょう。ゴータマ・ブッダの到達した意識に到達したという意味でブッダの単語を使うと思います。そうでなければ、他に使う単語はいくらでもあるでしょう。
- インドでもブッダと言えば、一般にゴータマ・ブッダを意味することが多いです。インドでは、光明を得た人を指す言葉は山のようにあります。光明を得た後、弟子を取りはじめる時点で、それらしい意味を持った単語を組み合わせて自分の名前を作ります。これは、一般に「過去の古い人はもういない」という意味です。文脈上「ブッダ」の意味が混乱するときは「ゴータマ・ブッダ」と言っているようです。
- ゴータマ・ブッダの以前にブッダの単語を、光明を得た者をさす名前として使った例はないのではないかと思っています。
- また、インドではたいそうな名前を人に付けます。シヴァ、ヴィシュヌ、ガネーシュなどは、ありふれた名前です。未だにブッダという名前は聞いたことはないですが、ブッダゴーシャなど、一部にブッダを使用している名前はあります。かといって、シヴァの意識が顕在したことを認めないから、シヴァの名前では呼びたくはないという議論にはなりません。
- ゴータマ・ブッダを光明を得た存在と認めるかどうかは、別の議論です。ただ、もし、これが 「覚者ゴータマ・ブッダ」や「ゴータマ・ブッダ上人」というタイトルであれば、「覚者」や「上人」をタイトルから外すことに賛成します。
- 実際には、ブッダは24人目のティルタンカラに選ばれて、ティルタンカラと呼ばれたかったっていう話があります。これは、マハヴィーラに取られてしまいました、これはあくまで、ジャイナ教徒のいう話ですが。ティルタンカラは公式な名称ですから、むやみには使えなかったと思います。
- ブッダを、アートマンの意味で使う事も多くなっていると思います。これも、やはりゴータマ・ブッダをアートマンが顕出した存在として認める人達が、「内なるブッダ」とか「仏性」と呼びはじめたのではと思っています。
- ゴータマ・ブッダ入滅後に、ゴータマ・ブッダは神格化されて行きますが、その過程で、ブッダに対する意味が付け加えられていったのではと思います。それは、ゴータマ・ブッダにちなんでブッダの単語が使われていったのだと思います。
- ゴータマ・ブッダ自身は、自分と他の人の違いは、寝ているか起きているかの違いで、ブッダは誰でもの内側にあり、目を覚ましさえすれば自分の様になれると言っています。「ブッダ」は特に人間を超越したものだとは言っていないですよね。
- ブッダの現在の意味はゴータマ・ブッダがブッダの名前を使ったことに起源をもつと思って良いのではないかと思います。
- その結果、「ゴータマ・ブッダと同じもの」として「ブッダ」の単語は意味を持っています。ですから、「ゴータマ・ブッダ」を「ブッダ」と認めるかどうかというのは、ちょっと意味がおかしくなると思います。
- ゴータマ・ブッダが自分の名前をブッダとしなかったら、ブッダにこれらの意味はなかったと思います。ゴータマ・ブッダによって、ブッダの伝統が生まれたと言って良いと思います。
- また、ゴータマ・ブッダは神の存在を認めませんでしたが、後世の人達が、神に相当するものを「ブッダ(仏)」と呼びかえて神への信仰を取り込んだということもあります。また、ブッダに神のような意味を持たせていったのも後世の人がしたことだと思います。これらはゴータマ・ブッダの責任ではありません。
- --Setu 04:51 2003年7月2日 (UTC)
・Setuさんがおっしゃるような「ブッダ」の特別性については「仏陀」の記事に書くというのではどうでしょう。少なくとも日本では「釈迦(牟尼)」や「ゴータマ・シッダルタ」(シッダッタ)の方が広く知れ渡った表記だと思いますが。どうも水掛け論になりそうですね。第三者の意見を待ちます。るがこむ 18:01 2003年7月2日 (UTC)
少しでも参考になればと思いあれこれ書いてみます。
るがこむさんは宗教名と世俗名の内、世俗名を採用することが「中立」としていますが、そしてこれは別に理解に苦しむな考え方ではないですが、ウィキペディアの中立性の観点とはちょっとずれるんじゃないかと思います。
ひとつには中立性というのはWikipedia:中立的な観点の説明だと、仏教を信じる立場や疑う立場など特定の立場をとってその立場からのみ記事を執筆するのではなく、複数の観点からの記述を併記し、うまく併存させることが望ましい、というのが中核にあると思います。
また中立性のポリシーは記事の執筆用のポリシーで、記事名に適用しようとすると工夫が必要かな、と思います。
ただ、麻原彰晃/松本智津夫のような件を考えて、「宗教名ではなく世俗名」という案には一理あると僕は思ったのですが、Gさんの投稿から、どうやらそれではうまく行かないようだとも思いました。
だからどう、というわけではないのですが、るがこむさんの再考のきっかけにでもなればと思います。
本人の意志・遺志を尊重する、というのは僕も一応部分的に賛成なのですが、それだけで決めるわけには行かないと思います。これはるがこむさんの指摘通りです。
また、Setuさんの話を聞いていると、ブッダというのは例えば日本人の「悟」「賢一」「真理」「真実」程度のもの(全部人名です、念のため ^^)であって、それを後の人が「あの人は賢一になった」というような用法で使いはじめたもので、ブッダ本人は別に自分に尊称をつけたのではないのだ、ということでしょうか。尊称だったら却下だけども、そうじゃないからブッダでもいいんじゃないか、と。そうだとすると、一理あるなと思います。
と同時に、「別にゴータマ・シダッタでもいいし、その方がいいという人もいる」としたらどうしたらいいんだろうか、という点が気になります。特に、「確かにゴータマ・シッダッタの責任ではないけれども、現にブッダは覚者を意味する語になってしまったのだから、それを考慮してゴータマ・シッダッタにするのもいいんじゃないか」という意見がありそうですし。
Setuさんが挙げている中村元さんの用語法ですが、具体的に彼がどうか、あるいは仏教関係の研究者が一般にどうか、はわかりませんが、学者は資金の出所などによって左右されることもあるので、ブッダという表記はいつも講演を依頼してくれたり研究プロジェクトに出資してくれたり資料調達の便宜を図ってくれたりする仏教教団側の意向を汲んでの表記になっている、という可能性もあるかも知れない、と思います。
ただ、これはSetuさんの意見とはちょっと違いますが、「事情をよく知らない人がただの名前だと思ってブッダと呼んでいることもあるんだから名前だと扱ってもいいんじゃないか」という考え方もできそうです。
法皇とか大統領とか天皇とか国王の類とどう関係があるかも考えたのですが、「ローマ法皇」という名称は別にローマ・カトリックを信じていない人の間でも使われています。海外の人が日本の国家元首を「天皇」という語を使って呼んだ場合にも別に神道を信じているわけではないですし。これば部分的には、「役職名」と同じように使われている部分があると思いました。公正に行われたとは言えない選挙で選ばれた大統領で、その政治的正統性を疑う場合でも大統領という肩書きで呼んでしまうこととかもその延長にありそうです。もちろん「呼び捨てにすると失礼な感じがするから」という部分もあるでしょうが。
ひとつ安直な妥協案として思い浮かぶのは「ゴータマ・シッダッタ」と「ゴータマ・ブッダ」に分けて、互いにリンクしつつも別々の内容を書く、ということでしょうか。神のように扱われ信仰されているところのブッダと歴史家の研究対象としてのシッダッタ、というような。これは「併記」を重んじる中立性の観点ともそれなりに一致する路線ですがどうでしょうか。
「イエス・キリスト」の記事のノートを見ると統合することの利点もあるようですし、お2人ともが一本化する線で一致しているところに水を差すことになるのであまり気が進まないのですが。
Tomos 20:33 2003年7月2日 (UTC)
- どうも。ほっとくと、水かけ論になると思います。
- ゴータマ・ブッダと書いて、非常に気分を害する人がいるかどうかというと、それは少いと思います。キリスト教徒でも仏陀と呼んでいると思います。これをゴータマ・キリストと呼ぶのなら話は違いますが、ブッダの概念は特に仏教に特有なものかと思います。ブッダはヒンドゥー教の伝統的な呼び名でもないですし、ゴータマ・ブッダ以降にヒンドゥー教の仲で「私はブッダになった」と言ってる人もないと思います。いたとしても、ゴータマ・ブッダにあやかっていると思います。
- 知名度ということでグーグルでみると、「ゴータマ ブッダ」では1250件、「ゴータマ シッダルタ」では250件。まあどちらも数は少いですが。
- ちょうどひもといている、「インド哲学へのいざない(前田専学)」(NHKライブラリー)でも、「ゴータマ・ブッダ」を使っています。これはNHKで放送されたものを元に書籍にしたものです。まあ、NHKが哲学の番組で使っていれば大丈夫とか?
- また、この記事にはあくまで事実と思われるものや、その様に言われているものを、含めたいと思っています。神秘化されたり神格化された部分についてはそれぞれの宗派の説明や、釈迦如来などに含めるのが良いと思っています。
- 記事をわけるとすると、以前の様になるかと思います。
- 別の案としては…。この記事の彼の名前を全部シッダッタに変えたのと思いましたか、弟子を取りはじめてからの部分は、ゴータマ・ブッダのままになっていますよね。だから、悟りを主張する以前をゴータマ・シッダッタの記事、悟りを主張した以降をゴータマ・ブッダとわけても、問題を感じません。
- グーグルの検索で気が付いたのですが、ゴータマ・シッダルタもゴータマ・ブッダも検索1位になっています。そのへんを考えると記事を二つにわけておく意味もあります。グーグルはページのタイトルに含まれる単語を結構重く見ます。
- 悟り前のシッダッタの話も沢山伝わっていると思うので、記事としても大きくなる可能性はあります。
- --Setu 03:46 2003年7月3日 (UTC)
こういう数字を出すときはもう少し慎重にしたほうが良いです。
- > 知名度ということでグーグルでみると、「ゴータマ ブッダ」では1250件、「ゴータマ シッダルタ」では250件。まあどちらも数は少いですが。
google 結果は
ゴーダマ ブッダ 139 ゴータマ ブッダ 1290 計1429 ゴーダマ シッダルタ 47 ゴータマ シッダルタ 266 ゴーダマ シッダッタ 5 ゴータマ シッダッタ 61 ゴーダマ シッダールタ 71 ゴータマ シッダールタ 538 ゴーダマ シッタルダ 12 ゴータマ シッタルダ 52 ゴーダマ シッタールダ 8 ゴータマ シッタールダ 27 ゴーダマ シッタッダ 0 ゴータマ シッタッダ 1 計1088
でした。利用者:Kk—211.128.71.194(会話/whois)による偽署名、投稿日時は2003年7月3日 (木) 04:24 (UTC)。
- どうも。くわしく調べなかったのは、1290も266も大した違いはないので決め手にならないと思ったのが理由です。少くとも、ゴータマ・シッダルタの方が広く使われているわけではないというデータにはなるかと思います。ゴータマ・ブッダの方がずっと使われているというデータとしては弱くて使えないでしょう。ちなみに仏陀は20,900件です。ゴータマ仏陀と書いてあるページもあるようです。
- 参考になるかどうかは分かりませんが、英語版では Siddharta Gautamaは、Gautama Buddha にリダイレクトになっています。2001年12月1日に記事が作られてから多くの人の目を通り抜けて来たっていう意味はあると思います。--Setu 05:50 2003年7月3日 (UTC)
日本語版の表記としてですが、「岩波仏教辞典」や平凡社の事典などを見るとみな「釈迦」でした。 Googleでは
- 釈迦 68,100件
- 釈迦牟尼 3,140件
- 釈尊 16,600件
です。「日本語版」としては「釈迦」が知名度の点からいっても、丸く収まる「落としどころ」かなという気がしています。日本人にとっては「お釈迦さま」「お釈迦さん」が一番なじみのある呼び方でしょう。
大辞林より参考まで
釈迦
ゴータマ
ブッダ
るがこむ 13:45 2003年7月3日 (UTC)
「ブッダ」表記に反対するわけではありませんが、「ブッダの概念は特に仏教に特有」ということでもないらしいという意見を投げかけておきます。
ソースは今出てこないのですが、以前書いたように、ゴータマが悟った当時に、その質はどうあれ悟りを開いたというバラモン教のブッダもざらに居たという話もあります(一応、仏教解説書の記述から)。
釈迦以前に仏教無しなわけで、王子時代のシッダールタは街で修行をするバラモン教の沙門に出会い出家を志したわけで、場合によってはそんじょそこらのバラモン教のブッダ止まりで終わった可能性もあったが、それを飛び越えて彼岸に到達してしまったというわけで、「仏教特有の」ブッダというよりも「ゴータマがさらに高邁なところに引き上げた」ブッダと言うことなのかもしれないのかと思います。
真実のほどは、その解説者を信じるしかありませんが、解脱者ではないので信じるべきかわかりません(字面は似ている)。とにかく、2500年の間に悪気はないにせよ、結構無茶な神格化が盛り込まれてしまっているので、困ったもんですAdacom 14:42 2003年7月3日 (UTC)
- ゴータマ・ブッダが、悟った時には、他に(同じレベルで)悟って弟子を取っている人が8人は少くともいたとは聞いています。たぶん、もっといたかと思いますが、同じ地域で一般に受け入れられていた人の数が合計8人って聞いています。一人はジャイナ教を受け継いだマハヴィーラです。
- ただ、その悟りを開いた人間を何と呼ぶかについては、話が違って来ます。ブッダと呼ぶのは仏教に特有な事だと思います。ゴータマ・ブッダ自身も、ブッダの前に「ボーディ(菩提)」「バグワン(祝福された者。釈尊)」と名乗っていたそうです。「シュリ」など他にもいろいろな単語が用意されていますし、新しく作ったりもするみたい(マハリシ - リシは悟った聖者を意味する上に、マハは「真の」「偉大な」)。あとは、以前に悟っていた人の「再来」と称してその名前を名乗るとか(サイババ)。--Setu 18:21 2003年7月3日 (UTC)
- 良いかなあ。どうかなあ? と思いながら、どうして「ゴータマ・ブッダ」が良いのか考えてみました。
- 要するに、「ゴータマ・ブッダ」で僕の中のイメージが出来ているので、ゴータマ・ブッダの方が記事が書きやすいっていうのがあります。僕が書きたいのはより事実に近いゴータマ・ブッダの像で、実はこの先もいろいろと書きたいと思っています。それで、まあ、お願いという事になりますが、ゴータマ・ブッダの名前でしばらく書かせてもらえないでしょうか?
- というのは、上にも書いたように、シッダッタは「まだ悟っていない普通の人」のイメージに焦点が行ってしまうんです。美人がいっぱいいて、おへそが見えるドレスで身の回りの世話をしてくれる宮殿に住んでる王子様。なんちゃって。「釈迦」とかの漢字だと、仏像を思い浮かべちゃうんですね。又は日本的な印象がしちゃうとか。
- ある程度あちこちに記事を書きおえて、しばらく書かないようなら、名前を置き換えてもらっても「しくしく」涙するくらいで我慢します。と言っても数か月以上のスパンで書くと思いますが。
- 事実と言っても僕が知りたいのと書きたいのは、悟り/光明の周辺ですから、ブッダって名前じゃないと気分がでないんです。悟りが存在するかどうか、ゴータマ・ブッダが悟っているかどうかは、この場合関係がないと思います。というのは、ゴータマ・ブッダが、悟りの周辺でどのように言ったか?どの様に振舞ったか?は、事実の記述になりますから。
- 後世の人が追加した事項は極力ゴータマ・ブッダと直接に繋げずに、後世の人が追加したと分かる形で記事になればと思います。
- --Setu 21:29 2003年7月3日 (UTC)
釈迦だって漢字にするからいけないんで「サキャ・ムニ」で発音正しいかわかりませんが、そういうことなだけで、あと私も悟り前、悟り後を基準に区別しているわけで、花祭りの日に生まれたのはシッダールタであり、生まれながらにブッダで「天上天下唯我独尊」と言ったなんてのは後世の奴が言ったヨタ話だ。(実際は、悟りを得てすぐに出会った沙門から、あなた様は誰ですか?と聞かれて答えた言葉だという)
実際、他人がどうこう言っていてもしょうがない話で、本人ならこう言うだろう。
「それが何になるのだ?」 -Adacom—202.213.4.16(会話/whois)による偽署名、投稿日時は2003年7月4日 (金) 02:43 (UTC)。
上記のように一般の認知度で優劣をつけるなら釈迦の圧勝です。各種の仏教事典・百科事典・広辞苑もみな「釈迦」になっています。「ブッダって名前じゃないと気分がでないんです。」てゆうのはSetuさん個人のわがままですよね。Setuさんが書きたいことは「仏陀」に書かれてはどうですか? 「仏陀は漢字だから気分が出ないのでやだ」と言われるなら片仮名の「ブッダ」に書かれてはどうです。誰にでも納得のゆく記事名にしないと、後でまた誰かに移動されて、同じことを延々と繰り返すことになりかねませんよ。るがこむ 14:45 2003年7月4日 (UTC)
Setuさんが「ゴータマ・ブッダ」を強引に分離されたようです。しょうがない人ですね。るがこむ 17:42 2003年7月4日 (UTC)
まったくの素人なのですが、ようするにブッダ=シッタルダ=シッダッタ=釈迦ということなのでしょうか。違う人かと思っていました。シッダッタだと普通にたどり着けない人も多い気がします。日本語の表記があるのであればそれでいいように思うのですが。釈迦なのか釈尊なのかはよく分かりませんが、ともかく現状記事内の文章でもいろいろな表記となっていて、ひじょうに分かりにくい記事ではないかと。
一人の人物について複数の記事があるのはとても使いづらい事典と思います。一つの記事の分離の仕方としては、時代で分けるのではなく、概要と詳細への分離がのぞましいのではないでしょうか。英語版の各国のテンプレート w:List_of_countries などが参考になるかとおもいます。この記事の場合はたくさんある名前のもっと詳しい由来とか誰がそう呼んだのか、いつそう名付けられたのか、などが詳しくわかる記事があると楽しい気がしました。suisui 23:31 2003年7月4日 (UTC)
Setuさんの書いている内容は詳しいのですが、どことなく百科事典の解説でなく、文体に技巧を凝らした物語になってませんか?
思い入れ云々を述べられているようですが、その時点ですでに中立的な見方(表現の仕方)が揺らいでいるのではないでしょうか?—以上の署名の無いコメントは、219.123.57.242(ノート/Whois)さんが[2003年7月5日 (土) 04:25 (UTC)]に投稿したものです。
- もともとゴータマ・ブッダ記事をゴータマ・シッダッタへ移動する際に議論の結果移動されたわけではないので、すこし中立状態ということで、分離しました。
- 名前の中立性としては、ゴータマ・ブッダは中間にあると思います。
- ブッダを、ゴータマ・ブッダ唯一のものとして、他のものをブッダとは呼ばない。
- これは、一般的な仏教の立場ではないでしょうか? 以前、ヨーロッパにゾルバ・ザ・ブッダというチェーン店のディスコがあり、スリランカの大使から抗議があったという話を聞いたことがあります。そのときは、ブッダは、個人の名前ではないという説明をして営業を続けたらしいです。
- ゴータマ・ブッダは、数あるブッダ(悟りを得た存在)の一人で、多くの業績を残し、多くの存在を直接・間接的に悟りに導いた。
- ゴータマ・シッダッタは、ブッダではない。目覚めた者を意味するブッダを、仮にそれが名前であっても使うべきではない。
- ブッダを、ゴータマ・ブッダ唯一のものとして、他のものをブッダとは呼ばない。
- また、上の発言にあるように、ゴータマ・シッダッタで仏教の開祖を想像する人は他の呼び名に比べて少いので、他の記事のリンク名は、想像しやすい名前を使うのが望ましい。
- 漢字になっている名前を発音しても、他国で(とくに本人の国で)は通用しない場合が多いので、極力現地の言葉に近いカタカナ表記が望ましいとも思います。漢字の名前を使いはじめた当時は、外国人といえば中国人で、中国人のほうが仏教(を含む文化)の権威であったので、それにしたがったのかと思います。
- しかし、現在は元の単語も分かり、漢字よりもカタカナの方がより近い発音で表記ができるので、カタカナが良いと思います。(拝火教より、ゾロアスター教、またはマズダー教など)。
- 中立的な記事は、沢山の意見からできるものですから、中立ではないと感じた時は、早めに指摘をお願いします。僕としては中立的にしているつもりです。この場合、右が左かではなくて、中心ということなので、一人では決められないこともありますよね?
- --Setu 06:31 2003年7月5日 (UTC)
なにをおっしゃりたいのかはよくわかりませんが、どのようなものであれ、カタカナ表記が他国で通用するとは思えません。それこそ記事内で発音記号でもつけて説明したほうが分かりやすく、詳細な説明が出来るでしょう。記事のタイトルは本質ではありません。使う立場で使用しやすい、検索しやすい、リンクしやすいタイトルとし、記事内で説明すれば良いことではないかと。
人物についての記事なのか、ブッダという存在についての記事なのかが別れてないことがこの議論の主な問題点と感じます。ブッダというのが悟りを得た人一般をさすのであればそれは別の記事とするべきでしょう。この記事はゴータマ・シッダッタという人物についての記事であり、その人物の生涯について時代ごとに記事をもうける必要はまったく感じないのですがどうでしょうか?
Avoid writing on topics you are overly passionate about. The rule here is to write articles neutrally. It's hard to be unbiased when you're biased. cf.Wikipedia:ウィキペチケットsuisui 07:08 2003年7月5日 (UTC)
2003年7月8日から25日
[編集](議論が長く、編集ウィンドウがすごく重かったので空白にしました。ちょっと急用で離れている間に出でやるさんにリンクを張っていただきました。ありがとうございます>出でやるさん。)
るがこむさんからリクエストをいただいたので、思うところを少し書いてみます。
議論をざっと読み返してみて思ったことですが、Setuさんとるがこむさんがどういう範囲の記事名をよい、ないし妥協してもよい、と考えていて、どういう範囲の記事名だとまずい、と考えているのか、自分の理解にやや自信がないです。もし間違っていたら訂正をお願いします。
- るがこむさんはたぶん、次のような意見でしょうか?
- いろいろ理由を考え出すと違う結論もあるけれども、釈迦が一番よく知られている名称なので、自分の推すゴータマ・シッダッタでもなく、Setuさんの推すゴータマ・ブッダでもないから、一本化するにはある意味よい落とし所ではないか?
- Setuさんは意見がまだ揺らいでいるのでしょうか。 最初の方の書き込みでは仏陀 (釈迦)でも構わない、としつつも、後には「漢字だとどうも気分が出ない」という意見もあります。最初は一本化には賛成、としつつも、結局ファイルを分割する形になっています。(それは僕の提案を参考にしたためでしょうか?)
- Setuさんとしては、釈迦・シッダッタ・ブッダの3立を積極的に提案しているわけではなく、とりあえずるがこむさんの提案した記事名と自分のよいと思った記事名とを併存させて、自分はその記事名の方に書き込むことにして、統合については後から考える(言い争いは中断する)というようなことでしょうか?
こういう辺りで誤解があると、ただでさえ背景知識が欠如している僕には手が出せないようなところもあるのですが、一応、今の状況で何が問題か、何が問題でないかについて、以下のようなことを考えました。
1)当面の執筆の問題
一本化が必要、という点で当初はるがこむさんとSetuさんの意見が一致していたように思います。これは、史実と信仰、宗教者としてのブッダと人間としてのシッダッタ、悟り前と悟り後、というような分割をせずに、一切合切を概観、対照しながら書くための記事があるとよいだろう、という意味だろうと解釈します。ちょうど今のイエス・キリストの記事みたいな形ですね。
そのような記事の記事名をどうするかについては「釈迦」ということで一応妥協が成立しているようなので、当面の執筆には差し支えないだろうと思います。
その他に、特定の側面、特定の時期、特定の観点などを特に掘り下げて記述をしたければ、「釈迦」以外の記事名を使う、というのも問題ないと思います。
あと一応確認しておきたいのですが、Setuさんがゴータマ・ブッダに書きたいのは、史実に忠実な、歴史家が実証研究を通じて描き出しているところのゴータマ・シッダルダについて、「悟り」の前後を詳しく説明するということでいいんですよね? (それを前提に話を進めますが間違っていたら指摘して下さい。)
2)後からの修正の手間の問題
記事名はリンクや文中の表記とも結びつく可能性があるので、不適切な記事名を使い続けたままで記事が増えると後からそれを直すのはちょっと大変です。
ですが、それもとりかえしのつかない類の問題ではないですし、記事を執筆する労力の方が表記や記事名を修正する手間よりも大きいだろうと思います。まあ、しなくて済むならそれに越したことはありませんが、これだけが問題なら妥協するのもそう悪くないと思います。
3)エチケットの問題
今回の件以外にも、Setuさんもるがこむさんも、お互いにお互いのやり方(執筆内容の中立性であれ、リンクの張り方や訳出の手順であれ、記事名変更の唐突さであれ、コメントの仕方であれ)に対していろいろ不満があるように感じています。一部事実関係に誤認があるらしいことをとりあえず棚に上げれば、僕もだいたい同じような不満を感じることがあります。ただ、どんな言い方で言っても筋が通ったことを言えば通じるような人もいれば、言い方やタイミングを工夫しないと通じない人もいますし、筋の通った考え方も複数ありうると思うので、その辺りの事情をもう少しお互いに考慮されてはどうかな、という風に思います。
例えば、お互いがやっていることを「るがこむ式」とか「わがまま」という類の言い方は、そういう風に言うことももちろんできますし、何のことを言っているかはよくわかるのですが、読んでいて気持ちのよいものではないですし、かえってお互いに心理的な負荷をかけて問題をこじらせてしまう面がある気もしませんか? もう少しよいつきあい方ができますよね?
英語版でたまに見かける意見ですが、聡明な人同志の間でも意見は対立しますし、そういう意見の多様性をうまく受け入れられなかったらウィキペディアはうまく動きません。(まあ少なくともそういう意見があります)何とかよい妥協点を見つけられたらと思います。
4)一時的な記事名の固定から来る問題
Adacomさんは今のところ余り強い意見はないようですが、Adacomさんであれ、未登録の方であれ、他のどなたかであれが2、3人やって来て、「こういう記事は「釈迦の悟りの経緯」に書くのがいいですよね」みたいな合意を形成してしまう可能性も一応あります。(別に記事名は何でもいいんですが。)
そうなったら、僕としては、「いや、このゴータマ・ブッダについては今Setuさんが書いているものだから移動しないで下さい」ということは言いにくいです。一応、このファイルはSetuさんの所有物ではないわけですし。他に執筆に参加したいという人がいれば尚更そうです。
5)記事名や表記の選択
記事名は結局どうしたらいいのか、について考えたのですが、比較的強い意見を持っているように見えるSetuさんの意見があれこれ変わっているのでちょっと考えにくいです。事実関係がどうもはっきりしない面がいろいろあるのも気になります。
僕の問題解決能力はかなり限られているので、いい妥協点を見つけるきっかけになればと考えて、とりあえず2つほど質問してみます。
- 「釈迦」は総合案内、概観、対照(信仰と史実などの)などに用いるという案には、反対はないようです。また、仏教徒ではない立場から、人間としての釈迦の一生を説明するのには「ゴータマ・シッダッタ」を用いることができるようですが、それについては誰も異論がないでしょうか?
- 特に、るがこむさんは、最初は「ゴータマ・シッダッタ」を総括用の記事名推したわけですが、今でもどちらかと言えばそれを総合記事に宛てる方がよいとお考えでしょうか。
- 個人的には、「釈迦」は圧倒的に普及していることや、「様」「如来」づけでないこと、由来が氏族の名前であること、などから考えても、総合案内用にふさわしく、そもそも名前がどうしてたくさんあるのか知らないような一般の方をも想定した記述がそこにあるのはよい形ではないかな、と考えます。その上で、歴史考証などを踏まえた伝記的な記述に特化した記事は「ゴータマ・シッダッダ」にする、というのは、「武田信玄」や「麻原彰晃」などのあれこれのケースとの整合性を考えるといろいろ問題ですが、それをひとまず棚に上げるとすれば、それほど問題ないように思います。
- 釈迦の一生ではなく、悟りの経緯に限定して、歴史的・伝記的な説明を書くのは「ゴータマ・ブッダ」でいいのでしょうか?
- これまでの議論の経緯からは、るがこむさんは「ブッダ」を提案されていて、Setuさんは漢字だとどうも違和感がある、という意見なわけですが、これはこの件にどう関連するのでしょうか? るがこむさんの提案は「ゴータマ・ブッダ」でもいいけど「ブッダ」でもいいんじゃないか、という程度の提案でしょうか? それとも、ゴータマ・ブッダは不適切なのではないか、と考える理由があるでしょうか? 逆にSetuさんとしては、実は片仮名の「ブッダ」でも駄目で「ゴータマ・ブッダ」だけが唯一納得がいく記事名、ということでしょうか? それとも、お2人とも、この件については妥協できるけれど、あえて選ぶとしたら、というところで好みが食い違っている程度なのでしょうか。
何だか、お2人に質問しているみたいな形になってしまいましたが、他の方のコメント、ご意見なども期待しています。
Tomos 02:23 2003年7月8日 (UTC)
>Adacomさんは今のところ余り強い意見はないようですが
私は、仏弟子として「中道」を歩みたいと思いますので・・・(笑)
そもそも、阿弥陀門徒だし。
自分自身、異教徒の宗教の押し付けは大嫌いな者なので、自分の態度についても
慎重に律する事も心掛けています。
そこら辺が、学術的な分析に関わる内容(こっちについては、少々しつこいと、
感じられるかも知れませんが)と、思想信条に関わる内容で、取るスタンスが
違う理由です。
まあ、釈迦の思想には、宗教論争はなじまないので、そこそこに・・・-Adacom—202.213.4.16(会話/whois)による偽署名、投稿日時は2003年7月8日 (火) 03:29 (UTC)。
自分のスタンスはともかく、意見書いてない・・・
「日本の事典」なので「釈迦」でいいじゃないか?と思います。
私が前に書いたのは、釈迦族の王子の一生全部がブッダじゃないよ。
生まれた時はシッダッダという子供だったんだよと云う意味で書いただけで、
項目として使い分けをして下さいという意味ではありません。
なんにせよ専門家は、専門用語に酔う傾向があります。下手をすると専門用語で
素人を煙に巻くことさえ考えます。私はそういう専門家は低レベルだと考えます。
できるだけ平易な分かりやすい言葉で、普通の人にも難しい事を説明する事ができる
のが、真の専門家。まさに、お釈迦様の対機説法そのもの。
普通のお年寄りを100人集めて質問します。「釈迦を知っていますか?」「ブッダを知っていますか?」
「ゴータマ・シッダッダを知っていますか?」「医王を知っていますか?」
正答率から、簡単に答えが出ます。-Adacom—202.213.4.16(会話/whois)による偽署名、投稿日時は2003年7月8日 (火) 03:52 (UTC)。
るがこむです。確認のために自分の意見を再度書きます。もともとこの議論の発端は、仏教教祖についての記事を一本化することにあり、私が「ゴータマ・シッダッタ」に一本化したところ、事前の説明がなかったということでSetuさんと論争になったわけです。
- 日本語版としては最も一般的な「釈迦」またはより正式に「釈迦牟尼」で一本化するべきである。「釈迦」は、各種仏教辞典・百科事典・Google等でも圧倒的な知名度がある。出身部族名の音訳なので、宗教的にも中立である。
- 原語表記を優先する場合は、パーリ語の「ゴータマ・シッダッタ」が良い。姓がゴータマ、名がシッダッタであることは一人のインド人として世俗的に見た場合、一生変わらない。仏教信仰をはなれて、客観的・科学的・中立的に釈迦の生涯を記すときはこの名が妥当と思われる。「松本智津夫」式である。
- 「ゴータマ・ブッダ」という呼称は「ゴータマは仏陀である」という信仰的立場の表明であり、仏教を離れた立場から見ると違和感が強く、記事名として客観的ではない。「麻原尊師」式である。ゴータマが「ブッダ」であるという信仰やブッダとしての悟りについては、「釈迦」「仏陀」または「ブッダ」の記事中で述べれば良いことではないか。
- ただし、信仰的対象・超自然的な仏としての釈迦は「釈迦如来」として区別する。
るがこむ 16:56 2003年7月8日 (UTC)
るがこむ氏に賛同Adacom 00:10 2003年7月9日 (UTC)
とくに異論が出ないようでしたら、三つの記事を「釈迦」に統合したいと思います。るがこむ 17:16 2003年7月11日 (UTC)
- 僕はるがこむさんのお考えはよく理解できていないので何とも言えない部分があります。Setuさんが最近留守なのが気になりますが、メインの記事が釈迦になることについてはSetuさんも別に反対ではなく、問題ないのではないかと思います。別記事を立てるかどうか、その記事名をどうするかでまた議論することになるかも知れないですが、その際にはもう少しうまく行くことを願っています。
- ちなみに「ブッダ」については当時の覚者を指す言葉で、ゴータマに限らなかった、という説があるのは確認しました。マハヴィーラもブッダと呼ばれたようです。もしもそれが定説なら、ブッダはただの大袈裟な名前であって宗教的な称号ではないんじゃないか、というSetuさんが示唆していた(ように僕に見えた)解釈はあてはまらなさそうです。Tomos 21:15 2003年7月11日 (UTC)
少し待ってみます。Setuさんの了解を得た方が良いですし、本職の方(booze=マイコン坊主さん)も参加されたようですので、(記事名だけではなく、記事の内容的にも)意見を伺ってからでも遅くはないでしょう。ノート:釈迦などを見ると、「光明」の例などのようにSetuさんの記事は内容的にも偏っている点が少なくないのではないかと感じられます。るがこむ 21:33 2003年7月11日 (UTC)
setuさんの説明が偏っているとは思いませんが、悟り=光明という考え方についてはアメリカの新仏教運動の影響があると思います。とりあえず釈迦については書く準備はしておきましょう。長くなるのは仕方がないですが。後はsetuさん待ちということで‥‥booze 22:12 2003年7月11日 (UTC)
Setuさんの記述がウィキペディア的な意味で中立でないと感じることは僕はありますが、それは本人もわかっていて、でもなかなか自分では修正できないといった状況なのだと思ってます。
僕も中立でないと感じたSetuさんの記述を大幅に編集したことは何度もありますが、(大きなところでは存在とか、そこからリンクされている「主体と客体」でしょうか。)議論になったり文句を言われたことはないですし。政治的な問題などで偏っている(ように僕に見える)人はSetuさんより前からぽつぽついますし、それでも何だかんだそれなりにうまく行っているように思います。まあこういうのは相性もありますから、組み合わせが違うとそれだけでうまく行かないこともあると思いますし、僕がどれだけうまくやれているかも考えようによってはいろいろ疑問ですが。。Tomos 22:29 2003年7月11日 (UTC)
無理に記事を一本化するよりも、「釈迦」の記事をboozeさんに新たに起稿していただいた方がウィキペディアのためにはベターなんですかね。でも残りの二つの記事の存在意義はなんでしょう? るがこむ 22:50 2003年7月11日 (UTC)
ベーダとの関連について、すでにボクのページに少し記述があるので読んでみて下さい。
[いのりについて]
booze 22:39 2003年7月12日 (UTC)
ウィキペディアの記事としては、やはり一本化したいところですが。るがこむ 20:16 2003年7月14日 (UTC)
- 留守にしてました。誘われて行った先の別荘がゾロアスター教徒の方がご主人で、インドのゾロアスター教の情報を仕入れて来たので忘れないうちに書こうと思ってますので、こちらがあとまわしになったらごめんなさい。
- boozeさん、いらっしゃいませ。宜しくお願いします。「いのり」のページ読みました。大変参考になりました。実は知合いのお坊さんをウィキペディアに誘おうかな?と思っていたのでタイミングが良かったです。
- ちょっと寝惚けてるので、タイトルについての議論はあとで書くと思いますが、基本的には、記事のタイトルよりも内容にエネルギーを注ぎたいと思うので、boozeさんが記事を書く邪魔はしたくないと思います。そこで、boozeさんに記事を書き進めてもらって、現状ある文章と合流出来る部分は、適当に合流してもらって、成行きを見たら良いのではと思います。個人的な意見の相違については、両方を残しておくか、またはなるほどとなっとく出来る説明をもらえたら変更してもらっても特にこだわるつもりはないです。
- どちらにせよ、多数の記事(ページ)に分散してゴータマ・ブッダの話は出来上がると思います。ゴータマ・ブッダ時代の事実から、時代的な順を追って変化を見ることが出来るように全体の記事群ができると良いと思っています。現在ある各国の各宗派の記事が別にあって、そこで現在の宗派が主張するゴータマ・ブッダの話があるといいと思います。または、ゴータマ・ブッダとしての一連の記事のなかに、「…宗では特に、…と言われている」などと書いても良いと思います。
- 「ブッダ」が名前なのかタイトルなのかということについては:
- イエス・キリストの「キリスト」はタイトル。まあ、イスラム教の人や、ユダヤ教の人は不満に感じるかもしれないけど、まあ、良いのでは? また、本人が名前の一部として使っていたのではないとも思います。
- ラマナ・マハリシの、マハリシはタイトルだけど誰も文句を言う人はいないだろう。
- マハリシ・マヘッシ・ヨーギの、マハリシはタイトル、ヨーギもタイトルだけど、だれも文句を言う人はいないだろう。
- 日本では単にサイババで通るサティヤ・サイババの、サイババは シュルティ・サイババの再来を主張する改名だが、誕生時の名前に遡って記事を各必要はないだろう。サティヤは(たぶん)「真実の」を意味する。でも、サティヤって名前をもつ普通の人もいる。
- サイババやメハール・ババのババは、タイトルというか尊称。サイやメハールも彼らに関連した町の名前に過ぎない。サイババ=「サイ村の聖者」といった感覚。
- そのほか、インド出身または関連の宗教関連の名前はほとんどが、各種のタイトルの組みあわせであることが多いので、それぞれの場合もタイトルを認めるかどうかを議論するのか? まあ、インドは懐が深くて、名前にタイトルや尊称をいれても、名前に過ぎないとみなす傾向にあると思います。
- 実は、サティヤ・サイババは数年前に、バクワン・シュリ・サティヤ・サイババと改名したが、バグワンもシュリもタイトルまたは尊称であるが、過去の多くの人が名前の一部に使っている。など。
- マハトマ・カンジーの、マハトマもタイトル。
- 本当でもウソでも不明でも悟り後に新しい名前を付けて、その後の生活をする伝統があり、悟りが本当でもウソでも不明でも、インドでは尊重されている。その事を考えると、本人が使っていた名前を退けるのは、『あえて』受け入れないことを主張して優先するような印象を感じます。
- --Setu 21:51 2003年7月14日 (UTC)
Setuさんは、当初は釈迦の記事の一本化に賛成されていたのではないですか。なぜ議論の最中に心変わりして、無断で分離させたのでしょう。ここは「インド版」ではなく「日本語版」なので、日本語読者から見て中立的な題名・内容にすべきではないでしょうか。るがこむ 22:20 2003年7月14日 (UTC)
>サティヤって名前をもつ普通の人もいる。
「ひろさちや」(笑)Adacom 00:20 2003年7月15日 (UTC)
記事が複数あってはいけないのでしょうか。Wikipediaの中立的視点は、文章を読む限り、「特定の視点に立った記事を禁止する」のではなく、「特定の視点を、特定の視点であるとわかるように書く(反対意見と並立するように書く)」もののようなので、記事名を特定することで中立性を著しく損なうならば、複数記事名で書き分けるべきだと思います。個々の記事名ごとに視点・観点を持たせることができるみたいですし、分断しても長いくらいの記事なのですから。i_t 12:53 2003年7月15日 (UTC)
とりあえず釈迦を入れましたが、本当に分断したいくらいです。とっても長い。
booze 13:50 2003年7月15日 (UTC)
>itさん
まず上で書いたように「Setuさんは、当初は釈迦の記事の一本化に賛成されていたのではないですか。なぜ議論の最中に心変わりして、無断で分離させたのでしょう。」ということです。それに、一般に記事が複数あってはいけないということではありませんが(例えば「釈迦如来」)、釈迦の場合は実在の同一人物について
なぜ記事が3つもあるのか必要性がはっきりしないことです。るがこむ 20:37 2003年7月15日 (UTC)
このページからリンクされた過去ログによると、Setuさんについては、「ブッダがつく名前にならば統一に賛成する」という意見でした。他に、別の記事でも泣く泣く我慢するかもしれないというようなこともかかれていましたが。条件付賛成でしたよ。記事分割も、対応決定までの間昔の状態に戻すためにおこなたそうなので、それほど変なことはしていないようです。
上の僕の意見の書き方はよくなかったです。僕は一人に対して複数の記事があることには賛成します。が、Setuさんの書き方だと、「人生の過程の名前の変遷に従い、その名前の期間の記事を書く。つなぎ合わせて全体の記事ができる」というようにも見えます。もし軸になる記事も無いままそうするならば、わかりにく過ぎます。(この方法を豊臣秀吉に適用したら・・・それはそれで面白そうですが。)ので、流石に賛成できません。
一人の人間が複数記事名を持ってもかまわないと考えられる場合
1.同一の人物に対する複数の名前の記事について ちょっと今回の問題と異なりますが、一人の人間が複数の名前を持っていて、それぞれの名前についての十分な長さの記事内容が存在する場合は、ひとつの記事の中で個々の名前を説明するよりも、個々の名前ごとに記事があるべきです。たとえば「医王」の記事が独立してあって、当時のインドの医師と医術の記述があればわかりやすい記事になると思います。しかし、釈迦の記事にそのようなことまで書いたら、普通に釈迦の記事を探す人には長くて不便な記事になるかもしれません。 このような複数記事は、基本的に軸になる主要な記事(今回でいうところの釈迦)の枝記事ですが。
2.ひとつの人物の生涯を複数の記事で書く場合 名前によって立場や視点の違いが明確にできる場合、または、特定の立場からは受け入れられない記事名に統一されそうな場合は、それぞれの記事の内容が異なる(似て非なる、あるいは、ぜんぜん別になる)ならば、一人に対して複数の名前が記事になっても良いと思います。 例えば、以前に「松本智津夫」「麻原彰晃」が使われていますが、「松本智津夫」の記事に日本人の1個人としての視点で記述し、「麻原彰晃」の記事に信者や元信者の立場でみた内容を記述する。リンクによって相互の内容がすぐに比較できるようになっていれば、複数記事を置く価値があると思います。ただし、記事を書き分けるわけですから、「書き分けなければならない理由」「書き分ける観点」が明らかになっていないと混乱するので、そこは書き分けて欲しいです。
1.にしろ2.にしろ、一人の人間に対する複数記事名をつけることは、記事の観点をしっかりと決めておけば、僕は問題ないと思います。
2.番を行うならば、Setuさんにおねがいがあります。Wikipediaは、「中立的な観点」で記事を書く事を求めています。「中立的な記事内容」ではありません。そして、立場の記述が求められています。Setuさんの記事は、どのような観点でかかれたものなのかがよくわかりません。(パーリ語あたりの記述からすると、上座部の伝承?を元にしているのでしょうか?)現在の記述を見える限り、どのような立場(観点)でかかれたものなのか、記述が何に依拠しているのかが不明確です。立場・観点を記述してもらえないでしょうか。i_t 18:06 2003年7月19日 (UTC)
Setuさんがお隠れで、埒があかないので、なし崩しになることを避けるため、ゴータマ・シッダッタとゴータマ・ブッダを釈迦にリダイレクトにしておきます。るがこむ 01:41 2003年7月25日 (UTC)
「シッダッタ」?
[編集]「シッダッタ」ってなんですか?聞いたことありません。「シッダルタ」または「シッダールタ」はあります。—以上の署名の無いコメントは、219.173.119.31(ノート/Whois)さんが[2004年4月4日 (日) 08:42 (UTC)]に投稿したものです。