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ノート:オスマン帝国

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「オスマントルコ」という名称の否定について

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現在の記事では「”オスマントルコ”という呼称は正しくなく、使われなくなってきている」ということが冒頭から随分と強調されているが、専門家なり学会なりではそれが通説なのだろうか。少なくとも「オスマントルコ」が一般には馴染みがある呼称である以上、それを否定するのであればそれなりの出典明示を。例に英語版を見てみると「オスマントルコ」が普通に併記されており、特に否定されている様子はない。現状の内容では「トルコ人により支配されていた国家とは言えない」という(必ずしも議論が定まっていない)意見なり学説なりに拠る者の意向が強く働いているのではと訝ってしまう印象だが如何なものだろう--306E 2007年7月13日 (金) 18:15 (UTC)[返信]

私は専門家ではないので、系時的な厳密な動向は把握していませんが、およそここ20年の間に出版されたイスラーム史専門の歴史学研究者の書いた専門書、あるいは歴史学研究者が一般向けに研究内容をかみ砕いた啓蒙書ではほぼ「オスマントルコ」の表記の不適切さが言及され、「オスマン帝国」の表現が推奨されるという主張になっていますよ。また、前近代の王朝を現代的な視点で「○○民族の支配する国家」と見るのが不適切であることが多いことは、いまや歴史学の常識といってもよいかと思います。歴史学をとらえるフレームワークは、だいたい1970年代ごろに世界史も日本史も急激なパラダイムシフトにみまわれており、それ以前に書かれた著作やそれをベースにかかれた通俗書と、それ以後の研究をベースにした著作では、めまいがするぐらい概念や用語の変化が生じています。上記の強調はそういうパラダイムシフト以前と以後の視点の違いに関して念を押していると考えていいかと思います。また、英語版との乖離ですが、非西欧世界の世界史研究では西欧視点に偏った歴史観の是正が研究者から強く打ち出されていることが多く、それが欧米人の多くに共有される「通俗的常識」とはずいぶん乖離していることは少なくないのです。--ウミユスリカ 2007年7月13日 (金) 23:28 (UTC)[返信]


東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるが正式国号はローマ帝国であり、オランダの正式国号はネーデルラント王国であり、他の国についても現地語ではなく英語になっておりポルスカ共和国(ポーランド共和国) ラッシーヤ連邦(ロシア連邦)、エステルライヒ(エースターライヒともいう)共和国(オーストリア共和国)、テュルキエ共和国(トルコ共和国)と呼ぶと何が何なのかよくわからなくなってしまいます。 イギリスすらもイギリスではブリテン、連合王国、イングランドと呼び、正確なものではありません。 ギリシャをギリシア、ペルシャをペルシアと書いたりして、さまざまな呼称が混在して、名称は一概にどれが正しいとは言い切れません。 私としてはイスラム系の国家の名称について、セルジュークトルコ帝国やオスマントルコ帝国、 ブワイフ朝ペルシャ帝国、サファビー朝ペルシャ帝国、カージャール朝ペルシャ帝国(シャーは皇帝とした)と呼んだり、 イスラム帝国では意味が広くなりやすいので、サラセン帝国を用いて、アッバース朝はアッバース朝サラセン帝国と呼んだ方が良いと思います。 セルジュークトルコ帝国やオスマントルコ帝国は支配層がトルコ人で、 ペルシャ帝国はシャーの称号と支配地域、主にペルシャ人の国からである。(シャーを皇帝、シャーハンシャーは大帝と訳す。) たとえ支配層が民族や文化的に異なっていても、支配領域は現在の国ではどこの位置にあたるか、また民族は異なっていても基本的にはどこの国の流れなのかがわかるほうが良いと思います。 最近の高校の歴史教科書では現地呼称や厳密さに重点が置かれていますが、本来なら歴史を書いているものは他を完全否定するのではなく、 もう少し多く他の説を書いたり、別の分類を載せたり、さまざまな名称を併記するというのが妥当ではないでしょうか。 歴史を書く時には実際の国号も記し、日本語的に名称を記したり、さまざまな国からの呼び方、歴史的な呼び方を記し、あまりにもおかしなものでなければ昔の誤りでも誤りとして記すことは大切だと思います。 --Pikapika 2008年7月3日 (木) 14:50 (UTC)[返信]

なにをおっしゃりたいのか意味不明です.原語表記の問題と過去のイスラーム王朝に対する呼称,さらにそれを構成する民族の問題などがぐちゃぐちゃです.たとえばひとつとっても「たとえ支配層が民族や文化的に異なっていても、支配領域は現在の国ではどこの位置にあたるか、また民族は異なっていても基本的にはどこの国の流れなのかがわかるほうが良い」とするなら,領域と民族とどちらをとるのでしょう.また現在の領域と過去の領域は当然ことなるわけですが,どのように解決するのでしょうか.支配層に着目するならガージャール朝はトルコマーン帝国になるでしょうし、領域に着目するならセルジュークトルコ帝国はかなり失当となります。ルーム・セルジューク朝とかサーマーン朝とかガズナ朝とかブー・サイード朝とかどうするんでしょうか。トルコなら支配層に着目し、ペルシアなら称号と支配地域に着目すべき理由がよくわかりません。サラセンにいたってはどういう意味をもつかはおわかりなのでしょうか。端的に言ってある王朝がある名前で特定できればいいのであって、わざわざ余計なものをくっつける必要性を感じません。オスマン帝国ですらどちらかといえばオスマン朝のほうがよいとおもっています。ともあれ、もうすこし独自研究というか思いつきでないご提案を筋道立ててご提案くださったほうが議論が進むように思えますが。--Kotoito 2008年7月5日 (土) 19:39 (UTC)[返信]

前回の説明がわかりにくくなってしまいました。国の呼び方について議論したかったのです。確かに王朝は王朝名でいいとですが、国の名称としてはかつての外国からの呼称と日本での旧来呼ばれている呼称、現地での呼称のどれかを否定するのではなく、どれも説明を入れて併記するという方法がいいと思います。パフレビー朝がペルシャからイランに国号を変えたというようにペルシャという対外的な国家の呼び方がありました。繰り返しますがポーランドやイギリス、特にオランダはネーデルラントであって正確ではないのでどうするのですか。また東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれていますが通称で、その上正式国号はローマ帝国です。セルジュークトルコ帝国は広辞苑第5版に書いてあり、オスマントルコ帝国やサラセン帝国は旧来の通称です。王朝の名称を国として取り扱うのが正しいのでしょうが露土戦争、伊土戦争、挨土戦争の名称から明らかにオスマン朝を外国はトルコ帝国と考えていたのです。歴史的な国家間の関係上無視する事はできないでしょう。通称はどう取り扱うのですか。ここで取り上げるのは間違いかもしれませんがお願いします。--Pikapika 2008年7月6日 (日) 12:56 (UTC)[返信]

日本の旧来の名称はヨーロッパ的歴史観の輸入が多く、名称が必ずしも適当であるか疑問です。--Popons 2008年11月9日 (日) 02:19 (UTC)[返信]

位置画像に説明を

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大帝国というものは生成-発展-衰微の過程で領土の位置と大きさが極端に変化するのがほとんどだと思います。「過去の国」の「基礎情報」テンプレート内で使われているオスマン帝国の位置画像、いったいいつの時代の領域を示すものでしょうか。別図の「オスマン帝国の勢力拡大」の最大版図とも微妙に違います。できればご説明を。--218.110.164.9 2007年12月13日 (木) 23:09 (UTC)ゴンベイ[返信]

キプロスの占領の年号ですが

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些細なことなのです。 レパントの海戦の後で、キプロスを領有したように書いてありますが、キプロスをオスマントルコが攻めたのは1570~71年で、1571年(レパントの海戦前)には最後まで抵抗を続けていた都市ファマグスタが陥落しています。レパントの海戦自体が、オスマントルコのキプロス侵攻に対する反抗を意図して結成されたヨーロッパ連合艦隊と、トルコ艦隊の戦いであったはずです。 もしかすると、戦争相手国であったヴェネツィアとの約定が結ばれた年号を重視されたのかもしれせんが、トルコ史関連の歴史書等では、一般的にはキプロス征服年号は1571年と書かれていることが多いと思います。 その点はどう解釈されていらっしゃるのでしょうか? --219.190.16.38 2008年6月11日 (水) 12:52 (UTC)[返信]

首都の書き換えについて

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「基礎情報 過去の国」テンプレート内の首都の項目を2012年1月4日 (水) 13:21の版に戻しました。2015年11月3日 (火) 09:55‎までの「首都」の項目の内容は複数のユーザーによって典拠を付加することなく行われた、Wikipedia:検証可能性を満たさない編集であり([1][2])、近年刊行された『世界地名大事典』3巻(朝倉書店, 2012年11月)の「イェニシェヒル」「イネギョル」の項目でもそれらの都市がオスマン帝国の首都とされていた記述は確認できません。--オオミズナギドリ会話2015年11月7日 (土) 14:02 (UTC)[返信]