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ノート:カラケネ王国

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参考:他の項目にあるカラケネ王国の情報

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出典が明示され充実したWikipedia日本語版記事「パルミラ」の〈パルミラ#ローマ帝国時代〉節2023-10-31 05:14:49 (UTC)の版に、カラケネ王国について以下の記述がありましたので、参考情報としてご紹介しておきます。

1世紀初頭とされるパルミラ語碑文には、アレキサンデルというパルミラ人がローマ〔帝国〕の〔軍人〕ゲルマニクスにより派遣され、カラケネ王国カラケーネー[110]〈メセネマイシャン[111]〉[注 3]、紀元前2世紀後半-後3世紀初頭[114])の王オラブゼス1世 (Orabazes I) に使わされた〔※カラケネ王国のオラブゼス1世のもとへ遣わされた〕と記されており、パルミラはその当時には、ペルシア湾を通じてインド(インダス川周辺)との海上貿易が盛んなカラケネ との交易があったことが示唆される[115]。
また、紀元70年と見られるパルミラのアゴラ(取引場)付近の碑文に、カラケネの首都カラクス・スパシヌ(英語版)(スパシヌカラクス[116]、カラクス[117][118]〈現、ホラムシャハル付近[119]〉)から上ってきたパルミラ商人〔のこと〕が記されており[120]、1世紀中頃よりパルミラ人の基地としての商業植民地がカラケネのペルシア湾岸にあったとされる[107][121]。

また同記事の注3には、カラケネという名称について、次の記述があります。

〔呼称〕「カラケネ」はギリシア語によるカラケーネー (Characēnē) 、「メセネ」はアラム語によるメセーネー (Mesēnē) 地方[112] としてヨーロッパで用いられ、「マイシャン」はアラム語に基づくマイシャーン (Maišān) により西アジアで使用される[113]。

記述の主たる典拠は、いずれも専門の学者の手になる書籍で、小玉新次郎氏の三著(『パルミラ : 隊商都市』近藤出版社〈世界史研究双書〉(1980)、『隊商都市パルミラ』東京新聞出版局〈オリエント選書〉(1985)、『隊商都市パルミラの研究』同朋舎出版〈東洋史研究叢刊〉(1994))、および蔀勇造氏の『物語 アラビアの歴史』中公新書(2018), pp. 39, 44-45, 73-74, 108, 112. が挙げられています。どなたか出典に遡って、当記事「カラケネ王国」を加筆充実させてくださるとうれしいなと思います。--Yumoriy会話2023年12月15日 (金) 08:42 (UTC)[返信]