ノート:キョセ・ダグの戦い
移動について
[編集]項目名をキョセ・ダーの戦いからキョセ・ダグの戦いへ移動しました。
立項者の江戸ラーさんは林佳世子先生の『オスマン帝国500年の平和』を典拠として「キョセ・ダー」で記事を立てられました。確かに林佳世子先生の著書では「キョセ・ダーの戦い」と書かれていますし、Köse Dağ もトルコ語の発音と日本語のカナ転写に従えば最後の ğ は無声化して前接する母音 -a に吸収されて Dağ は「ダー」となってしまいますのでそれらの点については問題ないのですが、これは飽くまで現代トルコ語でのはなしでして、ルーム・セルジューク朝時代の発音に近い訳では無いようです。
例えば、セルジューク朝の始祖トゥグリル・ベクは現代トルコ語で表記し直しますとトルコ語版 Tuğrul に従えば「トゥールル・ベイ(Tuğrul Bey)」となってしまいます。1243年という年代は、オスマン朝の始祖のオスマン1世が出生したかどうかも定かならない時期ですし、林佳世子先生は飽くまでオスマン朝史ですので、ここはやはりルーム・セルジューク朝関係かその時代に近い分野の専門家の表記に従うべきだと思われます。
ルーム・セルジューク朝の歴史書としては、1280年にジュヴァイニーに献呈されたイブン・ビービーの『尊厳なる国事における尊厳なる命令(al-Awāmir al-ʿAlāʾīyah fī al-Umūr al-ʿAlāʾīyah)』や、1323年にイルハン朝のアブー・サイードの時代にルーム太守であったチョバン家のテムル・タシュに献呈されたアクサラーイーの『月夜史話と善き同行者(Musāmarat al-Akhbār wa Musāyarat al-Akhyār)』等が代表的ですが、イブン・ビービーでは كوسه داغ Kūsa Dāgh、アクサラーイーでは كوسه طاغ Kūsa Ṭāgh としているようです。イブン・ビービーの『尊厳なる命令』とほぼ同じ時期に著されたバル=ヘブラエウスの『諸王朝史略(Tārīkh Mukhtaṣar al-Duwal )』(アラビア語)でも كوساذاغ Kūsā Dhāgh と書かれています。テュルク語では強声の t 〜 d は交換し易いため、アラビア文字転写すると t 〜 ṭ 〜 d と表記がぶれ『集史』でも同一語彙で表記が揺れる事もままあります。同じく q 〜 γ も音韻の揺れに伴ってか転写も ق か غ に変化しますが、この時期はまだγ音( غ gh, ġ, ğ)は有声として残っていたため、「山」を意味するこの単語は、別の地名等でも طاق ṭāq という綴りもされていました。(例えばイルハン朝の夏営地のひとつアラタグは Alā-Tāgh, Alā-Ṭāgh, Alā-Ṭāq など)
さて、本項目についての論文としては、ルーム・セルジューク朝史等が専門である井谷鋼造先生が何篇かものされていますが、主なものとしては「「モンゴル侵入後のルーム」 (『東洋史研究 』39-2、1980年9月)、「イルハン国とルーム 」(『イスラム世界』 23・24合併号、1985年1月)、および「モンゴル軍のルーム侵攻について」(『オリエント』 31-2、p. 125-139、1988年)の3編ほどがあるでしょうか。井谷鋼造先生はイブン・ビービーを主な典拠としていずれも一貫して「キョセ・ダグ Köse Daǧ(Kūsā Dāgh)」と表記されています。特に最後の「モンゴル軍のルーム侵攻について」は本文後半のp.131-134がキョセ・ダグの戦いについての専論になっています。山川出版の世界各国史のシリーズ『西アジア2 イラン・トルコ』でも「キョセ・ダグ」と表記されていたと思います。
林佳世子先生の『オスマン帝国500年の平和』は、やはりオスマン朝の専門著書であり、飽くまでオスマン朝の前史としての扱いに過ぎませんが、井谷鋼造先生の諸論文ははルーム・セルジューク朝史の転換点としてこの戦いを中心的に取り上げていることから、典拠としては用いるには、やはり後者の井谷鋼造先生の表記を採用した方が(近い時代のセルジューク朝関連の音韻表記との整合性をとるためにも)相応しかろうと思います。
以上の理由もあり、リダイレクトもされていないことから、本項目をキョセ・ダーの戦いからキョセ・ダグの戦いへ移動した次第です。--Haydar(会話) 2012年3月9日 (金) 23:45 (UTC)