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ノート:クリスマス・ファシズム

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編集意図説明

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この大幅編集につき、意図を説明します。
異例かつ蛇足ながら、最初に誤解の無いように私の立ち位置をお断り申し上げますが、本項目に挙げられている事象に対し、私も憂慮する者です。それは私の執筆領域からすればさもありなんと誰しも納得行かれる事と思います。クリスマスは神の子が生まれられた聖なる夜であって、性なる夜ではありません。大体、クリスマスの数日後には正教会カトリック教会聖嬰児の虐殺が記憶されます。イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)、生まれて直ぐの無名の赤子の頃に権力者に命を狙われるとは凄い降誕です。家族や友人と集まってささやかに祝うのなら兎も角、恋人と浮かれるというのは、ちょっとイメージと違う祝い方かと。その上で。
森見登美彦「太陽の塔」からの引用は削除しました。言及されている事については残しましたが。理由は幾つかあります。

  • 本記事に重要なのは主要参考文献となっている堀井憲一郎の見解の方であって、一小説の一部分は、概念への言及の一例に過ぎない。
  • 小説はあくまで小説であって、事典にここまでの引用は必要ない。
  • 記事の当該概念・事物が文学作品等に取り上げられた場合、「関連項目」に一行程度で記載されるのがふつう。一小説の大量引用しか書かれていないと、この小説以外に取り上げられた事の無い珍説であるかのような感すら想起させ得る。

また、内容にも様々な突っ込み所満載のものがあり、事典記事に必要な正確性を損なっているもの、中立的観点を欠いているものなどあり、「クリスマス・ファシズム」概念についての事典記事には到底不適当と言わざるを得ず、大量引用の必要を見出せません(どのように突っ込み所満載かは一々必要ないかとも思いましたが、一応以下に小さく指摘しておきます)。

  • 日本人がクリスマスを祝うという不条理には、この際目をつぶろう。」→目を瞑らなくても良いと思う人は居るのであって、事典に記載する必要もない譲歩です。
  • クリスマスと恋愛礼賛主義の悪しき習合」→恋愛礼賛主義とは聞き慣れない言葉ではありますが、「恋愛至上主義」は、かつてはお見合い結婚に対置された、プラトニックな純愛を意図する語彙でした。古めかしい文体を用いたりニーチェの隻句を引用したりする位なら、言葉の来歴まで踏み込んで欲しいものです。
  • ロシア的宿命主義」→ニーチェによるものですが、無検証に事典に掲載して良いものではありません。予定説を採らない正教会の優勢な地域の文学者・哲学者が悩んでいたのは「自由」すなわち「悪をなす人間の自由」という問題であり、少なくとも宿命主義は彼ら自身の文脈には出て来ません。フョードル・ドストエフスキーニコライ・ベルジャーエフを挙げれば例として充分と思います。
  • キリストの誕生日」→クリスマスがキリストの誕生日であるなどとは伝統的教会でも言いません。あくまで「降誕を記念する日」です。「約2000年前のこの日にお生まれになった」とは言わず、「今日私たちの間にお生まれになった」と言います。降誕祭の正教会の祈祷文でも「今日」という言葉が沢山出ていますので御確認下さい。現在形と結び付けられて使われている箇所も多く御座います。
  • 莫大なエネルギーが無駄な幻想に費やされて」→森見登美彦の個人的見解の一つとして記事「森見登美彦」に書くのはありかもしれませんが、「恋人達の乱れ狂い」を「無駄な幻想」と判断するかどうかは事典に記載する必要はありません(余談ですが、無宗教ジョルジュ・バタイユは、生殖という観点からだけみればそもそもセックス自体無駄だらけだといったようなことまで言っていますし、このような性の問題に対しては様々な見解が有り得るということです)。

今後の記事の方向性として、「クリスマス・ファシズム批判」を列挙するのではなく「クリスマス・ファシズムという概念とは如何なるものを指すのか」について述べるのが、百科事典的であると考えます。

なお、関連項目に「場の空気」を加えましたのは、「同調圧力」とほぼ同等の関連性があると考えた為です。--Kinno Angel 2010年10月17日 (日) 17:21 (UTC)[返信]